表裏一体
常識や不文律が変わる瞬間というものを目に出来る人間は恐らくいないだろう。
何故なら、それらは少しずつ目に留まらないスピードでゆっくりと侵食していって、長い時間をかけて既成事実としていくからだ。
しかし、後の世から見た時、確実に過去のそれらとは全く違った世界が形作られ、そのきっかけがあの時だったのかもしれない……と振り返ってみると分かるのだ。
沙菜には理解できないのが、あさみの最近の趣味だ。
今時、'80年代の物に興味を持ったなどと言って、カセットテープ式のヘッドホンステレオなどを買ってきたというのだ。
「マジでこのデザインがイケてない?」
などと訊かれるのだが、沙菜にはそのセンスがとんと理解できない。
祖父の工場に回ってくる解体車の中には、まだそこそこカセットデッキのついた車があり、沙菜も解体車の中に残されたカセットテープを聞いたことが何度もあるのだが、フィルターを耳につけて聴いているかのような、クリア感のない音に、巻き戻しや早送りの時間の長さ、更には温度変化でテープが伸びたりすると、途端に変声になってしまうところなど、辟易してしまうのだ。
今のデジタル音声の聴けるメモリーオーディオや、スマホの音楽機能の方が100倍良いと沙菜は思ってしまうのだ。
あさみの趣味は、未だに祖父の所で新車を買う際に標準のオーディオの代わりにカセットデッキをつけて欲しいとリクエストをしてくる年配者と変わらないのだ。
そんなモヤモヤした思いを引きずって家に戻ると、リビングに居た祖父から
「済まないが、簡単に終わる車葬を引き受けてくれ。買い換えの下取り車の解体だから難しくないし、臨時収入もあるぞ!」
と頼まれたので、沙菜はさっきまでのモヤモヤを振り払うようにいつもの場所へと行った。
そこにはフロントの破損した青いハッチバック車があった。
「アスティナかぁ……珍しい。それじゃぁ、いくよ」
というと車葬を開始した。
マツダ・ファミリアアスティナ。
現在では信じられない事だが、2000年代に入るまでの日本のマーケットでは5ドアの車は全く売れないのが常であった。
'70年代に初代ホンダシビックのヒットなどで日本にもハッチバック車が花開いたが、あくまでスポーティな3ドアモデルがメインあり、5ドアはごく初期のブームの頃に売れたものの、ブームで登場したハッチバック車がモデルチェンジ時に、4ドアセダンを追加して5ドアと選択できるようにラインナップを整えると、途端に4ドアに人気が集中して5ドアは売れずに廃れていってしまったのだ。
そんな状況を変化させるべく、各メーカーは様々な対応を講じていく。
何故なら、欧州でのスタンダードは5ドアであり、必ず開発しなければならないボディタイプだからである。
3ドアとはデザインテイストを異にして、あくまで4ドアからの派生といったデザインテイストを採り入れてみたり、5ドアセダンと名乗り、ハッチバックという名称を使わずにイメージダウンを避ける方策を採ったり、ハイパワーなターボエンジンを設定して、4ドアとの遜色を無くしてみたり……と、手を尽くしたのである。
そんな中でも他メーカーよりも欧州への依存度の高いマツダでは、この問題はずっと頭を痛めてきた問題であった。
空前の大ヒットに恵まれて、マツダを倒産の危機から救った救世主である5代目であるFFファミリアにも5ドアモデルがあったが、イメージリーダーのXGグレードや、高性能版のEGI、ターボモデルが無かった事なども災いして今一つリピーターを獲得できずに、6代目では4ドアへと顧客が移行してしまい、深刻な5ドアの不振に悩んでいた。
しかし、同時期に登場した3代目カペラで、マツダは欧州において一大ムーブメントを起こす。
3代目となったFFカペラに欧州仕様に先行して設定された5ドアは、その背の低さと、後部をファーストバックとした、まるでクーペのようなデザインが、質実剛健を是とする欧州で受け入れられて大ヒットし、欧州において遊びのデザインは否とされてきた常識を打ち破り、マツダの知名度をかの地で一挙に不動のものとしたのだ。
それを受けて'80年代後半からのマツダは、これを推し進める政策に出た。
日本では2年遅れの'85年にカペラに5ドアを追加、'87年に登場した4代目では、CGと呼ばれる5ドアをメインに据えるなど、間違いなく日本に5ドアのムーブメントが起こる事を確信して、その先陣を切ったのだ。
それに2年遅れで続く7代目ファミリアにおいても、5ドア復権の隠し球を用意していたのだ。
'89年2月にモデルチェンジした7代目ファミリアでは、先代の不振を反省して大胆なデザインチェンジを断行。3ドアはプジョー205に、4ドアはベンツの190にそれぞれ影響を受けたものへと生まれ変わり、5代目の亡霊を引きずって殻が破れずにいた6代目のものから個性的なものへと生まれ変わった。
それに2ヶ月遅れの4月の末に、満を持して登場したのが、マツダの贈る5ドアの新しい提案の第2弾となったファミリア・アスティナである。
