第12話 妖精
今日も悪い奴を殺した。
殺しは日課のようになり、もう何人殺したかも覚えていない。
けれど、殴りつけた拳の痛み、骨を圧し折る音、男の首に食い込む指や鋭利な物で突き刺したときの感触、そして血の温かさ――どれもが鮮明に残っている。
三日目の夜が過ぎた時、少女ははたと気が付いた。
――私、人を殺してる。
なんの抵抗感もなく、ぬるい返り血を浴びながら殺している自分が急に怖くなった。
しかも、大人をあんなにも簡単に。私は何になってしまったのか――震えている間に次の夜が、そしてまた次の夜が訪れ、恐怖も疑問も胸の奥に押し流された。
そして今夜も男が現れ、結局は同じ夜になると思った。
穢らわしい手を振り払い、やられる前にやった――いつものこと。
けれど、街はにわかに騒がしくなり、うじゃうじゃと強面の男たちがうろつき始めた。
――私だ。仕返しに来たんだ。
少女は血に濡れた手を乱暴に拭い、闇の深い場所を目指して走り始めた。
コンクリートの床は冷たく、漂う空気は湿っている。空調が効いていないのは明らかだ。
今にも消えそうな薄暗い照明が照らしているのは、スプレーで落書きされた壁と錆びついた配管、そして赤黒い血の跡が残る汚れた床。
管理など全くされていないその有様は、無法地帯と呼ぶに相応しい――柑奈が選んだこのルートは、駅に直接繋がっている巨大ショッピングモール、その中にある棄てられた区域。
棄てられた経緯は単純で愚か。街を飲み込むように拡大を続けて広大な面積になると、人の流れが遠のいたエリアが生まれた。すると、自然と浮浪者や犯罪者の吹き溜まりとなり、やがて誰も寄り付かなくなったのだ。
当然、衛生環境も悪い。汗、カビ、オイル、腐臭……そういったものが混ざったような異臭が延々と続いている。
(――ここは右か)
柑奈は注意しながら道を行く。
地上にありながら暗愁漂う地下のようなこの場所は、もはや迷路のようでもある。
それもこのルートを選んだ理由だが、何よりギャングたちの動きにあった。奴らは、既に人狩りの手を駅から遠くに伸ばしていた。なら、奴らも奴らのターゲットも、もう駅周辺にはいないだろう――と考えたのだ。
その目論みは正解だった。
二〇分ほど前に最近行き倒れたらしい浮浪者を見てから、もう人の形をしたものを見ていない。このまま進めば、誰にも遭わず駅に辿り着けると思われた。
「んっ……」
一際強い鼻を突く異臭に、柑奈は思わず顔を顰める。
浮浪者特有の、煙草と腐った肉を混ぜたような臭い――それが、数歩先の左手にある明かりのない横道、そのあたりから漂っている。
人か動物か、生きているのか死んでいるのか――ただ、何かがあるのは確かだ。
柑奈はその正体を確かめることにした。
面倒だとは思ったが、はっきりさせないまま先を行くことはできない。不安要素は排除できるなら排除すべき。当然の選択だった。
角で止まり、楽器ケースを置いて腰のナイフを抜く。さらに、ジャケットの内ポケットからペンライトを取り出した。
(この先は確か……商店の裏口の通路。行き止まりのはず)
慎重に覗く――暗闇だ。一メートル先さえ見通せない。幅も狭く、人が並んでは歩けないだろう。
柑奈は左手に持ったペンライトを点け、手前から少しずつ奥を照らした。
壁の落書き、足元には散乱したガラス片……一見すると、この辺りでは普遍的な光景。しかし、一歩踏み入るごとに臭いは一層強くなった。
埃の積もったゴミや室外機を避けながら進むこと十メートル。柑奈は右へ続く曲がり角に行き当たった。臭いは吐き気を催すほどだ。
何か気配を感じて耳を澄ますと、空気が漏れるような呼吸音が聞こえてきた。
(寝てるのか?)
