第16話 心と身体(4)
少女を匿って三日目。三人での朝食の後――テーブルを囲って会話をしているうちに、少女はいくらか調子を取り戻していた。
「もう本は読んだのか?」
コーヒーを飲み干したシュリが、少々荒っぽい口調で言った。
「うん」
「へぇ。何を読んだんだよ」
「映画のやつ」
「ああ、あれか。あんまり知られてないけど、実はシリーズものでな。なんとお前が読んだ次の巻で主人公が――」
「あっ! 言わないでよ!」
と、そんな具合で空気が緩んだところで、昨日と同じように柑奈は切り出した。
「ちょっといいかな。名前を付けようと思うんだ」
提案を受けた少女は、目をあちこちに移動させながら考える。
しばらくして、ハッとしたように口を開いた。そして花が開いていくように、ゆっくりと表情を明るくさせ――。
「子供が生まれるの?」
と言って、期待に満ちた目で隣のシュリの腹を見た。しかし、その中には咀嚼されたシリアルしかない。
シュリは吹き出し、柑奈は首を横に振って答える。
「あなたの名前。不便だからね。思い出すまでの間はそれで呼ぼうと思う」
「私の……なんていうの?」
「まだ決めてない。何がいい? 好きに決めていいよ」
委ねられた少女は、胡乱気な目で柑奈を見つめる。
その反応が理解できない柑奈に、少女は少しして不満の理由を口にした。
「……それって、なんか違うと思う」
「どういうこと?」
「だって、自分で付けるのっておかしい。ふつう、お母さんとかが考えるのに」
「それはそうだけど」
自分の名前もシュリも、裏稼業でのコードネームだとかではない。
「つまり、私が考えろってこと?」
少女は頷いて肯定し、柑奈は困ったなと頭を掻く。
その様子を見て、シュリがまた悪そうに笑う。
「お嬢は名付けが苦手ですからねぇ。あれは十二歳の誕生日でしたっけね」
「ちょっと……」
「なに?」
「気になるよな。フフ。私がクマのぬいぐるみをあげたんだ。で、『こいつの名前はx人食い五郎だ』って言ったら、すごく嫌な顔してね。しつこくしてたら『自分でつけるからやめて!』って言うからやめて待ってあげたんだけど、結局決まるのに二日も掛かったんだよ。だから、お前もそれくらい待つ覚悟はしておいた方がいいぞ」
打ち解けてきた頃の思い出だ。今ならシュリは気を遣っていたのだと理解できるが、よく思い返してみれば、からかうこと自体を楽しんでいた気もする。
「いいよ、二日くらい」
「一週間はかかるかもしれないぞ」
「……そんなかかるか。今すぐ考える」
言いつつも、ヒントはないかとあちらこちらに目が泳ぎ、床やら天上まで見た末に、窓際にある小さな鉢に咲く花に目が留まった。
「その花、秋に咲くコルチカムっていうんだけど」
「え?」
「……チカっていうのはどうかな。ほら、出会ったのが十月だったから」
すると、少女はマグカップに視線を落とし、「チカ……出会った……花、か」と呟く。
そこでシュリが背中を押すように一言。
「チカちゃん、可愛いんじゃないですか」
「……うん、いいと思う」
「そう、良かった」
気を紛らわせればと買ったものだったが、まさか別のかたちで役に立つとは思わなかった。
肩を竦め席を立つと、少女――チカが絞り出すように声を出した。
「あの」
「何?」
「……ううん」
名前を与えると愛着が湧いたのか、柑奈は自分でも不思議なほど打ち解けていった。
一緒に映画を観たり、料理を作ったり――今では皮肉や軽口を言い合うようになった。不貞寝する尻にクッションを投げつけるなど、匿うと決めたあの夜には思いもしなかった。
そして現在、柑奈はチカの小さな背中を見つめながら考える。
この二〇日間、仕事前と同じように念入りに情報を集め続けた。まずはマフィアらの動向、それから事件に対する世間の関心。
被害がぱたりと止んでからも、マフィアやギャングの怒りはしばらく収まらなかった。昼夜関わらず街は殺気立ち、魔女狩りめいたことも行われた末に、愚かな若者が数人犠牲になったりもした。
五日も経つと収束し、街は落ち着きを取り戻していった。
しばらく各メディアは検証番組や記事などで稼いでいたが、一週間ほど前からそれも消え、最近は政治の話題で持ちきりになっている――政府と軍の対立がついに表面化したためだ。
未だにピクシーのことを話題にしているのは、ネットの匿名掲示板くらいのもの。事件の始まりから終わりまで目的も正体も分からぬ様は、まさに切り裂きジャックの再来であったと。
そうして落ち着いてからは、柑奈はチカの身元について調べ始めた。
だが、収穫はなかった。警察のデータサーバにある行方不明者リストの中からは、それらしい子供を確認できなかったのだ。
子供が一人いなくなったのにもかかわらず、何故リストに存在しないのか?
