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第17話 白昼夢

 活気あふれる昼の街は少女を困惑させた。

 カラフルなドーナツ屋の看板、フードトラックから漂うジャンクフードの匂い。頭上には、空を狭くしている高層ビルの群れと、その間を行く大きな運搬用ドローン。

 どれも覚えがある――気がするのに、いつ来たのか、誰と来たのか何一つ思い出せない。

 ふわふわとまるで夢の中。

 やがて楽しい気持ちに不安が差し込み、気が付くと足が止まっていた。

「どうかした?」

 柑奈がチカの顔を心配そうに覗き込む。

 一流の殺し屋――そのはっきりしない表情ながら優しさを感じる柑奈の顔を見ると、チカはすこし気分が落ち着いた。

「なんでもないよ」

「なんでもなくないでしょ……まあ、何かあったらなんでも言って。喉が渇いたとか疲れたとか、見覚えのあるものがあったとかね」

 見透かした言葉に、チカは思わず口をつぐむ。

 街を歩き始めてからずっと、柑奈にちらちら見られていたのは気付いていた。それは監視ではなく、見守っているような目だったから気にはしなかった。

 助けてもらい、それから部屋にいる間ずっとそうだった。

 食事を残せば健康を気遣われ、朝の寒さに身震いすれば、何を言うでもなく暖かい上着を買ってきてくれた。名前を貰った時には胸の奥が暖かくなって、狭いベッドに三人で寝たら幸せを感じた。

「ほら、行くよ」

 立ち止まったままのチカに、柑奈が手を差し伸べる。

 初めて出会った真っ暗な路地でのことを思い出す。あの時差し出されたのは、黒くて冷たいナイフ。それは、命を担保に信用を得るための道具だった。

 でも、この手は違う。

 裏も表もない、ただの善意。優しさを形にしたものだ。

 チカが素直に握ると、柑奈は何かに驚いたふうに少し目を開いた。

「どうしたの?」

「なんでもない」

 ついさっきと同じやり取りに、チカがにやりと笑う。

 覗いてみると、いつも愛想のない横顔は照れているようだった。

「ふーん。まあ、何かったらなんでも言ってね。喉が渇いたとか疲れたとか、かわいい女の子と手を繋ぐのが恥ずかしいとか」

「……生意気言ってると、今夜のご飯は公園の水になるから」

「知らないの? 公園の水って意外とおいしいんだよ」

「公園の水道なんて、毎日酔っ払いがゲロを吐きかけてるよ」

「……」

 あの毎日が嘘のような温かさが、ここにはある。

 二人がずっと一緒にいてくれるなら、本当の名前も家族ももういらない。

 この幸せを逃さないよう、道に迷わないよう、繋いだ手にきゅっと力を込めた。


 温かさが落ち着かない――。

 柑奈は健康に悪そうな色をしたクレープを二つ買うと、再び手を繋いで歩き始めていた。

 右手にはクレープ、左手には少女の小さな手――まさか誰かの手を握るなんて。そもそも、何故手を差し伸べたのか。そうしないと歩けない年齢でもないのに。

 あの瞬間――やわらかさと温もりに、思わず飛び退きそうになった。むき出しの命に触れたような錯覚をしたのだ。

 血塗られた暴力の世界に生きる自分が触れていいものではない。遠ざけるべきだと考えながらも、親密になっていくのを心地良く感じてしまっていた。

(迷い猫、か……)

 もしこのまま問題が解決せず、真っ当な世界に返すすべが見つからなかったら?