ファミリア・アスティナのデザインは、従来このクラスの5ドアが、3ドアから派生しているのに対し、他のボディとは全く関連性のないものとなっているのが特徴である。
敢えてこの3ドアとアスティナの2車が同じ車種だという予備知識を持って見るなら、リアのホイールアーチの処理や、太いCピラー処理に共通項を見出す事ができる……というレベルのもので、傍目にそれを見抜くことは不可能である。
そして、アスティナの最も力の入っているところは、実用性が存在意義とも言える5ドアボディでありながら、3車の中で最も全高が低く、また、カペラで培ったファーストバッククーペのような処理のリア周りが織りなすスポーティな佇まいが、5ドアを感じさせない魅力的な仕上がりになっている点である。
それに華を添えているのが、リトラクタブルヘッドライトを持つフロント周りの処理で、北米等の法規に合わせるため、というリトラクタブルヘッドランプの本旨から外れた、デザインのための遊びではあるが、このフロント周りの処理があってこそこのデザインは魅力的に映るのである。
これを合わせたアスティナは、まるで欧州製スポーツカーのような佇まいを持つ、実用的な5ドアとして欧州で不動の人気を得るのである。
日本におけるラインナップは、1500cc、1500ccと1600ccのツインカムで、3ドアと4ドアに存在した1300ccやディーゼルエンジンと言った低性能なモデルを持たず、今までのファミリアの5ドア最大の弱点であった、貧弱なエンジンと、3ドア派生の中途半端なデザインの持つ貧乏臭さの排除であった。
アスティナという新たなネーミングと、流麗なデザイン、更には他の2ボディとはダッシュボードまで違うという気合いの入った設計で、5ドアの復権を目論んだアスティナであったが、ここまでの渾身の一作をもってしても日本での5ドアの不人気という壁は崩す事ができなかったのだ。
その後、ユーノス店スタートに合わせて兄弟車としてユーノス・100を産み落とし、またマイナーチェンジでは1800ccのツインカムを追加するなど、拡販には努めていたが、3ドアと4ドアがそこそこ売れていく中、日本でのアスティナの人気はさっぱりで、'93年10月には、欧州での後継車種が日本でもランティスという名で発売され、しばらく併売の後、'94年6月にファミリアのモデルチェンジに伴い消滅する。
次に持ち主の情報が浮かんでくる。
新車ワンオーナーで、当時20代中盤の女性が購入。
当時流行の兆しを見せていた女性総合職のキャリアウーマンのはしりで、バブルを謳歌しつつも、仕事と自分らしさにウエイトを置いて生きていく、当時としては特異なタイプだった。
バブル絶頂期なので、収入としてはBMWの318やランチアなども狙えたが、やはり、会社人間として社会的に嫌味にならない程度のランクを狙う。
当時のそう言った女性にはカリーナEDやプレセアなどの4ドアスペシャルティハードトップが流行っていたが、実の無い見た目のカッコ良さを求めたものに美しさを感じない彼女は、色々な車を調べた際、見た瞬間にビビッと来たアスティナを迷わずに購入する。
当時はイケイケな女性が流行りだったが、彼女はあくまでも自分の感性にあった物にしか興味を示さずに、そう言った華美で派手なものには興味を持たずに、違いの分かる店巡りや、ちょっとマイナーな海外旅行などを楽しみつつも、仕事には打ち込んでいき、バブル崩壊後も管理職として着実に会社人間としての階段を上がっていった。
しかし、順調に築いていたと思われたキャリアは、ふとしたことから砂の城の如く崩れ去っていく。
会社の経営が思わしくなくなり、外資へ売却されてしまったのだ。
親会社のリストラ策には、無駄な管理職の削減という内容が盛り込まれていて、彼女を含めた相当数の管理職がポストを追われて閑職へと追いやられる。
その選定の際、度々上司に楯突く生意気な女……という風に旧の経営陣から疎まれていた彼女は、差し出されるようにリストの上位にランクされていたのだ。
彼女は希望退職に応じて、多めの退職金を貰って会社を去った。
その送別会の映像で、沙菜は見覚えのある人を見つけた。
その会場で彼女の隣で涙を流して花束を渡している女性は、随分若いが、以前にカリーナEDを車葬した沙映子さんだった。
2人は同期で、共に出世レースを戦ってきた仲だったのだ。
しかし、会社を追い出されても、彼女は腐る事は無かった。
彼女は出世という目標を失っても、他の叶えたい事へとベクトルを切り替える事にしたのだ。
そこで、今まで一度も行った事の無かった欧州旅行へと沙映子さんと出かけた。
2人であちこちの国を回る中で、彼女の中で、今まで仕事に振り分けられていたリソースが解放された時、彼女の中で大きな閃きが湧いてきたのだ。
海外から戻ると、彼女は数ヶ月かけて準備をして都内のマンションを売却し、とある山村へと移り住み、そこで始めたのが陶芸だった。
彼女は、海外で様々なものに触れるうちに、創作意欲が湧き、山村に住む匠を拝み倒して弟子入りしたのだ。
山の中で半ば自給自足の生活を送りながら、師匠に怒鳴られながら基礎を学んで、数年をかけて自分のものとすると、遂に免許皆伝となって自分の工房を持つことになる。