そうであるなら――と何者かを起こさないよう、ペンライトを伏せがちにして角の奥を覗く。
まず目に入ったのは、倒れている男だった。ぼろぼろの長いダウンコートに、下は汚れ切ったジーンズ。見るからに浮浪者の男は、うつ伏せの状態で天井を見つめている――死んでいるのは明白だった。
そして――その奥には、ひとりの少女がいた。膝を抱えるようにして壁にもたれ掛かり、細い寝息を立てている。顔つきは幼く、身長は一五〇ほど。まだ十歳くらいだろうか。
肩まである黒髪はボサボサで脂っぽい。大き過ぎるベージュ色のパーカーと男物のスニーカーは、汗よりも泥よりも血で斑に汚れている。
ただ、そのくすんだ赤は少女のものではないようだった。
柑奈がそのように見たのは、少女は浮浪者然とした身なりだが、顔色はそう悪くなく、寝息も穏やかだったからだ。
なら、いったい誰の血か?
この子に殺された人間のものだろう。目の前で死んでいる男も、おおかたレイプ目的で近づいて殺されたに違いない。そして衣服の血の汚れは古く、幾重にも塗られたようだった。
つまり、この子が――。
半歩近づくと少女のまつ毛が震え、目が薄く開く。
(――しまった)
柑奈が反射的に構えたナイフを、少女のあどけない瞳が捉える。
すると、ぼんやりした顔が一瞬で冷たいものに切り替わり、躊躇なく近くに落ちていたコンクリート片を掴んだ。
顔面目がけて投げられたコンクリート片を、柑奈は頭を傾けて躱す。そこに三メートルの距離を一瞬で詰めてきた少女の右の蹴りが、首を切り落とさんとばかりに襲い掛かった。
柑奈はそれを屈んで避けながらペンライトを捨て、少女の軸足を掴み、元いた場所に叩きつけるようにして投げ飛ばす――が、少女は受け身を取ってすぐさま立ち上がってみせた。
(異常だ)
目覚めてからの判断の速さ、蹴りの鋭さ、そして怒りも恐怖もない表情。どれも十歳ほどの少女が持つものではない。
男の死体を挟んで、柑奈と少女は睨み合う。
しかし、それは唐突に終わりを告げた。
少女の無表情が溶けるように崩れていく――すると殺し屋のような雰囲気が霧散し、再びあどけない少女が現れた。
「……お母さん? ……ちがう、だれ?」
「……」
今しがた殺し合いを演じた相手を、一瞬でも母親と間違えた。そういう人物だったのか。それとも――柑奈は光源が足元のペンライトだけという空間で考える中で、確かに少女から混乱と恐れを感じ取れた。
「ねえ、だれなの?」
柑奈はナイフを持ったまま右手で慎重にペンライトを拾い、あらためて少女を見た。
長い袖から控えめに出ている指は土っぽく、血を拭った痕がある。どこを見ても汚れていて、家を持たない殺人鬼か逃亡者といったふうだ。
「……私は、竜胆柑奈」
「リンドウ、カンナ……知らない」
自分の名は有名だが、子供までもが知っているわけではない。ただ、マフィア殺しであれば別だ。しかし、この少女は知らないと言った。
それはつまり、少女がピクシーであることはほぼ間違いないが、狙ってマフィアやギャングを殺して回っていたわけではないだろうということ。
「あなたは……悪いヤツ?」
だとしたら?
