第24話 焦燥
闇夜の街を疾走する。
身体はすっかり冷えてしまった。矢を受けた太腿からも、未だに血が流れ続けている。
このまま戦闘に入るのは良くない。柑奈は理解していたが、どうしようもなかった。
一分一秒が運命を左右する――そうしたことは決して珍しくないし、実際に多くの最期と幸運を見てきた。
自分が苦難を舐めるだけでいいのなら、やはり風を切って進む以外はなかった。とにかく間に合わなければ意味がない。
後数分でアパートに到着する。
その少しの時間で、橋での戦いを思い返した。奴らの縄張りの端の方とはいえ、あれほどの攻撃を仕掛けておいて何故手を止めたのか。
答えは二つ。被害を回避したか、目標を達成したかだろう。
(くそっ)
柑奈は一つ前の区画でバイクを降りた。
入り口に乗り付けるか悩んだが、やはり待ち伏せのリスクは回避せざるを得なかった。
出発前に装備をチェックする――残数の少ないマガジンから矢を抜き、残りのマガジンに振り分けた。これで残り八本のマガジンが一つと四本のマガジンの二つ。空のマガジンはバイクの横に棄てた。
走り始めるとアドレナリンが放出され始めたのか、再び太腿の痛みは気にならなくなった。しかし、出血しているという事実は変わらず、消毒と止血の必要性が頭に過ぎる。
(大丈夫。問題ない)
繰り返し自分に言い聞かせるようにして、冷たいアスファルトを踏み込んだ。
しばらくすると、流れ出た血は白い脚を伝って靴の中に不快感を溜め始めた。足元からせり上がる気持ちの悪さが不安を生み出し、さらに柑奈の足を早くする。
街の中を走る中で、どこからか聞こえてくる人々の話し声や車のエンジン音が、柑奈の神経を逆撫でた。
数分後、アパートの面した通りが見えてきた――この先、建物を左に曲がって四〇メートル先にアパートがある。
柑奈は建物の角で足を止め、周囲を警戒しつつ荒くなった呼吸を整えた。
ここまで行く手を阻む者は現れなかった。このまま何もなければいい。いつものように寝ぼけまなこで出迎えてくれたら、いったいどれほど嬉しいか――。
(――!)
ガラスが割れた音、その異変を耳が拾った。アパートの上階の方からだ。
建物の陰から通りを覗くと、アパートの屋上からロープらしきものが垂れ下がって揺れていた――ロープの先は、間違いなく自分の部屋だった。
視線を下げると、入り口には見慣れない男が二人。体格の良さからまともな奴ではないと判断し、柑奈は躊躇なくトリガーを引いた。
矢は十分の三秒後に男の側頭部を射抜いた。男の首が横に折れ曲がり、力を失くして膝から倒れていく――その間に柑奈はリロードを終え、隣の男に照準を合わせる。
隣の男は突然倒れた男を見下ろし、刺さった矢を確認した時には、その男の頭もお揃いとなった。
まだ仲間がいる可能性があったが、柑奈は一気に四〇メートルを駆け抜けた。頭の中には、慎重に行くという選択肢は既に消え失せていた。
入口周辺には誰もおらず、ガラスドアの向こうにも人影はない。暖かい色の照明に照らされた空間が続いているだけ――いつもの光景だ。もしかしたら、住人たちは異変を察知して引っ込んでいるのかもしれない。
重なり合って倒れている男たちの横を通り、ガラスドアをくぐる。急ぎ階段へ向かおうとすると、また上階から異常を知らせる音が聞こえてきた。
タタタタ――と速く短い連続的な音。それは、映画などで聞いた銃声そのものだった。
柑奈は一瞬足を止め、またすぐに走り始める。
階段に足を掛けたところでまた銃声。今度は三発だった。戦闘が続いている――。
(間に合え……間に合ってくれ!)
