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第1話 黄昏にて

 初めて人を殺した、その時のことはよく覚えている。

 握りしめたナイフが肉を裂く感触。弓を引き、放たれた矢が頭蓋を穿つ音。肌にかかった血の温かさと乾いた後の不快感。

 感慨はなかった。

 その行いに恐怖し、震えることもなかった。

 ただ、決定的な一歩を踏み出したことだけは強く感じた。




 夕暮れに落ちゆく廃墟群――その中の一つ、影に覆われたビルの屋上に一人の女が佇んでいる。

 女の装いは全身黒づくめ。フード付きのジャケットも、ジーンズも、足元のタクティカルシューズも全てが黒い。さらにフードを目深に被り、顔貌も窺えない。

 不審で不吉な存在。誰であっても避けるだろう。

 しかしその一帯は、三度目の世界大戦とその後に続いた災害で棄てられ、以後一〇〇年以上にわたって放置されている区域で人影はない。

 電気も水道もなく、文明的な存在と言えば荒廃したビルだけ。そんな場所いるのは、街にいられなくなった犯罪者やワケあり、それから野生動物くらいのもの。

 女がいる理由は、そうした者たちとは別にある。仕事のため――無論まともではない。

 殺しだ。ターゲットは、女がいるビルの正面からまっすぐ奥へ伸びる荒れ果てた道路から来る車――それに搭乗している者たち全て。

 依頼があったのは、今からたった三時間前。通常ではあり得ない急な案件だった。それでも女は、情報の正確さと安全性を鑑みて引き受けた。

 そして、その依頼のために急ぎ用意した代物が右手にある。

 見てくれを言えば、一般的なものよりやや太く長いだけの矢。しかし、今回の仕事をこなすためには不可欠な特殊な矢だ。

 女はそれを、愛用のやはり特製のコンパウンドボウから放つ。

「……」

 廃墟は静謐としている。聞こえるのは、木々のざわめきに鳥や獣の声。それからビルの破片が崩れ落ちる音。

 そんな風流とも言える時間に、低いエンジン音が混ざり込んだ。

 まだ遠い。彼方に光の点が見えるだけ。

 女は体を慣らす。首、腰、両脚、左腕――右腕に準備運動は必要ない。

 女の右腕は、肩から先が義手になっている。サイバネティックスの高度な技術により自在に動く、便利で凶悪な道具だ。この腕だからこそ、素手で張りの強いコンパウンドボウを引ける。

(来たか)

 双眼鏡を覗く――黒いセダンだ。

 女はゆらりと矢を番え、その時を待った。


「大した旅行にもなりませんでしたね」

 運転手の男がつまらなそうに言った。

 男はがたいが良く、スーツが張ってしまっている。

 ネクタイのない首元からは、禍々しいタトゥーがうなじへと伸びている。さらにハンドルを握る拳にはいくつもの傷痕――男は悪辣とした内面をまるで隠しきれていない。

 セダンには、似たような男が他にも三人乗っている。

 助手席に一人、後部座席に二人――男たちのスーツの裏には、ハンドガンに似た小型のコンパウンドクロスボウが隠されている。

 大戦前であれば、そのスーツの下にハンドガンやサブマシンガンを隠していたであろう彼らは、正しくマフィアだった。

「おい、もっと急げないのか」

 四人とは違う五人目の男――後部座席の中央に座る、くたびれたスーツを着た男が言った。

 血生臭い世界とは縁遠そうな風貌をしているこの男は、武器ではなく、水筒のようなものを大事そうに抱えている。

 男たちは、五人目の男の言葉を無視して低劣な会話を始めた。

「無駄話をするな! ちゃんと警戒しろ!」

 くたびれたスーツの男のその声には、苛立ちと不安が混ざり合い、強い口調ではあったが震えている。

 しかし、その恐れはマフィアに対して現れた反応ではなかった。

「もし私の身に何かあれば、お前たちに責任など取れんだろうが!」

「黙ってな。あんたは俺らのボスでも上司でもない。あんたが俺らの言うことを聞いていればいいんだよ。暇ならクロスワードでも解いてろ。先生さん?」

 助手席の男が嘲りを込めて言い放つ。そして先生と呼ばれた男は、「くそっ」と舌打ちをして抱えていた物を強く握りしめた。

 それをシート越しに確認した助手席の男が鼻で笑ったところで、車が急ブレーキを掛けて止まった。

「どうした?」

「いや、ほら。ボロっちい女が出てきたんですよ」

 車の前には、ヘッドライトに照らされた女が一人、誘うような目つきで佇んでいる。肩にかかる赤茶の髪はボサボサで、下品なベビードールも薄汚い――売りをしている住人だと一目で分かる風貌だった。

