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世界を超えて

 世界に通用するものが、日本で認められるとは限らない。

 それは、スケールの大きさの尺度の違いが成せる業かもしれない。


 沙菜には、年頃の女子が持ち合わせている羞恥心というものが欠けているきらいがあるらしい。

 先日、プールに行った際にも、更衣室だからと沙菜がタオルも持たずに水着に着替えようと服を脱ぎ始めたところ、同行したみんなから激しい叱責を受けたのだ。

 普段は()()()()()()なあさみにすら烈火のごとく怒られたのには、さすがに沙菜にも(こた)えるものがあった。


 沙菜は幼少期を飯場で過ごしており、そこでは壁もない場所で、現場作業の全員が雑魚寝をしているような環境だったので、着替えごときでモジモジ恥ずかしがったり、隠したりするようなようでは生活などできなかったのだ。

 それが刷り込まれている沙菜には、どうにもこういう感覚が理解しがたいのだ。


 しかし、以前にテラノレグラスの車葬をした理沙さんがその事を知って


 「ジャパニーズは、そんな細かい事ばかり気にしてるからダメなのよ!」

 

 と言っていたので、やはり育った環境によって違ってくるのだと思うのだ。


 そんな事を考えて悶々としていると、祖父が部屋にやってきて


 「沙菜、お疲れのところ悪いんだが、ちょっと車葬を頼まれてくれないか? 無論、ボーナスは出すからな」


 と切り出した。

 沙菜は、悶々とした現実から逃避するべくそれを受けて工場へと降りていった。


 いつもの場所には、埃を被った大柄なベージュのミニバンが寂しそうに沙菜を待ち侘びていた。


 「ラグレイトかぁ……それじゃぁはじめるよ」


 沙菜は言うと早速車葬を開始した。


 ホンダ・ラグレイト。

 '90年代後半を迎えたホンダはこの世の春の訪れを実感していた。

 空前のRVブームに対して流行のクロスカントリーを持たなかった事から乗り遅れて三菱に逆転を許すなど、どん底だった状況から'94年に発売したオデッセイをきっかけにして続いた“クリエイティブ・ムーバー”シリーズが大当たりし、一挙に時代の寵児へと返り咲いたのだ。


 そのけん引役であるオデッセイは日本で大ヒットを記録し、ホンダにとって無視できない存在へと成長していった。

 そんな中、本来のメインであるアメリカではそのサイズが小さなこと、エンジンが2200ccでパワー不足であることが災いして今一つ人気を得られなかった事から、次世代ではアメリカナイズされたモデルが登場する事になった。


 初代オデッセイの発売中の'99年6月に、V6・3500ccエンジンと全長5メートル超えのサイズ、更には世界初採用となった両側電動スライドドアを持つ堂々たるクリエイティブ・ムーバーのフラグシップに立つモデルとしてラグレイトは登場した。

 ちなみに、カナダの工場で生産されて世界へとデリバリーされるこの車がラグレイトと名乗るのは日本市場のみで、アメリカでは2代目オデッセイとして登場している。


 スッキリした外観と、初代オデッセイ譲りの機能的ながら車格を感じさせる質感の高い内装、そしてパワーは控えめながらも溢れるトルクで重量級のボディを軽々と引っ張る3500ccエンジンなどで、ホンダミニバンのフラッグシップに恥ずかしく無い仕上がりを見せたラグレイトだったが、日本ではオデッセイとのバッティングやその大柄なサイズ、そして3500ccという排気量がネックとなり全くと言っていいほど売れなかった。


 ラグレイトの登場直後の'99年12月に登場した2代目のオデッセイは初代と比べると今一つの販売状況で、ラグレイトにはチャンスがあるように見えたが、トヨタイプサムやマツダMPV、日産プレサージュなどのオデッセイの競合車種が増えた事、更には日本国内にはステップワゴンを持っていた当時のホンダのラインナップでは、そちらへと流出してしまったのだ。

 また、ミニバンのフラッグシップとは言えども、当時のミニバンはまだ日本では“子だくさんの家での移動手段”とみられていて高級感とは縁遠いものと見られていたのもラグレイトから顧客の関心を遠のかせたのだ。


 2001年にはマイナーチェンジを行い、4速ATから5速ATに変更すると同時に205馬力から240馬力にパワーアップを図る、サイドエアバッグの追加など大幅な改良が行われたものの日本での人気の回復には至らず、更には2003年10月には日本国内で3代目が登場するとその存在は消え去り、2004年12月に生産を終了して、日本では形の違うエリシオンに合流して姿を消す。

 ちなみに、アメリカ向けに関しては以降も日本向けとは別のラグレイトの後継車が登場しており、日米でのユーザーニーズの乖離が顕著となった。


 次にオーナーの情報が流れてくる。

 当時30代後半独身の男性で、前車は日産ADワゴン。

 現在と違い、独身でミニバンを買うという行為は相当珍しく、両親からは『結婚への伏線か?』と期待されたのだが、職業カメラマンである彼にとっては車中泊ができて荷物も多量に積めるステーションワゴンこそが原風景なための選択で、両親を失望させてしまう。

 移動距離も多く、年間10万キロ越えもザラにあるためにタフさで選んだADワゴンは正解だったが、さすがに70万キロ近くになったために引退させ、移動距離の長さからゆったりとパワフルに走れる本格ミニバンであるラグレイトに白羽の矢を立てる。


 主に自然や動物を被写体として、それらを追うためのパートナーとして、ラグレイトは縦横無尽に列島を駆け回って、四季折々の日本の風景の魅力を記録に残し続ける相棒を務めた。

 彼も、機動力や4WDでないといったデメリットはあるものの、ゆったりとしていてパワーに余裕もあるラグレイトをいたく気に入り、今までレンタカーを使っていた北海道や離島にもラグレイトで渡るようになる。


