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第18話 愚者の行進

 柑奈たちが追いかけっこをしていたその頃――ジャージ女ことオリガ・ロトキナは、硬いベッドの上で憂鬱な顔をして横になっていた。

 場所は横浜市内にある小さな安ホテルで、部屋のランクは一番下のスタンダード。建物の隅の部屋で隣室は空いている。

 それらは身の安全を確保するための部屋選びで、オリガはこうしたホテルの部屋を一週間おきに転々としていた。

「はあ……」

 わざとらしくついたため息は、つまらない白い壁が受け止めた。

 今いるホテルで一六件目――つまり、オリガが仕事を受けて日本に降り立ってから、既に四ヵ月近くが経っていた。

 柑奈には「まだこっちには疎い」と言ったが、それは平然と吐いた真っ赤な嘘。

 あの時点で横浜とその周辺のマップは、既に完璧に頭に入っていた。だからこそ、柑奈を追跡できたし奇襲も行えた。

 しかし、監視すべき対象となった柑奈を最後に確認したのは、既に一ヶ月も前になる。情報はいくらかあるが、十分に失態と言えた。

「……」

 ベッド脇に置かれた、樹脂製の簡素な椅子を横目に見て舌打ちをする。

 椅子の上には二つ。ミネラルウォーターのペットボトルと、いかにも頑丈さを重視した携帯端末――そろそろだ。あのいけ好かない男から定時連絡がくる。

 オリガは苛立ちを鎮めようとミネラルウォーターに手を伸ばす――が、携帯端末の刻むリズミカルな振動がその手を止めた。

 盗撮を疑い部屋を見渡す――あり得ない、と頭を振って何度目かのため息をつき、それから電話にでた。

「こちらロトキナ、今はホテルの部屋にいる」

『状況を報告しろ』

 にべもない言い方に、オリガは一瞬むっとして答える。

「竜胆柑奈に関しては変わらず捕捉できていない」

『まったく』

 電話越しのため息――オリガは端末をへし折って粉々にしたくなったが、その衝動をどうにか抑えた。

「横浜市内であることは分かってる。でも、あたし一人じゃ運任せだ」

『だとしても、それをやるのがお前の仕事だ。いいな、生死は問わない。必ず奴らより早く確保しろ』

「りょーかい」

 オリガは雑な返事をして乱暴に通話を切った。

 直属の上司と部下でもないのに飼い主面をする。自分が人の上に立って命令することを、当然と思っているに違いない。

 いつかあの顔面を叩き潰してやろう、とオリガはほくそ笑む。

 ともかくとして、時間が迫っているのは確かなようだった。

 ネットの匿名掲示板では、数日前から政府と軍の対立について盛んに語られている。多くは軍よりの内容で、いかに現政府が腐っているかという真偽不明の情報と共にPPの支配からの脱却論が拡散され、クーデターを期待する声まである。

 十中八九情報操作だ。国民を味方につけ、クーデター後の政治を円滑に運びたいのだろう。

 面倒な事態になる前に急がなければいけない――。

「よっと」

 勢いをつけてベッドから起き上がる。

 腹も減ってきた頃合いだ。ちょうどいい。

 オリガは腹をさすって勘を頼りに部屋を出た。


 スーパーマーケットの自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が二人を包んだ。

 冷気と共に流れてきた楽しげな音楽が、チカの表情を緩ませる。一方の柑奈は店の見取り図を見つけ、それを頭に叩き込んでいく。

 この店は初めて利用する。

 小規模で駅から徒歩三〇分という、ほとんど住宅地にある店だ。この辺りは比較的に治安が良く、また近隣の住民が利用する色が濃い。

 そのため堅気でない人間がいれば目立ち、すぐに気付けるという算段が柑奈にはあった。

 見取り図を覚え終わると、柑奈は携帯端末をポケットから取り出し検索をかけた。

 キーワードは『おいしいカルボナーラの作り方』――きれいな眉間に皺が寄る。

「卵、ベーコン、生クリーム……大さじ? 塩、少々? ――こら、勝手に行くな」

「うっ」

 いつのまにかカゴを取り、ひとり奥へ行こうとしたチカの襟首を掴むと小さく呻いた。

 チカは咳き込みながらも嬉しそうにする。

「早く行こっ」

「まったく……あんまりはしゃいでると転ぶよ。ずいぶん狭いみたいだからね」

 棚と棚の間はカート一台が通るので精一杯で、人がすれ違うのにも肩を避ける必要がありそうなほど。

 それに夕方前という時間がまずかったのか、店内はよく賑わっていた。

「どこから行くの?」

「そうだね、まずは――」

 それから二人は塩やオリーブオイルといった調味料、パスタ、生卵、それから菓子売り場に寄り道をして、最後にベーコンを求めて肉売り場に辿り着いた。

「たくさんだねぇ」

「……」

 ケースの中には国産、アメリカ産、ドイツ産……スライスされたものもあれば、ブロック状のものもある。よく見れば名称も様々で、ショルダーベーコンにロースベーコン、表面が黒い怪しげなものまであって、柑奈には何がなんだかさっぱり分からなかった。

