第13話 心と身体
「チカ」
そう呼ばれた少女が、ベッドの上で身じろいだ。
頭の先まで毛布にくるまり、可憐な姿は髪の毛一本たりとも見えない。その傍らでは、シュリがあの下品なベビードールを着て、引き締まった尻を見せつけるようにして寝ている――。
あれから二〇日が経ち、いっそう秋も深まってきた。今朝の空気も冬を感じさせるほど冷たく、ぬくぬくとしたベッドはさぞ心地良いことだろう。
けれど、もう昼だ。
「起きろ、ミノムシ」
柑奈が毛布を剥ぎ取ると、すっかりきれいになった少女が現れた。
すっかり変わったのは、見た目だけではない。二人の関係も大きく縮まっていた。
「……いいでしょ。どうせ部屋から出れないんだし」
ぼんやりした目のまま、少女は自嘲的に言う。
それから嫌々といった感じで起き上がった――が、そのまま枕に顔を突っ込んだ。
柑奈はやれやれと首を振り、ベッドの脇にあったクッションを手に取る。そして振りかぶり、スウェットに包まれた小さな尻に投げつけた。
「まったく二人して……」
柑奈は嘆息し、今日この状態に至るまでの生活を思い返す――。
隠れ家に到着したその日の朝――小一時間の睡眠から目を覚ました柑奈は、欠伸を殺しながら洗面所へ向かった。
「ふう……」
冷たい水でさっと顔を洗うと携帯端末を手に取って逡巡し、しばらくしてシュリに電話を掛けた。
用件は、寝室で穏やかな寝息を立てて寝ている少女についてだ。
『……おはよう』
「おはよう。相談があるんだけど」
『ん、恋バナかぁ? お姉ちゃんは許さないぞぉ』
寝起きと思われるシュリの声音は、深い酒気を感じるものだった。
柑奈は苛立ちと不安を抑えつつ、前置きを挟まず本題に入った。
「ピクシーを捕まえたんだ」
『ピクシーだって?』
柑奈に緊張が走る。
少女が世間を騒がせ始めてから昨夜までの間、ロストフファミリーはピクシーに対してこれといった反応を見せていない。夜道に気を付けるように、などと子供にするような注意喚起があったくらいだ。
しかし昨夜のサングレ・イ・カデナスの動きを受け、未知数だがロストフファミリーも行動に出る可能性が生じた。だからこそ、こうしてシュリに電話を掛け、ロストフファミリーに先んじて協力を仰ごうとしている。
遅かったか。夜のうちにすべきだったかもしれない――柑奈は黙ってシュリの言葉を待つ。
『私はツチノコを捕まえたぞ!』
一瞬切りそうになったが、どうにか堪えて電話を続けた。
「……シリアルキラーのあれ。昨日の帰りに遭遇してね――」
そう切り出して、一戦交えたことや記憶が混濁していること、そうした顛末の全てを一気に説明していった。
「――協力して欲しい」
『はあ。人のことを手癖が悪いとかよく言えますね』
いつもの雑な敬語になり、仕事モードに切り替わったのを感じられた。
『それで、しばらく秘密裏に保護するってワケですね。いいですよ、協力します』
「助かるよ」
『まーったく構いませんよ。知らないかもですが、子守りは得意なんです』
「……知らないね」
家族ほどに過ごしたシュリとの長い時間は、今となっては弱みばかりだ。
『悲しいなあ。眠れるまで添い寝したこともあったのに』
「遅くまで酔っ払いを介抱した記憶ならあるよ」
『夜中に目が覚めちゃって、一人じゃ怖いって言うからトイレについて行ってあげたりとか』
「……夢でも見てたんじゃないの」
『そうかもしれませんね―。フフっ……それじゃ一時間くらいで行きますから、私のこと、適当に伝えといてくださいよ』
「うん」
通話を終えて、柑奈は胸をなでおろす。
当初は昨夜の帰りの途中に車で迎えに来てもらい、その時に話そうと考えていた。しかし少女の話しを聞いて、その計画は頓挫した。
もしシュリを呼んで車に乗せたら、生まれたばかりの泡沫の如く儚い信頼は弾け、ナイフが腹を抉ったかもしれなかったからだ。
ともかく良かった。これで当面は、あの子を人目に付かないようにするだけでいい。
柑奈はコップに注いだ水を飲み、ひとまず朝食を用意することにした。
キッチンの棚からシリアルの袋を出し冷蔵庫を開ける――しばらく冷気とライトを顔で受けた後、再びシュリに電話を掛けた。
『何かありましたか?』
「……牛乳、買ってきて欲しいんだけど」
『ホントに世話が焼ける』
まったくその通りで、柑奈はただ呻ることしかできないのだった。
シュリから小言とからかいの言葉を散々に浴びた後、柑奈は三〇分ほどソファで仮眠を取った。それから少女の様子を確認しに行くと、少女は既に起きていた。