 そんな生活が2年ほど続いた時、彼に大きな転機が訪れる。

 彼のカメラマンの師匠が、海外で亡くなってしまう。

 彼に自然の素晴らしさ、それを写真に残す事の重要性を説いていた師匠は、ある時期から戦地の実態を記録する戦場カメラマンになっていた。


 彼は、師匠のやり残した仕事を片付けるためだけに、比較的安全な地域に限ってと言う条件で現地へと渡る事となった。

 しかし、仕事をこなしているうちに彼は自然を愛していた師匠が何故、こんな危険を冒してまで戦地の写真に拘ったのかが理解できるようになっていった。

 そして、彼自身も戦場カメラマンへ転身する事を決意する。


 年老いた両親の反対を押し切って現地へと渡り、年の8割以上を向こうで過ごし、更に戦争が終結しても、現地の暮らしが復興するまでは現状をファインダー越しに伝え続けた。

 そして、それを見届けると次の戦地へと渡る……の繰り返しで、日本にはほとんど戻る事は無かった。

 命の危険など、数えきれないほど経験しながらも彼がのめり込んでいったのには、彼と師匠がこよなく愛した自然との共生を実現するためには、愚かな行為を全世界に広める役割が必要だと痛感したからだった。

 なので、彼は誰に言われてもやめようとはしなかった。


 しかし、それを十数年続けていくうちに彼は自分の身体が衰えていくのを実感し、このままで前線に立つのは危険だと考えるようになっていった。

 そして、彼の遺志を受け継ぐ若き弟子が独立するのを機に日本へと帰って今までとは違った視点から自然を伝えるカメラマンになる事を決意したのだ。


 その際に放置され、すっかり動かなくなってしまったラグレイトを処分する事になって、ここにやって来た経緯が……。


 沙菜は思念をしっかりと受け取ると、ボンネットに手をついて


 「良き旅を……」


 と言うと車葬を終えた。


◇◆◇◆◇


 数日後、事務所にやって来た50代後半となったオーナーは、その年齢を感じさせないすっかりワイルドな出で立ちとなっていた。

 

 元より自然を相手に撮影に命を懸けていたので身体は出来ていたのだが、そこに戦場で鍛えられた逞しさがプラスされたそれは、思わずハッとするものだった。


 「それで、車は」

 

 彼はその見た目とは似ても似つかぬほど、狼狽した様子で沙菜に尋ねてきた。


 「エンジンをはじめとした動力系はほぼ全滅でしたが、外装は健康なので全国へと旅立ちました」


 ラグレイトは、本格的なミニバンを求める層には根強い人気があるためにパーツの引き合いも非常に多くて、出した2日後には全てのパーツに買い手がついたのだ。


 「そうですか……」


 彼は力なく答えた。

 彼の中で、結論を出したつもりでも志半ばで逃げ帰って来たという思いが残っているためだろう。


 沙菜は黙って机の上にある物を出した。


 「これは?」

 「あなたに、師匠からの想いを伝えて欲しいとラグレイトから受け継ぎました」


 沙菜はそれだけ言って差し出したのは1本の杖だった。

 師匠が戦場カメラマンになった折、納得いかない彼は帰国していた師匠に会いに行った際、唐突に富士登山へと連れていかれた際に渡されたものだった。

 

 山頂で師匠に、今ここで自然と向き合っていられるのは、平和だからこそであり、その手助けのために自分でできる事を考えたところ、戦争の愚かさと悲惨さを伝える事に行き着いた事、そして、いつの日にか再び自然を後世に残す仕事に戻るという強い意志を伝えられ、彼は師匠の考えが理解できたそうだ。

 なので、師匠が亡くなったと聞いた際には、彼も真っ先に現地へと飛び、そして、自分にできる事から師匠のやり残した仕事を継ぐと心に決めていて、日本での生活の全てを投げ打って飛んだそうだ。


 「師匠は、戦場で命を捨てろとは言っていなかったはずです。戦場から戻って自らの口で伝える事こそが、使命だと言っていたはずだとラグレイトは伝えていました」


 沙菜の言葉を聞いた彼は、何かに打ちのめされたように下を向いてしまった。

 彼は忘れてしまっていたが、師匠は確かにそう言っていたのだ。

 写真は、確かにその場の事実を伝えてはくれるが、その解釈は見た人間に委ねられ、また、歪曲もされてしまうものだと。

 なので、撮った人間が自らの口でその真実を伝えて残す事こそが、カメラマンとしての100%の仕事だと言えるんだ……と彼に口酸っぱく言っていたのだ。


 彼はそれを聞いて、日本へと戻った自分が臆病者なのではないかという小さな疑念が吹き飛んでいくのを感じた。

 それは、彼が師匠との約束を果たした瞬間であった。


 1ヶ月後、急遽彼の写真展が開催された。

 そこには、彼が最後に過ごした戦地の真実と、そして戦争が無ければこんな自然を望むことが出来たという以前の現地の雄大な自然の写真とが合体した展示で、多くの人の心を動かす事になった。

 そして、その結果、遂に手をこまねいて見ていた周辺国が立ち上がって、国連軍が派遣されるという事態にまで急展開したのだ。


 それが決して彼と師匠だけの力ではないが、たくさんある一つのきっかけになった事は、きっと師匠も喜んでいる事だろう。


 日本の枠を超えて世界に通用するミニバンとして誕生したラグレイトは、後に日本を飛び越えて世界に影響を与える仕事を成し遂げた男の相棒として、彼を支え続けてきた。

 もう、自身の命脈は尽きてしまったが、その結果をきっと誇らしいと思っているに違いないだろう。 

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