簡単だ。行方不明者届を出す人間――保護者が同時期に死んでいるか、失踪を容認しているしかない。
予想していたことだったが、強い憤りを感じずにはいられなかったし、やりきれない思いで胸が一杯になった。
チカには、帰る家も抱きしめてくれる家族もいないのだ。もはや一切の記憶がないのが幸いにも思えた。心療内科に連れて行こうかとも考えていたが、酷く辛いものであるなら、何も知らないまま新しい人生を歩むのもいいかもしれないと。
傲慢な考えであることは重々承知していたが、柑奈は取るべき選択肢として心に留めた。
そして、調べるべきことはまだある。
チカが何故あのセダンに乗せられていたのか――そこを解明し問題を取り払えれば、新たな可能性という道が開かれるかもしれない。
どこの犯罪組織にも、チカの件と関連した動きがないのは気掛かりではあるが――。
「――ねえ、まだ外に出ちゃダメなの?」
チカの声は、枕に埋もれてくぐもっている。
「外ね……」
柑奈はカーテンの隙間から窓の外を見る。
道行く人はしっかりと上着を羽織り、その足元には色づいた落ち葉が舞っている――怪しげな人物はいない。穏やかで代り映えのない光景だ。
今日まで外出時にはいつも以上に尾行に注意していたが、されている気配はまるでなかった。目立つ行動をしなければ外を歩くくらいはもう平気か、と柑奈は折れるように判断した。
「いいよ。ちょっと買い物に行こうか」
「やった!」
チカが跳ね起き、シュリも何事だと身を起こす。
「なんです?」
「お出かけ!」
「こら」
と、柑奈がおでこを突いたが、チカは嬉しそうに赤くなった患部をさする。
「はしゃぐなとは言わないけど、あんまりキョロキョロしないように」
「うん!」
少女らしい年齢相応の反応に、柑奈はむしろ訝しむ。
こんな子供があれだけの人を殺し、毎日不安な夜を過ごしてきた。普通であれば、まともでいられるはずがない。PTSDを患っていて当然なのだ。
薬漬けにでもされているのかと思ったが、副作用や禁断症状も一切でることはなかった。
薬でなければ、軍人のように特別な洗脳的プログラムを受けたのか――考えられる可能性は、そう多くはない。
「早く行こ!」
「……そんな格好の人とは並んで歩きたくないよ」
「ああっ」
チカは恥ずかしげもなく上下のスウェットを雑に脱ぎ捨てる。まだ凹凸の少ない幼い肉体を晒すと、まずライトブルーのジーンズを履いた。
次にシャツを着ることなく、枕の下に手を突っ込んだ――取り出したのは、貸したままにしている黒いナイフ。
「それは置いていきなよ」
「なんで? あったほうがいいよ」
「上着で隠しても、ちょっとした仕草とか服の皴とかで分かる奴には分かる。そうしたらバレるかもしれない」
「むぅ」
チカは不服を態度で示す。だが、柑奈は武器の携行を許すつもりはなかった。
街を歩くのに、武器が無いと不安なのは理解できる。しかし、チカだけは暴力の世界から徹底的に遠ざけるべきだと柑奈は考えていた。
バレなければ罪にはならない、時効は許し、というのはいかにも悪人の方便だ。
それでも――例えどんな手を使ってでも、チカには平凡な生活に戻って欲しかった。
「言うこと聞かないなら連れて行かないよ」
「……わかりましたー」
チカはしぶしぶ、といった感じでナイフを元の場所に戻す。
柑奈はチカの着替えをしっかりと見届け、最後にボディチェックをしていく――身体をまさぐられながら、チカがあられもない姿のままのシュリに聞いた。
「シュリは行かないの?」
「昨日は遅くまで仕事だったからな。今回はパス。二人で楽しんできな」
「はーい」
それから支度を終えて玄関へ向かおうとした時、柑奈はシュリのぼんやりした視線に気が付いた。
「何? 行くなら待つよ」
「いやあ、こうしてチカを見ていると、幼い頃のカンナちゃんを……うん、まったく思い出さないなと」
「悪かったね。可愛げが無くて」
「そうでもないですよ。少なくとも、チンピラだった私が絆されるくらいには。もちろん、今も可愛いですけどね」
柑奈は早々に敗北を認め、両手を上げて背を向ける。
そしてドアを開けると、心地いい風が肌を撫でるように通り抜けた。
秋の昼はまだ温い。出掛けるのにはいい日和だ。
ジャンクフードを食べ歩き、余計な買い物をしてもいいだろう。しかし、遊びが目的で人と並んで歩くのなど、いったいいつ振りだろうか――と考えているとはたと気付く。
(浮かれてる?)
柑奈は頭を振って嘆息する。その様子を、チカが不思議そうに横から覗く。
なんでもない、と素っ気なく言って、姉妹のように街へ繰り出した。