ベッドにちょこんと腰を掛け、ぶかぶかのTシャツを着た姿は可愛らしい。しかし、膝の上に置かれたナイフを見つめる瞳からは、奥にある感情を読み取ることはできなかった。
(具合は悪くなさそうだけど……)
あえて音を立てて半開きのドアを開け、部屋に一歩入ると少女は静かに顔を上げた。
「誰か来るの?」
どうやらシュリとの通話を聞いていたらしい。
「うん。シュリっていう……お姉さんがね。昔からの知り合いで信頼できる人だから安心して」
「……わたし、これからどうなるの?」
問いの答えを放って重ねられた質問には、明確に不安が感じられた。しかしその人間らしさに、柑奈は良い傾向だと安心した。
「しばらくはここから出られない。悪い奴らがあなたを探してるからね。今の状況が変わるまで、どれくらい掛かるか分からないけど我慢して」
「わかった……」
少女は消え入りそうな声で言って、鞘に納められたナイフを親指の平で撫で始める。
そのまま動かない少女に、今度は柑奈が問い掛けた。
「どこか痛む?」
少女はこちらを見ずに首を横に振る。
着替えさせた時に見た限りでは、とくに悪いところはなさそうだった。ただ、二〇人以上を殺害してきた中で何があったか分からないし、破傷風のような病原菌に感染している可能性もある。そうなれば、何かしらの手段を用いて医者に掛からなければいけない。
まずは触診をして、熱を計り、それから脈や血圧も確認した方がいいだろうか。だがその前に、少女が触れることを許してくれるかが問題だ。
どう切り出そうか迷っていると、玄関からノックの音が聞こえた。
二回、一回、二回――それは、シュリとの合図だった。
「さっき話した人が来たみたい。迎えに行ってくるよ」
少女はやはり黙ったまま頷く。
このまま会わせても平気だろうか――柑奈は不安に思いながら玄関へ。外を映すモニターを確認すると、そこにいたのはやはりシュリだった。
「早かったね」
電子ロックとチェーンを外し、静かにドアを開ける。
いつものカジュアルな姿で現れたシュリの手には、バイクのヘルメットとコンビニの袋。その中には牛乳と弁当、それにいくつかの菓子があった。
「それはもう、急いで来ましたからね」
「まだ言うか……」
うんざりした顔の柑奈を見て、シュリは満足げにニヤりとする。
「冗談ですよ。むしろ川崎方面を見てから来たくらいで」
「さすがだね……どうだった? 連中の様子は」
「まだ殺気立ってる感じですね。まあ大捜索っていうよりは、一般人に聞き回ってる程度みたいですけど」
「それはピクシー探しとしてだけ?」
「さすがに深いところはなんとも。こっちも情報が流れてこないし」
シュリは肩を竦め、柑奈にビニール袋を渡して靴を脱ぐ。
「……まあ、そんなところか」
少女は彼らの網を掻い潜ってあの闇に潜み、今はこうして匿われている以上、サングレ・イ・カデナスに進展は望めない。
問題はロストフファミリーだ。彼らが、いつピクシーこそが求めたブツであると気付くのか。それとも既に気付いているのか。
どちらにせよ、今やるべきことは変わらない。まずは少女のケア。身体と心の両面に必要だ。そして、少女の隠匿を徹底する。
「さ、小猫ちゃんはどこですか」
「あまり突かないでよ」
「まあ、任しといてくださいよ」
シュリは自分の胸元をトン、と叩く。
不安だ。いきなり切り合いになることはないだろう。だが、真っ当な人間とは程遠いシュリに対し、少女がどう反応をするかは未知数だった。
(いや、落ち着こう。緊張はきっと伝わる。あくまで自然にしていかないと)
キッチンに弁当やらを置き、それから部屋に戻ると少女は微動だにせず待っていた。ナイフも視線もそのまま。まるでよくできた人形だ。
「来たよ。この人がシュリ」
「よろしくな。ご紹介に与ったシュリお姉さんだ。柑奈の世話をしてあげてる。幼い頃はおしめの交換もしてあげてたんだ」
「また適当なことを」
「……」
シュリの冗談交じりの挨拶に、少女は無言で視線を返す。
その少女の眼は見定めているようで、攻撃の機会を窺っているようでもある。迂闊に触れようものなら、瞬時にナイフを解き放ちそうに思えた。
(確かに猫だ)
柑奈は二人の間に立ち、万が一に備えながら見守る――するとシュリが遠慮なく少女の前に立ち、無警戒に手を差し出した。
「よろしく」
少女は一瞬びくりと強張り、ナイフを握る手に力が入る。
抜く――柑奈はそう思ったが、少女の手はグリップからするりと離れ、シュリの傷ひとつない手を取った。
「……よろしく、おねがいします」
「ああ、よろしく」
シュリは小さな手を軽く握り返しながらニッと笑う。そのまま柑奈に振り向き、勝ち誇った笑みを向けてきた。