独特の感性で作品を発表する中で、生活のためにスーパーで働きつつ、独学で鞄作りや革の加工を覚えて、実用的な皿や花瓶などを作って売ったり、オリジナルの鞄などを作って売ったりしながら生計を立てて暮らしていた。
都心で出世競争に勤しんでいた頃には思いもしなかった生活であるが、彼女にとってはどちらも全力での戦いであることには変わりなく、今もあの頃と何一つ変わっていないという思いで生きていた。
一定の評価は得ているものの、それだけで食べていくには心許ないため、皿や茶碗、コップなどを作っては、更に売るために都内の店舗にまで販路を広げていき、陶芸家としては異色の商売人となっていった。
そして、テレビの情報番組などで、日用雑貨を作る陶芸家として紹介されると、途端に皿などの生産が間に合わないほどの人気となり、更には彼女の作品に対する評価も高まっていった。
それでも、自分の作品が作れれば良いと、今まで通り日用の陶器や革製品を卸し、スーパーで働く生活を続けていたが、アスティナで納品に行った先で一時停止無視のアルファードに衝突されてしまってここにやって来た経緯が。
沙菜は、アスティナからの思念を丁寧に読み取っていくと、歪んだボンネットに手を置いて
「良き旅を……」
というと車葬を終えた。
◇◆◇◆◇
2日後、事務所にオーナーの女性がやって来た。
「車は、無事だった部分のみをリサイクルして解体します」
「分かりました……」
沙菜が説明すると、彼女は静かに頷いた。
しかし、この車を含めて、当時のマツダ車は頑丈だという事を沙菜は思い知らされるのだ。
これは祖父も言っているが、同クラスの当時のシビックなどでは全損となる事故でも、ファミリアではバンパー修正だけで直ってしまったりする事が多かったそうだ。
今回の事故も同様で、現行モデルのアルファードを自走不能にしてしまうほどの衝撃があったのに、それを左フロントだけで受け止め、キャビンを守っているのはさすがというべきだ。本来なら、彼女は腕の一本も折れていてもおかしくない事故だったのだ。
「これを」
沙菜は、アスティナのスペアタイヤのスペースにあった小さな包みを彼女へ渡した。
彼女がそれを開くと、中からはパステルカラーのマグカップと小皿のセットが出てきた。
「どこから?」
「アスティナのスペアタイヤのスペースに落ちていて、あなたにこれを渡して欲しいという強いメッセージを受け取りました」
彼女の問いに沙菜は答えると、彼女はこれらについて話し始めた。
1人立ちしても、陶芸だけでは生活できないため、彼女は伝手を使ってあちこちに皿やカップなどを作って売り込みに行っていた。
その甲斐あって、そこそこの売り上げが見込めるようになったのだが、もっと販路を広げてスーパーでの仕事無しでも食べていけるようにしたいと、100円ショップに売り込みに行った際に持って行ったサンプルだそうだ。
実は商談は上手くいって、彼女のこのシリーズは100円ショップに並んだのだが、あまりに好評すぎて生産が追い付かず、商売的には失敗に終わったのだそうだ。
しかし、彼女の努力は意外なところで花開いて、このシリーズがSNSなどで評判となって問い合わせが相次ぎ、一度は取引停止となった100円ショップから、不定期で良いので作って欲しいと依頼があり、彼女は『幻の100均芸術家』などと呼ばれるようになって、そこから名前が売れていったのだそうだ。
ただ、その頃の彼女は、100円ショップ向けに寝る間も惜しんで商品を作り続けたおかげで、翌日のスーパーでは、バックヤードで商品を倒したり、発注の際に寝落ちして桁を間違え、多量の誤発注をしてしまうなど、とんでもない目に遭ったので、当初、続編の話が来た際には断ったのだそうだ。
今ではスーパーの仕事も順調でチーフとなった彼女は、創作と仕事の両輪の生活がようやく成り立ってきたが、このところの反響に陶芸だけで生きていけるのではないかと決意が揺らいでいたそうだ。
「そうだよね……浮き足立つのはまだ早いよね……」
彼女は、それらを眺めてしみじみと言った。
それは、苦楽を共にしたものだからこそ伝えられる思いなのだろう。
それから1ヶ月後、学校帰りに里奈に誘われてコスメを見に行った帰りに偶然立ち寄った100円ショップで、沙菜は気になる物を目にした。
そこには、カップや小皿、小鉢などが並んでいて、今までの彼女の製品のシンプルな文字の横に青いアスティナが描かれていたのだ。
それは、今までの彼女の作風とは違う新たな方向性へのチャレンジとして、後の世まで語り継がれることとなったのだ。
彼女の感性を|磨いた相棒《アスティナは仏語で「磨き上げる」の意》は、死した後に多くの人々の目に触れる事となった。
それをアスティナがどう思っているのかは分からないが、少なくとも彼女の新たな境地を切り開いてくれたことは確かなのである。
そして、家に帰った沙菜が目にしたのは、彼女から送られてきたそれらのシリーズの陶器であった……。
「別に欲しくないんだけど……」