一階から二階、二階から三階へと駆け上る――一歩ごとに血が滴り、木目調の階段に赤い斑点を残していく。
自宅のある四階まであと三段というところで、上階から足音が響いた。
(二人か……)
階段の途中で屈み、クロスボウを構える。
足音は慌てるように駆け下りて来ていたが、柑奈にはじれったかった。
(さっさと来い――)
すぐに男たちが現れた。黒っぽい迷彩服にヘルメット。顔は目出し帽で隠している。そして手にはサブマシンガン――軍人の証。
前を行く男の頭部が射線に入った――放たれた矢は頬から脳天を貫通し、ヘルメットを少し浮かした。
柑奈は次をリロードせず、階段を二歩で上りきり、二人目の男に迫る。
男が柑奈に気付き、短い銃口を向ける――柑奈はそれを躱し、懐に潜りながら銃を持つ男の右手首あたりを左手で掴む。さらに右手で腰のベルトを掴み、背負い投げの要領で階段へ投げ落とした。
男は身体を階段に強く打ち、二度跳ねて踊り場に転げ落ちる――それを見ながらリロードを終え、手を突いて身体を起こそうとする男のうなじを悠々と射抜いた。
柑奈は、二つの死体に視線を流すようにしてから大きく息を吐く。
全ての怒りを矢に乗せて、物言わぬ足元の男に撃ち込みたい――そんな激情に駆られたが、実行しない程度にはまだ冷静だった。
廊下を進み、自分の部屋の前に立つ。
ドアは開いている。正確には、ひしゃげた状態で玄関に横たわっていた。
玄関の横には、破壊に使ったと思しき八〇センチメートルほどの円筒状の物体もある。軍や警察が使う、ドアを破壊するツールだ。
鼓動が激しく胸を打つ。
明かりは点いたままだが、中からは物音ひとつしない。
(チカは、シュリは……?)
クロスボウを構え、ドアだった物体を静かに踏み越えて玄関から廊下へ。
すると、廊下の先の右奥に投げ出された腕が見えた。
先ほど殺した男たちと同じ服装。一目で二人ものではないと分かる。しかし、それでも柑奈の心臓を冷たくさせた。
クロスボウを支える左手に力が入る――同時に弱々しい空気の流れが頬を撫で、柑奈の鼻に妙な匂いを運んだ。
花火の煙のような、鼻につんとくる異臭とチーズを焼いたような匂い。さらに、嗅ぎ慣れた血の匂いを嗅覚が拾う。
頭がおかしくなりそうだった。それでも足を右、左、右と出して進んだ。そして廊下の終わりで足を止め、耳を澄まして全神経を壁の向こうに傾けた。
ふぅ、ふぅ――と細い息。
柑奈は我慢できずリビングを覗く。
そこには穏やかな空間があった、はずだった。
朝、カーテンの隙間から入る陽光。寝息とあくび。部屋の隅には読み終えた古本の山。皿を鳴らすスプーンの音。控え目な笑い声――。
半日前まであったささやかな幸せは、まるで過去のものになっていた。
目の前には引っくり返った椅子と破壊されたテーブル。弾痕が刻まれたソファ。床にはフライパンと割れた皿。それから散乱しているクリーム色のソースとパスタ。あちこちに転がる八つの死体と夥しい血。
そんな悪夢のような空間に、シュリがただ一人いた。
血塗れのシュリは苦しそうにソファにもたれ掛かり、脇腹と右の腿を両手でそれぞれ抑えている。
「シュリ!」
柑奈は叫び、飛び付くように駆け寄った。
顔を上げたシュリの端正な顔は血に汚れている。乱雑に赤に染められた全身のほとんどは返り血のようだったが、手で抑えている二ヶ所の服が酷く血を吸っていた。負傷しているのは明らかだった。
「お嬢……」
「黙って!」
チカが見当たらないことを気にしつつ、救急キットを取りに行こうと立ち上がる――すると、シュリに呼び止められた。
「チカが攫われた」
「な――」
一言で思考が停止し、言葉を失った。
「屋上だ。早く行け。……私は大丈夫だ。自分でどうにかする」
「大丈夫って……くそっ。とりあえずキットだけ取ってくるから――」
割れた窓の外から異音。昼に聞いた運搬用ドローンに似た、ローターの鋭い回転音だ。方向はアパートの上空というより、ほとんど屋上に感じる。
柑奈はクロスボウを構えて警戒する――が、音はすぐに遠くへ離れていった。
窓際から上空を窺うと、闇に消えていく大型ドローンの影。街でも見かけるタイプだ。
柑奈はクロスボウをドローンに向けたが、己の無意味な行為に舌打ちしてすぐに下ろした。
(あれで来て、チカを乗せていった?)
