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透明な鎧

 人には先天的な性格の他に、環境によって後天的に司られる性格というものもある。

 この2つが合わさった時、個人のキャラクターが出来上がるのだが、そこには相性というものが存在するのは言うまでもないことだ。


 あさみの友人に美憂(みゆう)という娘がいるのだが、その娘がなんであさみと一緒にいるのだろうと思うくらい性格が正反対なのだ。

 ギャルっぽいあさみに対して、美憂は物静かで育ちの良い感じで色白、趣味も見事にアウトドアとインドアで分かれており、おおかた趣味や話が合うように思えないのだ。

 しかし、あさみは美憂を連れて遊びに行ったり、休み時間にも話したりしているのだが、話が盛り上がっているので、沙菜にとっては不思議でしかない。

 それを口にすると、途端にみんなが悲しそうな顔をするので、沙菜は言わないが、自分とは合わないような気がしてならない、そう思うのだ。

 あさみ達に言わせると、沙菜は可哀想な環境下で育ったので、感覚が麻痺してしまっているのだそうだ。自分ではそう思わないが、人から言われるという事はきっとそういう事なんだろうと、自分自身を納得させた。


 今日は祖父が急ぎの仕事で出かけるために依頼されていた車葬をするべく、沙菜はすぐにいつもの場所に行くと、グレーのとても低いクーペが佇んでいた。


 「プレリュードinxかぁ、それじゃ、はじめるよ」


 と言うと車葬を開始した。


 ホンダ・プレリュードinx(インクス)

 日本のスペシャルティカーとは、常に一強他弱の構図になっていた。


 スペシャルティカーとは、量産セダンなどとシャーシやエンジンなどのコンポーネントを共用させて手軽な成り立ちながら、スポーティなデザインや、ラグジュアリーな内装を実現させた遊びグルマの事である。

 スペシャルティカーのはしりであるフォード・マスタングは、当時の量産セダン、ファルコンをベースにスポーティなスタイリングと豪華な装備で、主に当時のティーンを中心とした若者にターゲットを絞ったもので、決してシボレー・コルベットのようなスポーツカーでは無かった。

 このスペシャルティカーは世界中に影響を与えて、日本には'70年にトヨタが登場させたセリカによって上陸する。

 ちなみにこのセリカもベースは量産セダンのカリーナであり、手軽で安価な1400cc車があるなどスポーツカーの範疇には入らないものであった。


 当時は新興の自動車メーカーだったホンダでも'78年に初のスペシャルティカーとなるプレリュードが登場した。

 新規の販売店であるベルノ店における旗艦を務め、国産車初の電動サンルーフを備えるなど意欲的な作りであった。


 そして、日本のスペシャルティカー市場というのは冒頭の言の通り常に一強他弱で、初代で市場を開拓し、大人気を博したセリカも'77年に2代目になると凋落し、'70年代終盤から'80年代序盤は3代目日産・シルビア/初代ガゼール連合が覇権を握っていた。


 2代目は'82年に登場。

 当初は初代と同じで、可もなく不可もない売り上げであったが、その地を這うような、日本車離れしたデザインが評判となって徐々に人気が沸騰、更には'83年にシルビア/ガゼールがモデルチェンジをして人気を落とすと、入れ替わるように販売台数も爆発し、一挙にスターダムへと躍り出た。


 特に『女子大生が助手席に乗りたい車』というランキングではトヨタ・ソアラと常にトップ争いを繰り広げるようになると、それまでのプレリュードの高学歴な車に拘りを持つ中年男性といったユーザー層から、若いナンパ男や、地方のヤンキー系の少年等の層へと入れ替わっていった。


 3代目は'87年に登場。

 更に低くなった全高と、薄くなったエンジンルームは圧巻で、更にはダブルウィッシュボーン式サスペンションや4WSなどの先進技術も投入し、先代に引き続いてスペシャルティカーの覇権を掌握した。