 何となく平気そうだからでは、この手は離せない――かと言って、いつまでも殺し屋でマフィアの娘である自分と関わらせたくはない。

 柑奈は人々の往来を見つめながら考える。

 しかし、安穏とした空気からは、答えなど何一つ見つからなかった。

「――ねえ、ねえったら!」

「ん」

 手を引っ張られながら呼び掛けられ、柑奈はハッとなってチカを見る。

「どこまで行くの?」

 顔を上げて周囲を見渡すと、いくらか街並みが変わっていた。

 つい先程までは、商業ビルや大きな建物が多くあった。しかし今は違う。古着屋や雑貨店、小さなカフェといった個人の店が並んでいる。

「ごめん、ぼうっとしてた……どこか行きたいところある? 欲しい物あったら買うよ」

「欲しい物?」

 チカは道路わきに並ぶ店を見ながら「うーん」と唸る。

「例えば暇潰しにゲームとか」

「ゲーム……下手そうだね」

「私もやるのか。まあ、小さい頃はたまにやってたよ」

「あはは。お姉ちゃんが遊んでるの、ゼンゼン想像できないよ」

「え?」

 子供にはよくあるうっかり(、、、、)だったが、柑奈の思考を停止させるには十分の衝撃があった。

「……あっ」

 自分のミスに気付いたチカの顔が、見る見るうちに紅潮していく。

 そして柑奈の手を離し、ひとり駆け出した。それを、柑奈はぽかんと見つめる。

「…………チカ!」

 突然の大声に、周囲の人々が何事かと振り返る。

 柑奈は舌打ちをして後を追い始めたが、チカの敏捷性は驚くほどで、まるで距離が詰まらない。

 雑踏の中を一〇〇メートル以上走り続けたあたりで、チカが横の路地に入った。

 まだ日が高いとは言え、あまり奥に行くのは好ましくない――柑奈は焦りを抑えつつ、急いで後を追う。

 路地に入ると、すぐのところにチカが横を向いて佇んでいた。

 柑奈はほっと息をつく。そしてゆっくりと歩いていき、小さく肩で息をするチカの隣に立った。

 チカの視線の先には小さな店のショーウィンドウがあり、その中にはコルト社やヘッケラー&コッホ社といった、旧世代で活躍した銃のモデルガンがディスプレイされている。

「それが欲しいの?」

 物騒なものを――と思ったが、チカの様子がおかしいことに気付く。

 見ているようで見ていない、そういった感じだった。

「施設の人が持ってた」

「施設? 車に乗せられる前はそこにいたってこと?」

「うん。病院みたいなところ」

 てっきり拉致されたか売られたのだと思い込んでいた。しっかり聞いておくべきだった。いや、それは今はいい。

 キーワードは病院と銃器。銃器を所持しているのは軍人――軍病院だろうか。

 県内にそれがあるのは横須賀だけ。しかし、チカを乗せたセダンが走って来た方向と合わない。近いはずの横須賀港を選ばなかったのは、リスクを避けたとも考えられる。それでもやはり不自然だ。

 何しろ、横浜港はロストフファミリーの影響が強い。軍の艦船が比較的少ないとは言え、リスクは大差ないだろう。

 何か伝手があったのかもしれないが、そもそも――。

「その施設でチカは何をしていたの?」

「おじさんと格闘技のトレーニングしてた」

「トレーニング……」

 柑奈には、少年兵を訓練している以外のイメージができなかった。

 アフリカの紛争地域では、未だに正規軍や半政府軍が子供を拉致した後、薬漬けにして戦わせているという。しかし、チカにはそういった様子は見られない。

 身体を弄ったのもその施設か。そしてそこで戦闘技術を身に付けた?

(なんなんだ……)

 情報が増えるほどに胡散臭くなっていき、まるで汚泥のような闇に踏み込んでいっているようだった。

「他に覚えてることは? 施設の名前とか、人の名前とか。誰でもいいから。あとは施設の周りに何か店とか目立つものはなかった?」

 チカはしらばく考えていたが、それらも知らないか記憶にないようだった。そもそも健康だったのにもかかわらず、外に出たこともなかったらしい。

「それじゃ……『気付いたら真っ暗なところにいた』って言ってたけど、施設にいたのは何時ぐらいまでか分かる?」

「ええと……たぶん、二時くらい。いつもみたいに薬飲んだら、あの日は眠くなって」

「昼の?」

「うん」

 セダンが襲撃ポイントを通ったのは、午後六時頃――車に乗せられてから四時間ほど後か。

 そこから計算できる車で移動可能な距離はあまりにも広大。だが、軍が出入りする病院のような施設となると、それはかなり限定される。

 問題は、秘匿された機密レベルの高い施設であれば探しだすのは困難だし、途中でこちらの動きを察知されるリスクもある。

 柑奈はそこまで考えて、別の疑問に辿り着いた。

 あの日、オデルから依頼を受けたのが午後三時過ぎ。それから指示通りに必要な装備を揃え、急いでポイントへ向かった。

 オデルの情報は不完全だったが、仕事は単純でこなすには十分だった。

 では、オリガはどうだ。彼女は、依頼者は何も知らないと言っていた。つまり、依頼の内容はおおよそこうだろう。

『よくわからんが、ロストフファミリーのターゲットを奪え』

 こんな適当な依頼をあの女は受けたのか? 殺して終わりだった自分とはわけが違う。有名な殺し屋を抱え、強力な戦闘部隊を持つ巨大な犯罪組織にケンカを売る依頼だ。

 とてもではないが、柑奈には信じられなかった。

 なにしろ殺し屋は馬鹿ではやっていけない。報酬に釣られてリスクを無視する奴はすぐに死ぬ。当然だ。オリガは理知的ではないが、己の力を過信している愚か者ではない。でなければ、あの森の中の状況で、適当な妥協案を切り出すことはないだろう。

 つまり、オリガは何か情報を持って動いていた可能性がある。

 ボスやオデルに聞くのが手っ取り早いが、今さら聞くのは不自然だ。誰が何を企んでいるのか不明な以上、事態がどう動くかまったく予想できない。

(あれと会うのは面倒だけど……)

 柑奈は今後の行動を一つ決め、心の中で「よし」と静かに気を入れた。

 すると、不安げな目がこちらを見つめていることに気が付く。

「私をあそこに戻すの?」

 戻りたくない――そう言っているのと同じだった。

 柑奈は逡巡することなく答える。

「チカが嫌なことはしない。心配しなくていい」

「……うん」

 たとえ国の機関だとしても、そこが平穏からほど遠いのなら受け渡すなどあり得ない。

 そして、路地から通りに戻ったところで柑奈が言った。

「さて、と……欲しい物もとくにないなら、夕飯買って帰ろうか。何がいい?」

 チカはしばらく周りの店を見ながら考え、ぱっと柑奈を見上げる。

「パスタがいい。チーズたっぷりのやつ」

「カルボナーラ? いいよ」

「作れるの?」

「もちろん」

 目をキラキラとさせるチカに、はっきりと答えた。

 レシピ通りにやれば、何だってできるはずだ。

「あの、さっき……」

「ん?」

「なんでもない!」

 なんでもなくはないだろう――柑奈は肩を竦め、さっとチカの手を取る。

 すると今度はチカが照れ臭そうに握り返し、二人は横並びになってスーパーマーケットへと歩き出したのだった。

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