第15話 心と身体(3)
シュリとのデートをこなした翌日。
少女は昨夜から今朝、それから昼と食事をきっちり摂った。しかし、心理状態に変化は見られない。リビングの窓際に置いた花にも、ちらりと見ただけで特に興味を示さなかった。
話し掛ければ一言二言返ってくるが、言葉少なで会話らしいものにはならない。それでも好材料はある。素直に言うことを聞いてくれることだ。
今も「なるべく寝室ではなく、リビングで過ごすように」というお願いを聞き入れ、リビングのソファで柑奈の横に座り、昨日渡した本を読んでいる。
残念ながら、選ばれたのはシュリが買ったものだが。
「それ、面白い?」
「……うん」
昨晩の内にシュリが届けた地味なスウェットを着た少女は、寝息のような小さな声で答える。
やはり会話は続かない――と思ったが、少女はそれから数ページ捲って顔を上げた。
「あの映画、本になってたんだね」
「それが原作だよ。その本を元に映画が作られたんだ」
「ふぅん」
文字を読めて映画も覚えている――一般的な教育を受けていて、酷い環境にいたわけではないのだろうか。だとしたら、警察のデータサーバ内の行方不明者リストを探せば、もしかしたら見つかるかもしれない。まともな親なら捜索願を提出しているはずだ。
ただ、違和感もあった。識字と映画の記憶は全く別もので、前者のような技術的なものは、記憶喪失になっても簡単には忘れないらしい。言語や身体の動かし方などもそれにあたる。
逆に後者のような思い出の類は失われやすい。家族や自分の名前を思い出せないのはそういうことだ。
しかし少女は映画を覚えていた。偶然か、それとも強いトラウマがあるのか――。
「ねえ」
柑奈は考え込んでいるところに不意に話し掛けられ、驚いたように顔を上げる。
「ごめん。何?」
「なにか聞きたいことあるんでしょ?」
「……ああ、うん。あなたのことをね」
居住まいを正し、取り繕うようにインスタントコーヒーを飲む。それから軽い質問から始めた。
「まずは年齢を教えて」
「十歳」
「十ね……携帯端末を持っていたか覚えてる? SNSのアカウントを持ってるなら、いろいろ一気に分かるかもしれないんだけど」
「…………わからない。でも」
「ん?」
「あの、退屈だから欲しい……です」
肩透かし――とはいえ、子供らしい要求で精神的には良い傾向だ。しかしその願いは叶えられない。
「ごめん。それはあげられない。ネットを使っているうちに、あなただと気付く奴がいるかもしれないから」
「うん。わかった」
少女はやはり聞き分けがいい。気落ちした様子もまるでない。厳しく躾けられていたのだろうか。
「漫画はどう? 読んでいたものとか」
「少女漫画は読んでたよ。なんだっけ……ぺだる?」
「ペダル? ……あー、月刊ペタル?」
「それ!」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「ペタルは電子だけだから、単行本を適当に買ってきてあげる」
「うん」
今度は淡泊な反応。何が嬉しかったのだろう。
柑奈は首を捻りつつも本題に入ることにした。
「次は身体のこと」
「からだ?」
今度は少女が「悪いところはないのに」と首を傾げる。
「見てて」
柑奈はパーカーを脱いでタンクトップ姿になり、右肩のあたりを弄る――すると、二の腕の一部がめくれ、その内部が露わになった。
「…………ロボットだ!」
少女は目を皿のようにして声を上げる――その反応で柑奈は確信した。
「肩と腕だけね。……あなたの身体も同じなんだ」
「え……右手?」
「右も左も。それに足も」
少女は黙り、腕を強く抱く。
そして、固まっていた表情は恐れと混乱に塗り潰されていった。
「……わからない。わからないよ! お母さんもお父さんも、顔もなにも思い出せない!」
少女は叫ぶ――その動揺は、出会った日のものと変わらない。
(そうか……)
先ほどの漫画雑誌で良い反応があったのは、ひとつ覚えていたことがあったからか。本を熱心に読んでいたのも、思い出すことに必死だったのかもしれない。
少女の不安は、こちらが思っていたよりも遥かに大きなものだったのだ。
「――落ち着いて。ゆっくり思い出していけばいいから」
「思い出せなかったら?」
「……」
一瞬、柑奈は言葉に詰まる。
いつまでもここにいていい――とは言えなかった。自分は殺し屋で、それをやめるつもりはないし、やめられるとも思っていない。それはしがらみではなく、自身の心の問題だ。
そんな人間が、裏社会の何者かに狙われている子供を匿い続けるのは難しい。いくらシュリが協力してくれても根本的な解決を見なければ、いつか限界はきてしまうだろう。
難しい状況かもしれない。ただそれでも、固く決めていることはある。
「何があっても、私が最後まで守ってあげる」
「……約束して」
「約束する。絶対に見捨てたりはしない」
柑奈が少女の頭に手を置き、二度三度とやさしく撫でる。
少女は抵抗せず、俯いて視線を落とす――やがて、手元の本にぽつぽつと染みができていった。
柑奈はその儚い慟哭が止むまで、ただ静かに見守るしかなかった。