 日本のスペシャルティカー史上初となる2世代連続でのトップブランドに登り詰めるか……と思われたプレリュードにも落とし穴があった。


 翌'88年に5代目にモデルチェンジしたシルビアでは、発表会で当時の社長が『スペシャルティカー市場がプレリュードに独占されている状況を許してはおけない』と、他社の銘柄を名指しで挑発するという異例のスタートを切り、半月足らずでシルビアが市場を圧倒し、3代目プレリュードのナンバーワンは三日天下となってしまった。


 劣勢に立たされたプレリュード陣営は立て直し策として、マイナーチェンジと同時に追加モデルの投入を行う。

 2代目、3代目とプレリュードはそのアイデンティティとしてリトラクタブルヘッドランプを採用してきたが、それを廃した仕様である。

 元々常時点灯が義務付けられている一部の国向けの提案であったが、シルビアの予想外のヒットで、ジリ貧となっていたプレリュード陣営には切り札の1つとなった。


 コンセプトは従来のリトラクタブル車とは違い、やや年齢層の高い大人のスペシャルティといった趣で、シート地の違いや、天井やサンバイザーの布張り化、メーター枠にメッキのリングがつくなど細かな部位まで拘って仕上げた違いの分かる大人のプレリュードに仕上げてあった。

 これは、2代目の後半以降、デートカーとしての人気が出ていくにつれて離れていった年齢層の高いユーザーを取り込むことによってシルビアに一矢報いる事を狙ったものであった。

 

 '89年11月に登場した固定ライト車はinxと名乗り、リトラクタブル車と違い、廉価版は存在せずにグレードも3種、同一グレードではリトラクタブル車よりも高価で、プレリュードで初のSRSエアバッグを装着車の設定もあるなどイメージを異にする雰囲気作りで登場したが、通常版共々全く注目が集まらずにシルビア一強の構図に風穴を開ける事は叶わなかった。


 元よりシルビアの人気は広範囲の年齢層に渡っており、その中には従来のプレリュードユーザーも含まれていた。

 更に本来年齢層が高く、ホンダ車を好むスペシャルティカーのユーザーにとっても、当時はUSアコードクーペや、レジェンドクーペなどの選択肢が増えた事もプレリュードinxの動きを弱めた要因となってしまった。


 プレリュードinxは通常版共々その後は放置され、'91年9月に4代目へのモデルチェンジと共に廃止され消滅する。


 次に持ち主の情報が浮かんでくる。

 新車ワンオーナーで、当時30代中盤、品の良い感じで遊び人風の男性。

 購入に来たディーラーにもジャガーXJ-Sに乗って来るなど裕福な出で立ちで、都内の高級住宅街にある自宅ガレージにはフェラーリ・テスタロッサやベントレー、レンジローバーなど世界の高級車がズラリと並ぶという、この車がやって来るには場違いな場所であった。


 オーナーは代々続く実業家の長男でグループの総帥。

 ビジネスの才覚は()()()()であるが、生来の遊び人で、国内外を問わずに飛び回っては数々の女性と浮き名を流していた。

 また、クルーザーや車が好きで、気になる車を買い漁っては乗り換えていた。


 そんな彼がinxを買った理由は、目立つ輸入車ばかりを乗り回していると、自分の行動が筒抜けになってしまうというプライバシー的な理由から目立たない車で、且つ自分が乗っていてもみすぼらしくない最低レベルのものという事からだった。

 あと、購入の決め手となったのが4WSで、狭い都内の道でも小回りが利くというところが、お忍びの足として便利だという理由だった。

 彼にとってinxは道具なので、車検時に別の車に乗り換えるつもりでいた。


 しかし、運命の歯車は大きく狂ってしまう。

 手がけていた事業がバブル崩壊を機に傾き始めていく、好景気時に不動産と観光業に投資したことが裏目に出て、経営するホテルやリゾート施設が軒並み閉鎖され、不動産も不良債権化する。