「こんな場所にもいるなんてな。買う奴がいるんだろうが」

「顔も肉付きも悪くないですよ。ついでに攫っていきますか?」

 サファリパークの客のように呑気に話す二人に、再びくたびれたスーツの男が怒りを露わにする。

「構ってないでさっさと行け!」

「言ったはずだ。あんたに命令権なんてない」

 低く冷たい圧のある声で言われ、くたびれたスーツの男は目を逸らして押し黙る。

「まあ、確かにどいてもらわないとな。そもそも追剥ぎの可能性もある」

 助手席の男は、そう言いながらクロスボウに手を伸ばす――と同時に、車体が小さく揺れた。

「な……」

 ボンネットに棒のようなものが突き立っている。

 それが何かは分からない。しかし、攻撃であることは明白だった。

「エンジンはどうだ?」

「――駄目です。やられました」

「くそっ、あのビルからか?」

 正面一〇〇メートル先にはくすんだビルがそびえ立ち、道路はそこで左へ曲がっている。

 助手席の男がサッと周囲を見渡す――人の気配はない。娼婦らしき女もいつのまにか姿を消していた。

「だから言っただろう! ちゃんとしろと――」

「黙れ! 全員、車を出て左手の路地に入れ。徒歩で進むぞ。ネズミ野郎、お前も一緒だ」

 マフィア四人はクロスボウを手に構え、一斉に車を降りた。

 すると右側のドアから降りた二人が、立て続けに前のめりなって倒れ込んだ。異変に気付いた三人が振り向く――倒れた二人の頭には、漆黒の矢が刺さっている。

「ひ、あ、ああ!」

 くたびれたスーツの男が半狂乱に陥って来た道を走り出す。

「おい、馬鹿野郎――」

 続く罵りの言葉が吐き出されることはなかった。

 車の右手から飛来した矢が、木を打つような小気味良い音をさせて頭蓋を穿ったからだ。

 そして残るマフィアの男も、その状況を確認する前に串団子となった。


 襲撃者の女は、車を仕留めた矢を放ってすぐに移動を開始していた。

 立ち並ぶ廃ビルの屋上から屋上へと飛び移ること六棟――次の狙撃ポイントに到着すると、車外に出てきたマフィア四人をあっという間に仕留めた。

 そして今は、テールランプに照らされながら惨めに走る男に向けて、引き絞った弓を構えていた。

 男は動転しているせいか、それとも走り慣れていないのか、躓いたり足をもつれさせたりして小さな的を大きく揺らしながら走っている。

 また男が躓き静止した瞬間を狙い、女は矢を放とうとした――その時、男の横合いから頭部に何かが飛来して突き刺さり、男は力を失い荒れたアスファルトに倒れた。

 目を凝らしてよく見れば、刺さっているそれは大型のナイフ、ククリナイフのようだった。

 力を抜いて弓を下ろすと、道路脇の暗がりから娼婦の格好をした女が現れ、男に刺さったククリナイフを引き抜いた。

 次いで左耳に装着したインカムから、明るい女の声が発せられた。

『横取りしちゃってすみませんね、お嬢さま』

「別に。なんなら、シュリが全部やってくれて良かったのに」

『そいつは失礼しました。何せ私の姿に見惚れて失敗するんじゃないかと思ったもんで。見てくださいよ、このTバック。エグすぎでしょ』

 シュリと呼ばれた女が、尻を突き出す淫靡なポーズを向けてきた。

「よく見えてるよ。魅力的過ぎて、矢が今にも飛んでいきたそうにしてる」

『あはーん、なんて。フフフ…………お嬢さま? ……冗談ですよね?』

 女は嘆息し、周囲を見渡す。

(つまらない仕事だ)

 急だったとはいえ、あまりにも楽過ぎる。なぜ彼らはこんな人目がなく、死角だらけのルートを選んだのだろうか。これでは襲撃してくれと言っているようなものだ。

 それに、狙われるような要人や物を運んでいたのなら、護衛をあと一台か二台は増やすべきだった。

(――いや、どうでもいいか。やりがいを求めているわけじゃない)

 女は小さく頭を振って、それからフードを取った。すると感情の見えない顔が現れ、黒く美しい長髪が肩から流れ落ちた。

 眼下に動くものはない。骸の側で指示を待つシュリが、こちらを見上げて窺っているだけ。

 もうやるべきことはない――とシュリと合流するためにビルを下りようかという時、セダンの進行方向の先から一つのエンジン音が聞こえてきた。

 車種までは分からなかったが、大型バイクのそれだと判断できた。

 彼らの応援だとしたら早すぎる。依頼者が寄越した人間か、まったくの無関係の者だろう。いずれにしても、自分の仕事は搭乗者の殺害だけ。後のことは知ったことではない――そう女は結論を出した。

「ここで解散する。顔を見られないように」

『オーケー。お店で待ってますよ』

 エンジン音が近づいてくる――女が振り返ると、最初にいたビルの入り口が青白いライトに照らされていた。

(サンドウィッチでも買って帰るか)

 女はエンジン音に背を向け、廃墟の闇に溶け込んでいった。

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