「どれを買うの?」

「……一番高いやつを」

 良いもので作れば大概はおいしくなるだろう。

 そして、柑奈は肉たちの上でしばらく手を迷わせた後、レンガのような塊のベーコンを手に取った。

 値段は五桁に迫る。

「おお。さすが一流のころ――」

「!」

 べち、と仕事中でもそう聞かない気持ちの悪い音。小さな口を塞ぐために動いた手には、肉が握られていた。

 チカは心底嫌な顔をして口元を拭う。

「ひどいよ……あ、こっちのほうがいいんじゃない?」

「パンチェッタ?」

「イタリアっぽいでしょ?」

 そのスライスされた四枚のベーコンは、柑奈の目にはやはり他と何が違うのか分からない。ただ、自分が手にしたものと比べれば、そちらのほうが適量であることは間違いなかった。

「それも買おう」

 乱暴に扱ってしまった肉と共に正解の肉をチカの持つカゴに入れ、行列を作っているレジへ向かう――。

 買い物中に見た客は、ほとんどが女性で子供連れも少なくなかった。

 その光景を見て柑奈は過去の記憶を思い出し、郷愁と悲しみを胸に覚えた。しかしチカには、そういったことは全くないようだった。

 街を歩いている時もそうだ。柑奈は何か刺激があればいいと思っていたが、身元調査という意味では当てが外れた形となった。

(施設とかいう場所に行けば何か分かるか? せめて名前か家族の所在くらいは……)

 柑奈は考え事をしながらも、周囲の注意を怠らなかった。

 二人は冷凍食品売り場、生活用品売り場を通り過ぎ、やがて総菜売り場が見えてきた――その時、行き交う客の間に見知ったジャージの後ろ姿を視界に捉えた。

「あの人、すっごい食べてる。恥ずかしいね」

 チカが言うが早いか、柑奈は小さな肩に手を回し、商品棚の陰に押し込む。

 ジャージ女は、試食コーナーで細切れにされた何かを次々と口に運びながら、頷いたり首を傾げたりしている。

 その姿は、まるで品評会でも行っているかのようだった。

「な、なに? どうしたの?」

 柑奈は自分の口に人差し指を当て、静かにするよう促す。

 するとチカは緊張を察し、瞬時に鋭利な空気を纏った。子供らしくない反応の良さに、柑奈は一瞬顔を顰めつつも周囲の状況に集中する――。

 あまりにも隙だらけな、有り体に言えば間抜けな姿だった。注意を払っている様子もなく、例のバックパックも背負っていなかった。

 しかし警戒を解くことはできない。一度目の遭遇は勘とは言え、考えあっての行動だった。二度目はこちらの行動パターンを抑えられていた。

 この三度目だけが、まったくの偶然と考えるのは都合が良すぎるだろう。何せ数ある小売店や飲食店の中で、今日この時間に二人の殺し屋が同じ場所にいるのだ。きっと何かしらの理由、要因があるはず。

(……チームで来てはいない、か)

 店に入る前からここまで、不審な者は確認できなかった。

 そもそもフリーの殺し屋だ。今回も単独と考えていいだろう。もちろん、フリーというのが嘘でなければだが。

 柑奈は右手で腰のナイフの感触を確かめつつ左手をチカの背中に添え、そして静かにその場を離れた。


 ――見つけた。

 オリガは自身を指差す気配と、棚の陰に消えていくジャケットの裾を見逃さなかった。

 ようやく努力が実を結んだ。柑奈が自宅にしているホテルを出た後、ぱたりと足取りが途絶え、オリガはすぐに行動を開始した。

 まずは、街を走り回る配送業者のドライバー数人を買収。彼らには連絡用のメールアドレスを教え、もし見つけたら日時と場所だけ送るように指示を出し、余計なことをしないよう釘も刺した。それ以外の行動をしたら殺す――と。

 少しずつ情報が集まり、この街に潜んでいる可能性が高いというところまで絞った。そこからは目撃された近辺のコンビニエンスストアや飲食店を、自らの足で曜日と時刻を合わせて訪ねる――執念深く丁寧に遂行した。だが、こうした探偵だか諜報員のような真似事には辟易していた。自分の本分は殺し屋。破壊し、すり潰すのが仕事だと。

 ともかく続けた結果、確かな収穫を得た。それは、どこの店の従業員も複数回は見ていないということ。

 監視や襲撃といったリスクを意識しているのは明らか。ならば――と、目撃情報のない地区をマークしていき、今日はこのスーパーマーケットまで間食がてらにと足を運んだのだった。

(笑えるな)

 自分のカンの良さと柑奈の運の悪さに、オリガは「へへっ」と笑う。

 店のマップは頭に入っている。追跡は得意だ。柑奈もそうだろう。だからこそ、どう動くか予想できる。

 オリガは出入り口を視界に収めつつ、柑奈が消えた方向へ移動していく――行き止まりのない迷路のようになっている店内は、圧倒的に逃走者のほうが有利だ。しかも多くの人が往来しているため騒がしく、さらには音楽まで掛かっている。