 そして、立て直しのきかなくなった事業を切り売りする中で、それらを買収した会社から乗っ取りを受けてしまって、彼が受け継いできた事業をすべて手放す羽目になってしまったのだ。

 最初からグループの乗っ取りのために周到に計画されていたのだが、お坊ちゃん育ちの彼には、気がつく事ができなかったのだ。


 彼は負債の責を問われてグループから放逐さてしまう。

 更には個人資産も負債のカタに殆どを手放す事になり、残ったのは倉庫として購入した郊外の古びたマンションの一室とinxだけで、要は売却するほどの価値の無いものが残されたのだった。


 全てを失った彼ではあるが、お坊ちゃん育ちであるために、そんな目に遭っても誰を恨む事も無く、また経営の一線に返り咲こうともせずにビルの管理人の仕事をしながら慎ましやかに生活をしていた。

 楽しみと言えば、給料日後に月一回、馴染みだった銀座や赤坂にあるお店に顔を出しての食事と、以前に所有していたクルーザーや世界の名車たちの模型を組み立てる事、弾丸代が勿体無いので年に一度となってしまった猟銃撃ち……と、派手に遊び回っていた頃とは比べ物にならない程、大人しくなってしまったのだ。


 それらの足として走り回ったのがinxだった。

 近所のスーパーから、銀座や赤坂、模型店や銃砲店、更には狩りに行く山中まで彼と共に駆け抜けていった。


 そんな生活を数十年続けていくうち、彼の中で大きな変化があった。

 今までの彼は、欲しい物を手に入れて、遊びたい事を遊びたい時にすぐ行っても満たされないものがあった。

 しかし、彼の人生の中で初めて、働いた分だけしか手に入らないという生活を送る事で、彼は初めて自分の中に満たされるものが芽生えてきたという。


 今までの彼はどんな大きなプロジェクトをこなして、どんな大金を動かしたとしても、満足のいく仕事ができたようには感じなかったが、今の彼は水道からの水漏れを直した、雨どいの詰まりを掃除した、その1つ1つの仕事をしたことに満足を感じるようになっていた。

 目の前で形になって分かる仕事、そして、利用者の人から「ありがとう」と言われる仕事をこなして手に入れたお金で、買える範囲の中で手に入れる事の出来る物こそが、本当の幸せを感じる事ができる事に気がついたのだった。


 彼の持っていたシェルビーコブラも、フェラーリ・テスタロッサも、ケータハム・スーパー7も、確かに本物に再び乗りたいという気持ちがなくもないが、今の彼にはガレージも無く、燃費も税金も高額なそれらよりも、給料で手に入れた18分の1のミニカーの方が今は愛おしいのだ。

 このミニカー1つ買うのにも数万円もするために、普段の食後のスイーツを3ヶ月諦め、節約して買ったものなので、彼の愛着は、かつて持っていた本物よりも大きくなっていたのだ。