襲撃者はここに八人、自分が殺したのが四人。ドローンに乗せられるであろう人数と合致する。軍の輸送ヘリを使わなかったのは、ここに存在した事実を隠蔽するために違いない――ともすれば、まもなく「銃声を聞いた」といった通報を受けた体で、隠蔽のために部隊がやってくるだろう。
柑奈は怒りと焦りを抑え込み、シュリに向き直す。
「シュリ、応急処置したらすぐにここを出よう」
「くっ……そうですね」
状況を察したシュリが、いつも通りの丁寧語で答える。それを聞いて、柑奈はすこし落ち着けた。
タンスから救急キットを取ってきて、シュリの血で重くなった服をまくり上げる。すると、赤く染まった腹部の右の方に赤黒い小さな点を見つけた。
「腹と腿に一発ずつ。処置の方法は分かりますか?」
「やれる」
柑奈は過去に教えられた銃創の対処を記憶から引っ張り出し、すぐさま処置を開始した。
消毒液で患部を洗い流しながら身体を探る――銃創の背中側に似たような傷穴。貫通しているようだったが、破片が体内にあるのなら取り除く必要がある。
「どっちも止血しちゃってください。脚は……この際、義足にしてもいいし」
「……分かった。カッコいいのにしてもらって」
それからすぐに、キットから取り出した注射器に止血用の特殊なジェルを注入した。これを銃創内に注げば、とりあえずは止血できる。
「やるよ。これでも握ってて」
「優しくお願いしますよ」
クッションを渡し、傷口に注射器をあてがう。痛みが走ったのか、シュリがきつくクッションを抱いた――柑奈は自分を落ち着かせるように静かに息を吐いてから、慎重に注射器を血の湧き出る穴へ差し入れていく。
「……っ」
「もう少し」
体内にジェルを注入しながら抜き、反対側からもジェルを注ぐ。次にズボンの患部の辺りをハサミで切り取り、そちらにも同様に処置した。
二ヶ所ともすぐに血は止まったが、まだ安心はできない。早く医者に連れて行かなければいけない。
「終わったよ。準備してくる」
シュリはどっと息を吐き出し、柑奈はシュリの返事を待たず動き出した。
急いで寝室へ行き、ベッドの下から楽器ケースとラケタの箱を引っ張り出す。それからリュックサックにラケタの箱を入るだけ突っ込んだ。
シュリのもとへ戻る途中、テーブルの残骸の影にナイフを見つけて拾い上げた。
(これは……チカに預けたナイフ――)
刃に着いた血を見たその瞬間、抑えていた感情が一気に煮え滾り、衝動的にナイフを左手に向かって振り上げる――。
「カンナ!」
「――!」
「まだ終わっちゃいない」
柑奈は一度だけ頷き、ナイフの血を上着で拭ってリュックサックに仕舞った。
そして楽器ケースを手に持ち、リュックは前に抱えると、シュリに背を向けて膝を突いた。
「おぶるよ。ほら」
「はあ。まさか、あのカンナちゃんに背負われることになるとはね」
「馬鹿言ってないで早く」
シュリは鈍い動きで柑奈の背に身を任せる――柑奈はその重さにチカを匿った日の夜を、温もりに今日を思い出した。
自分に課した責任を果たせなかった――いや、まだだ。シュリの言う通り、確かにまだ終わっていない。軍の連中は、わざわざ攫ったのだ。諦めるには早すぎる。
血の滴る脚に力を入れて一歩踏み出すと、シュリがぽつりと言った。
「今日、二人が出ていく時の会話、覚えてます?」
「……? 私とチカが似てないみたいな話?」
「そうそれ。あの時、思い出してはいたんですよ。可愛くないガキの顔をね……あいつときたら死んだ顔をしてるのに、眼だけはドス黒く煮えていて」
「……」
初めて会った時のことだとすぐに理解できた。全てを失った事件から日が経っておらず、激しい憎悪のおかげで生きる力を保っていた頃だ。
「まったく、なんて奴を押し付けてくれたんだって思ったもんですよ」
「だろうね。よく放り投げなかったと思うよ」
「そうですよ。私のおかげで可愛いカンナちゃんになったわけです」
あの頃のシュリは、今とは違って乱暴な言葉で接してきていた。こちらが無視しようがお構いなしに絡んできて、やがて口を利けるようになると、今度は何かとからかってきたものだった。
「……感謝はしてるよ。シュリがいなかったら、今の私はいない」
柑奈の言葉に、シュリは弱々しく「はは」と笑う。
「お嬢とチカがそれだってことです。拾った命、責任をもって面倒を見てやんないと」
「分かってる。必ず救い出して、落とし前はつけさせる」
そして、こんな世界とは遠い場所で平穏な生活を享受してもらう。
そのためには、手段は選ばない。
柑奈は通りに出てすぐ、お人好しの一般人が運転する車を捕まえた。
そして金を握らせ目的地に急がせると、そこには先客がいた。いや、先客がいることは予想していた。
しかし、それが見知った人間だとは思ってもみなかった。