柑奈は警戒を強めつつも、少女の冷たい声の中に懇願のような響きも感じた。
「どうだろうね。でも、悪い奴を殺すのが私の仕事でもある」
「……」
少女は柑奈の瞳を見据えて押し黙る。どうやら、望んだ答えではなかったらしい。
これ以上自分から踏み込んで刺激したくはなかったが、柑奈は話しを進めることにした。
「それじゃ、次は私の質問。最近その悪いヤツを殺してるのって、あなただよね。何が目的?」
「私は悪くない」
柑奈はため息を飲み込んで繰り返す。
「どういうこと?」
「……わからないよ! 気付いたら真っ暗なところにいて、出れたと思ったら外も暗くて……」
「それでそのまま逃げた?」
「うん。ずっと」
人攫い。人身売買の被害者か。よくある話だが、逃げ出せたのは幸運だ。
「あなたの名前は?」
「私……私は……? 違う。でも、あれ……」
一時的な記憶喪失だろうか。意識ははっきりしているから、覚醒剤だとかを大量に投与された可能性はなさそうだ。別の妙な薬でも飲まされたのかもしれない。
「いいよ。落ち着いて」
柑奈は、リュックサックからコンビニのビニール袋を取り出した。中にはミネラルウォーターとサンドウィッチが入っている。
仕事帰りの途中で買ったものだったが、自分の腹の虫には我慢してもらうことにした。
「ほら、食べて」
二人の間にビニール袋を置くと、少女はおずおずとサンドウィッチを手に取り、慣れた仕草で包装をむいていく。日常生活に必要な記憶はあるのかもしれない。
少女はガツガツと食べ始め、その様子を柑奈はさりげなく観察する。
浮浪者同然の生活をしていたせいか、身なりは相当に酷い。スニーカーは十年以上履き潰した様だし、首筋や鎖骨のあたりにも乾いた血の跡がある。それでいて負傷は見られない。
妙な少女だ。自分と同じように、プロから訓練を受けたのは間違いないだろう。
間違いない。が、それはどういった生活環境なのか? あの身のこなし、護身術としてはあまりに攻撃的で行き過ぎている。教えた者は、何を考えて鍛え上げたのだろう。
そもそもだ。高い技術を修めたからといって、それを実戦で実行するのは簡単なことではない。軍人でさえ、人を撃てるように特別な訓練をすると聞いたことがある――にも関わらず、少女は暴力に慣れた相手に殺人をこなし続け、記録的な数の死体を築いてきた。ということは、もっと以前から実戦に身を置いてきた可能性もある。
(……まったく)
この少女を誰かに引き渡すのは簡単だ。すっかり気を緩ませた今なら、煮るなり焼くなりどうにでもできるだろう。
ミネラルウォーターとサンドウィッチを引き換えに、いくらかの懸賞金を得る。こんな簡単な仕事はない。迷い猫探しのほうがよっぽど面倒だ。
しかし――この少女をどうするか、柑奈はもう決めていた。
「――よし、食べ終わったね。行く場所はあるの?」
「……ない。何も、思い出せなくて……」
やはり、捕まっていた時に何か薬をやられたか。他の可能性、例えば酷いことをされて自失状態であったなら、今日まで逃げ続け、殺し続けるのは不可能だ。
「なら、私の家においで。しばらくいていいから」
「ど、どうして?」
「親切にしてくれるかって? こんなところに、女の子一人放っておけないでしょ」
本音ではある。ただ、何より自分に重ねてしまったからだった。
この子の両親は、おそらくもうこの世にいないだろう。特殊な事情があって狙われたなら、親どころか親族もろとも殺されているかもしれない――それか、生活のために売られたかだ。
「どうする?」
柑奈を見つめる瞳が徐々に濡れ始め、ペンライトの明かりが儚く反射する。
やがて溜まった涙が大粒の雫となって零れると、少女の感情も溢れ出た。
「……助けて、ください」
少女は震える声で懇願する。
柑奈は一歩近づき、少女の酷く汚れた髪を撫でた。自然に出た振る舞いだったが、同時に、これが演技だったらバケモノだな――と冷静に思う自分にハッとする。
(そうだ。私は良い人間なんかじゃない。子供相手でさえ当然のように疑う。とっくに染まりきってるんだ)
柑奈は短く息を吐き、気持ちを切り替えた。
いくらか待って少女の涙が止まったところで、柑奈は一つ質問をする。
「これまで誰かに見られたことは?」
「ううん。みんな殺しちゃった」
「そう」
少女はぞっとする言葉を平然と言ってのける。
まったく良い気分はしなかったが、それは朗報だった。
顔が割れていないのなら、ほとぼりが冷めるまで待てばうやむやになる。ネット上で比較されていた切り裂きジャックのように、本当にいたのかさえ事実は立ち消えるだろう。