 彼は、生まれた時から持っていた鎧を剥ぎ取られた事で、初めて自分らしさを得たのだという事に漠然とながら気がついたのだ。


 彼は毎日1つ1つを積み上げていった。

 現場が良いと言って昇進を断っていたのだが、遂に若手が迷惑すると断り切れなくなり、マネジメントする立場へと移った。

 でも、彼のコツコツと日々に感謝する仕事ぶりは変わらず、周囲の人達を大きく変えていく事になる。

 殺伐とした職場だったのだが、彼の影響で、和やかで風通しのいい職場になっていった。


 そんな彼も、誕生日を迎え、遂に定年となった。

 しかし、皆に請われて嘱託として、数年間は会社に残る事にはなったのだが、退職金というものを受け取る事になったのだ。


 幸い、最後の数年間は役員になれたおかげで、老後の貯えも出来たので、その退職金で何か贅沢をしたいと思った時、ふと集めていたミニカーに目が行った。

 それは、子供時代に初めて憧れた車であるフェアレディZであった。この車に憧れて、免許を取った際に最初に買って貰ったのも2代目フェアレディZであった。

 そんな折りに、新型が登場するという話を聞いたために、インターネットを調べ回って見たその姿に、彼は一目で魅入られてしまった。


 しかし、彼の中で贅沢をしてしまう事に物凄く罪悪感を感じて悶々としていたある日、快調に走っていたinxが突然エンジンの始動ができなくなって調べてみると、何故かエンジンの圧縮がかからないため、遂にinxを諦める事を決意してここにやって来た経緯を。


 沙菜は、inxから様々な思念を読み取ると、その低いボンネットに手を置くべく少し屈みながら


 「良き旅を……」


 と言うと車葬を終えた。


◇◆◇◆◇


 2日後、inxのオーナーである男性がやって来た。

 見た目は普通の年配男性ではあるが、どことなく育ちの良さと、凛とした感じがあり、纏っている風格と滲み出ているオーラが、彼に年齢を感じさせない活発さと艶やかさを供給しているように見えた。


 既に、新型フェアレディZの予約をしている彼は、それまでのつなぎに、3万円で買ったというフィットに乗ってやって来た。


 「車に関しては、ボディが無事だったので、外装中心にリサイクルすると思います」

 「そうですか」


 沙菜の説明に対しても、凄くあっさりと答える彼に、沙菜は車から読み取ったような思念の持ち主とはにわかには信じがたかった。

 今の彼は、特に物に頓着するような人間には見えないし、また、inxに対する感情も何も見出せないのである。


 沙菜が渡したのは、小さな折り鶴と、帆掛け船の折り紙だった。

 シートの下のかなり狭い隙間に落ちていたのだ。

 それを見ると、今まではずっと笑顔だった彼の表情が固まり、そのまま下を向いて動かなくなってしまった。


 しばらくの後、彼は話し始めた。

 これは、ある女性が折ったものだったそうだ。

 財産がある頃の彼は、労せずともモテたし、遊び相手の女性も沢山いた。しかし、相手も彼の背後にある財産を見ていたし、彼自身も見られているのはその部分しかない事を承知していたため、本気になる事など無かった。


 しかし、全てを失った後、唯一打ちのめされている彼に寄り添ってくれた女性がいたそうだ。

 実業家一家の跡取りとしてではなく、ビルの管理人で、冴えないinxに乗る素の彼と一緒にいたいという彼女と出会ったそうだ。

 最初は警戒心が抜けずに距離を取っていたが、長い時間をかけてそれが抜けていき、遂に全てから裏切られていた世界の中で唯一の信じられるものを見つけたそうだ。


 しかし、彼は彼女の思いが受け止められなかった。

 やはり、若い時分の経験が彼の動きにブレーキをかけてしまったのだ。

 彼は次第に距離を取るようになってしまい、彼女とは会う事は無くなってしまったそうだ。


 それを聞いた沙菜は、彼に向けて言った。


 「このinxは言っています。あなたが変わらないと、世界は変わらないと。今のあなたは、ただの負け組だと」


 それを聞いた彼は、打ちのめされたようにうな垂れると


 「あぁ、あの車なら思ってるでしょうね。『どうでもいい存在』から『唯一の存在』に勝ち上がったやつですからね……」


 と薄笑いを浮かべて沙菜に深々と頭を下げると帰って行った。


 それからの彼については、沙菜は特には情報を収集していなかった。

 正直、沙菜と彼ではもって生まれた環境があまりにも正反対すぎて、正直、沙菜の好きなタイプの人物ではなかったからだ。

 彼は真のどん底を見ていない。沙菜には肌で感じられる不満があった。


 ただ、最近祖父から彼の住所が変わった事を聞かされた。

 それが何を意味するのか、沙菜は敢えて聞き返す事はしなかった。


 

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