 この環境下で殺し屋を追跡するのは、生か死かという緊張が伴う。いつ立場が逆転してもおかしくはない。そうなれば、背中の鈍痛で失敗を知ることになる。

 柑奈は店内でやるか? やるだろう。誰に見られることもなく、息をするようにやってみせるはずだ。

 そして今は、そのために隠れながら追跡者を窺える位置へ移動しているに違いない。逃走のためではなく、障害を排除するために。

(仕掛けるぜ、串刺し公)

 オリガは鋭い視線を店内に流すと、空のカゴを片手に惣菜を選んでいる女性に声を掛けた。


 柑奈は肉売り場を通り過ぎ、店の角の付近まで来て足を止めた。

 今隠れている商品棚の隣には、長いアイスクリームケースがある。さらにその隣はもう店の端になり、壁に沿って牛乳パックやヨーグルト、チーズなどが陳列されている。

 前方に通路が二つ、後方には商品棚の数だけ通路がある形。店の端に位置したことで、警戒すべき方角は、全方位から大幅に狭まった。

 客の流れはランダムで騒がしいが、ここなら接近を察知することは容易だろう――柑奈は怪しげな人間がいないことを確認すると、視界の端でチカの様子をさっと見た。

(まるで戦場の兵士だな)

 チカは殺気を張り巡らせ、敵が現れたら瞬時に襲い掛かりそうだった。

 気掛かりではある――が、今はこの状況を脱するのを優先しなければならない。

 殺すのが楽であれば、そうすべきだろう。防犯カメラの位置も把握している。互いが鬼の鬼ごっこを制し、静かにナイフを肉に通せばいい。

 しかし、相手はあの面倒な女――厄介なのは実力だけではない。その目的がチカにあると考えられることこそが、事態をより複雑にさせていた。

 可能であれば今日は接触せずに去る。ただし手段は選ばない――と柑奈は行動を決めていた。

 柑奈は携帯端末を弄る振りをしながら、しばらく周囲を観察する。

 異常はない。

 ただ、オリガがこちらに気付き、追ってきているのは確かだ。夢中になっていた試食を中断し、周りの商品を一瞥もせずに歩いている姿を確認している。

 しかし、動きが無いのはどういうことだろうか。

 そうこうしている間に、客足は途絶えるどころか増えてきている。おそらくは混雑のピークなのだろう。

(この人混みに紛れて店を出るか……)

 柑奈は数秒の間考え、答えを出した。

「チカ、カゴを置いて――」

「待って。なんかおかしい」

 直感にも似たチカの観察眼が、その異常を捉えた。

 見れば、アイスケースの両側にある通路に、柑奈たちから見て奥から客が押し寄せてきていた。

 こちらから進む客たちは、困惑したように避けるか立ち止まるかして、その流れを塞き止めている。しかし、それもすぐに決壊した。

 狭い通路に大勢が雪崩れ込む――その光景は肉の壁と言って等しいものだった。

 移動しなければ――柑奈が急いで振り返る。

「よぉ。金の力ってのは、まったく偉大だよなぁ?」

 謀られた――言葉の通り、金を使って人を動かしたのだろうと柑奈は理解した。

「馬鹿な使い方してると早死にするよ」

「ハハッ。どの道たいして変わんねーだろ」

 言いながら、オリガはチカを見据える。

「今日はチンピラ女じゃないんだな」

「誰? このオンナ」

「あたしか? あたしはあれだ。カンナちゃんのいちばんの女だ!」

「育ちが悪そう」

 オリガの返答を無視し、チカは初めて見る女をそう評した。

 それをオリガは鼻で笑う。

「そりゃな。まともな育ち方をしてれば、こんなとこにいないさ」

 自虐的な言葉を吐きながら、チカの頭の天辺から足の爪先までを見定めるようにする。

 そして睨み合う二人の間に、柑奈は言葉で割り込む。

「それで、一番迷惑な女は何の用?」

「いやぁ、全然連絡をくれない友だちと話したくなってね。シリアルキラーにやられたんじゃないかって心配したぞ」

 会話の内容とは裏腹に張り詰めた空気が周囲を支配し、察した客が遠巻きに過ぎていく。

 背後の人の群れでは揉め事が起きたようで、女たちのけたたましい声が聞こえてくる。

「チカ、先に帰ってて。私はこいつと話がある」

「なんだよ、紹介してくれよ」

「黙れ。このまま一緒に店の外に出ろ。チカも。いいね?」

「うん……でも、これは?」

 チカはカゴの中身を寂しげに見る。

「……買ってから出よう。お前は前を歩け」

「ほう。今晩はカルボナーラと分厚いステーキか? いいね」

 カゴを覗き込んだオリガを柑奈は強めに小突き、「行け」と促す。

 喧騒から逃げるように歩き始めると、オリガが愉快そうに口を開いた。

「あそこまでなるとは思わなかったな。金を握らせたのは三人で、あとは特売セールの嘘に集まった馬鹿共だ」

「騙した奴がよく言う」

 オリガはへらへらと笑う。

 それからレジを通り、未だ騒がしいスーパーマーケットを後にした。

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