そうしたら血縁者なりに引き渡せばいい。もちろん、存命で問題がなければだが。もし身寄りがないのなら、その時にまた考える。
残る問題は今、目の前にある。それは、どうやってここから家に帰るか、だ。
当初の予定では、貸し切り状態の始発に乗り込んで、ゆったりと帰宅する予定だった。しかし、この少女と一緒でいたら、さすがに不審がられるのは避けられないだろう。
身なりの問題だけではない。ピクシーが少女であるという推測が一般にまで知られているのだから、家に着くまで誰であろうと見られるわけにはいかないのだ。
そしてそれらを解決する方法は、この状況では一つしか考えられなかった。
「ちょっと待ってて。二〇分もしたら戻ってくるから」
二〇分後、柑奈は遅れることなく戻った。
少女と死体もそのままだ。ただ、少女の手には懐中電灯があった。聞けば、この殺した男の所持品らしい。
対して、柑奈の手にはスポーツメーカーのボストンバッグが握られている。
大きさは背負えば背中がすっぽり隠れるほどで、子供一人分の重量なら耐えられる作りになっている。つまり、少女をバッグに入れて運ぶという算段だ。
柑奈はこれを、この辺りに不法に住みついている者から買い取ってきた。
かなり使い込まれているが、幸いにもどこも破損していない。少女が入れば、その臭いも誤魔化せるだろうと思われた。
「あなたに懸賞金が掛けられてるのは知ってる? 捕まえたらお金が貰えるの」
「知らないけど……」
少女の瞳に警戒の色が灯る。
「いや、私が捕まえるってことじゃなくてね。人の目を避けるために、このバッグに入ってもらって――」
「嫌だ」
「だから、そうじゃなくて」
「嘘だ! そうやって、また知らないうちに車に乗せるに決まってる」
「車……それって、さっきの話?」
少女は不安げに黙って頷く。
柑奈は思わず手で顔を覆った。
マフィア殺しが始まったのは、例の仕事の翌日あたりからだった。あのセダンに乗せられていて、襲撃を受けて解放されたに違いなかった。
そして自分とシュリがあの場を離れ、ジャージ女が到着するまでの短い間に少女は脱出した。
ああ、ブツは二つだったのだ。
馬鹿が。なぜ気付かなかった。時期を考えれば、少しでも関連を疑うべきだった――違う。それはもういい。重要なのは、裏社会の人間がこの少女を欲しているということだ。
いったい何を企んでいるのか。あの状況――どこぞの資産家の娘を攫ったとか、そんなチンケな話ではないはず。単純な人身売買でもないだろう。
どうすべきか。
いや、どうするかはもう決めていた。その心は強まったくらいだ。クズ共のために動く義理もない。
「もう一度言うよ。このバッグに入って欲しい。あなたは悪い奴らに狙われてる。そこに転がってるみたいな奴じゃない。あなたを探してる奴らがいるんだ。だから、誰にも見られるわけにはいかない……家に着くまでの辛抱だから」
少女は緊張を崩さない。
「ならこうしよう」
柑奈は腰の黒いナイフを鞘ごと取り外すと、刃のほうを持って少女に差し出した。
「おかしいと思ったら、これでバッグの中から私を刺せばいい」
柑奈は戦闘態勢を解いている。今この瞬間、少女がナイフを受け取って攻撃に転じたら、あっけなく致命傷を負うかもしれない。
「本当に、やるよ」
「構わない」
仕事中にクズに殺されるよりはずっといい――と、柑奈は本気で思った。しかし、ここで死んだら少女を守れないのも事実だった。
「……」
少女は黙ったまま、黒く鋭利な形をした誠意を受け取った。
それを見て、今度は柑奈が頷く。
「一時間くらいは歩くけど、我慢して」
「……うん」
「家に着いたらシャワーを浴びて、ご飯を食べて……そうしたらゆっくり寝よう」
少女はかすかに頷くと、くたびれたボストンバッグへ入っていった。
(さて、と……)
行き先は自宅のホテルではない。
横浜市と川崎市の境界付近にある、仕事で使う隠れ家の一つだ。
そこはロストフファミリーとサングレ・イ・カデナスの緩衝地帯になっていて、犯罪組織の活動が緩い。そのため少女を匿うのに都合が良い。
しかし、匿うだけでは不十分だ。少女を取り巻く状況は、尋常ではないことが判明した。彼女を平穏な生活に戻すには、必ずやらなければいけないことがある。
少女が何者なのか、内に何を秘めているのかを知り、そして全てを清算しなければならない。
ボストンバッグを左肩に掛ける――すると、確かな重みが肩に少しの痛みをもたらした。
まだ少女のそれは、せいぜい大型犬と同じくらいだろうか。それでも重い。命の重さだ。
この重さを気取られてはいけない。
柑奈は一歩踏み出し、夜明け前の街へと歩き出した。