上手くいったことは喜ばしい。ただ、腹立たしくもあった。その表情にだけでなく、先を越されたような悔しさを感じたのだ。
馬鹿馬鹿しい――首を振ると、少女がぽつりと言った。
「爪、黒い……」
「マニキュアだよ。クールで可愛いだろ」
「……病んでそう」
「言うじゃねぇか」
少女は顔を背け、手をナイフに戻す。
気付けば空気は明らかに変わっていた。少々打ち解けていない子供がいる、その程度の重さ。少女の雰囲気に鋭さはなく、手の中にあるものも気にならない。
それでもまだ緊張は窺えるが、柑奈はこの流れに乗ることにした。
「ちょっといいかな。怪我していないか見ておきたいんだ」
「してないよ」
「本当かぁ?」
シュリがチンピラのように覗き込み、少女はさらに顔を背けて腕を抱く。
「念のためだから」
「……わかった」
「よし。早速始めるよ。シャツ脱いでくれる?」
すると少女は素直にショートパンツ一枚になった。
こちらが思っているよりは、ずっと信用されているのかもしれない――そう思いつつ、シュリと二人で触診を開始した。
つま先から足の甲と足裏、足首――と、上へと念入りに押したり曲げたりして確認していく。膝まで見たところで顔を上げると、シュリと目が合った。
「……」
「……」
気付いた? そっちも? 二人はそのような目配せをする。
その様子を見ていた少女が訝しげな顔で言った。
「どうしたの?」
「いや……痛くない?」
「どこも痛くないよ」
少女は疑問を顔に出しつつも、引き続き柑奈たちに身体を自由にさせる。
その後も身体のあらゆる箇所を調べたが、これといった外傷は見当たらなかった。少なくとも、健康面で問題はなかったといえた。
「――うん、どこも悪くなさそうだ」
「……服、着ていい?」
「いいよ。お疲れさま――私たちはご飯を用意するから、ここで待ってて」
「うん」
あるのはコンビニ弁当とシリアルだけ。用意などというほどのものはないが、それでも二人で部屋を出た。
無言で廊下からリビングへと進み、そしてキッチンに着いてすぐにシュリが小声で言った。
「どうなってるんです? あれ。聞いてないんですけど」
「私だってさっき気付いたんだよ」
当然、少女の身体についてだ。
彼女の身体は一見するといかにも少女らしく華奢で、腕立て伏せなど一度も耐えられそうもないほどだった。
しかし、その肢体には少女特有の柔らかさが存在しなかった。それは柑奈自身の右腕に似た感触で、人工皮膚に包まれた義手だろうと判断できた。ただ、驚きはそれ自体にではない。
発展を続けるサイバネティックスとその技術は、未だ一般に流通しているとは言えない。だが裏社会や富裕層の一部には、確かに実用化された製品の使用者がいる。
シュリの両腕もそうだし、おそらくはジャージ女もそう。あの重厚な武器を楽々と振るうには、常人の肉体では不可能だ。腕や上半身の一部を機械化し、強大な膂力を手に入れているに違いない。
しかし、少女の身体は生身の部分を探す方が難しかったのだ。
「触った感じだと、首から上と内臓くらいじゃないですか? しかも、かなり高性能っぽい」
「そうだね。それ自体はあり得ないわけじゃないだろうけど」
柑奈は自身の右手を見ると拳を作り、また開く――。
こうして技術が存在しているのだから、人間かロボットかという存在も世界のどこかにいておかしくはない。ただ、少なくとも現状で言えばあまりに異質だ。
気掛かりはもう一つある。
「あの受け答え……知らないのかも」
「でしょうね。そこらへんも聞いてみましょう。事故で大怪我したのか、生まれつきの障害があったのか……ま、とりあえずメシにしましょうか」
弁当を温め牛乳をコップに注ぎ、さて部屋に戻ろうかというところで、シュリがにこやかに言った。
「これ食べたら、午後はデートですね」
「はあ?」
「しばらくはここで暮らすんでしょう? なら、いろいろ買いに行かないと。なんもないじゃないですか」
「そうか……確かに」
まずは食糧。非常食の備蓄はあるが、もし長期間にわたって少女一人にする事態になれば、今の量では不足する恐れがある。
それから衣服。可愛らしいなどと思ったが、いつまでもあんな格好をさせておくわけにはいかない。ストレートチルドレンだって、もっとマシな格好をしている。
「でしょ? 子供なんてのは、暇を潰せるものがないと退屈で死んじゃいますからね」
そう言って柑奈の肩をぽん、と叩いてシュリは先を行く。
「ちょっと、何を買うつもり……」
せめて騒がしいものはやめて欲しい。
柑奈は不穏の予感を胸に、シュリの後を追ったのだった。




