第23話 家
柑奈の部屋には、チーズや卵の芳醇な香りが立ち込めていた。
「――よし、完成だな」
「うん!」
フライパンの上で湯気と共に食欲をそそる香りを放つカルボナーラを見て、シュリとチカは満足そうに頷く。
するとシュリが、クリーム色のソースがたっぷり絡んだパスタを一本ずつスプーンに取り分けた。
二人はごくりと生唾を飲み込み、少しばかり緊張しながらスプーンを口に運んだ。
「……私たちは、とんでもないモノを作っちまったのかもしれないな」
「うん……」
フライパンにそっと蓋をして、テーブルの中央に置く。それから二人は向かい合って席に着き、同時に壁の時計に顔を向けた。長い針は「7」を回っている――。
柑奈と別れた後、チカは電撃的な閃きを得た。
あの変な女の相手をして――もしかしたら一仕事を終えて帰ってきた時に、おいしい夕ご飯があったらきっと喜んでくれるはず。疲れだって吹き飛ぶに違いない。
それから一緒に食べてお腹がいっぱいになったら、声に出して伝えるのだ。
ありがとう――今まで言えなかった、とても大切な言葉。
何せ、カンナにはたくさんもらった。あたたかい場所、あたたかい食事、あたたかい時間、そしてきれいな名前――お礼くらいちゃんと言わないといけない。
チカは完璧なプランだと確信して、家に帰ると早速ネットでレシピを調べてシュリと一緒に作り始めた。
そして見事に完成させ、あとは柑奈の帰りを待つだけとなっていた。
「遅いね」
「そろそろ帰ってくるさ」
オリガから接触を受けたことについて、シュリはまったく心配していなかった。柑奈はナイフ一本しか携帯していないが、オリガも以前持っていた武器を持っていないらしい。なら、荒事にはならないだろう、と。それは柑奈と同じ判断だった。
それに、簡単に罠に嵌る二流でもない。イレギュラーがあれば連絡をしてくるだろうが、現状はそうした事態など考えられなかった。
「ねえ、カンナのお母さんとお父さんってどこにいるの?」
唐突な質問に、シュリは一瞬固まる。逡巡し、チカが求めているものだけを話すことにした。
「いない。あいつには義理の父親と世話焼きのシュリお姉さんがいるだけだ」
「二人って姉妹なの? 似てないけど」
「違う違う。私も家族はいない。小さい頃に親がどっかに消えて、街で不良やってたらボスに拾われたんだよ。その後しばらくしてチビカンナが養子に迎えられて、私が世話係を押し付けられたってワケ。姉で友だちって感じだな」
チカが視線を落とし、一言呟く。
「みんな、一人だね」
「そうだな」
シュリの返事を最後に沈黙が続いて少しした時、チカの耳が玄関の方から床をする微かな音を拾った。
「帰ってきた!」
「ん、やっとか」
チカが勢いよく席を立って玄関へ駆け出した。細い廊下を進んでドアの前に立ち、かるく深呼吸――そこで、違和感が胸に差し込んだ。
柑奈が帰ってくる時、ドアの前で長く黙っていることは一度もなかった。決まったリズムでノックし、チカがドアスコープを覗いて確認する。それがない。
敵と断定したチカの目つきがすっと変わり、腰のナイフに自然と手が伸びる。
(何人いる?)
確認手段はドアスコープかドアを開けるだけ。カメラも備え付けのものがあるが、万が一ハッキングされた場合に備えて潰してある。
複数人に雪崩れ込まれたら、先頭の一人はどうにかできても後続にやられてしまう。チカはあえて確認せず、そのまま音を立てないよう注意して後退することにした。
細い廊下を抜けてリビングに戻った。耳を澄ますが動きは感じられない――チカがシュリに視線をやると、既に二本のククリナイフを抜いていた。
「シュリお姉さんのナイフ講座といきますか」
シュリが軽口を囁き、チカは一段と表情を鋭くさせる。
(殺し屋?)
彷徨い歩いたあの十日間あまり、チカは二〇人を越える男たちを殺害した。しかし、経験豊富なプロの殺し屋である柑奈には敵わなかった。
もし柑奈のような殺し屋が何人も現れたら――それでも切り抜けなければいけない。
チカは右手に握った新品のようにきれいな黒いナイフを見た。あの日借りたナイフは、以来血を吸うこともなくチカのお守りのようになっていた。
とは言え、手入れはしてあるし、手に馴染ませるために訓練も欠かさなかった。
(ここが私の場所……)
静寂に包まれた部屋に、時を刻む針の音が控えめに響く。
チッ、チッ、チッ、チッ――。
七時二九分四〇秒――。
(いい時間……)
チカは意識を張り巡らせる。
チッ、チッ、チッ、チッ――。
(来る)
チッ、チッ、チッ……七時三〇分――分針が真下を指したと同時に、背後の窓が激しい音をたてて割れた。
飛散する窓ガラスと共に現れたのは、顔を目出し帽で隠した男たち三人。脇に抱えているのはサブマシンガン。黒っぽい迷彩服の上に、ボディアーマーを着用している――チカは、それが防刃性能の高い装備であると一目で把握した。
二人はほとんど反射的に判断し、チカは右から、シュリは左からガラス片が落ちきる前に動き出していた。
チカは手が床に着くほどの低い姿勢で迫り、男たちが着地する頃には二メートルの距離にいた。
手前の男が銃口を向ける――チカはそれを搔い潜り、男の右手首を切り裂いた。下がろうとする男の襟に手を掛け、よじ登るようにしながら首の動脈にナイフを突き刺し横に引く。
血を吹きながら倒れゆく男の向こうにはシュリと大柄な男が対峙しており、その足元には首のない死体が転がっていた。
背後で落雷のような衝突音――ドアが破られた。刃についた血をぬぐい、玄関の方を睨む。
ここが、ここだけが私の帰る場所。
絶対に、壊させはしない。




