太陽と月
休み時間に唐突に音楽の話になった。
沙菜はやはりと言うべきなのか、音楽に対しても興味が薄く、特にお気に入りのものがあったりとか、好きなアーティストがいたりとかというのはない。
成長の過程で、物や娯楽に対する欲求というものを持てない環境下にいたため、そういう風に醸造されてしまったと言えば、そう言えなくも無いのかもしれない。
あさみと燈華は大抵流行りを抑えておけば良いのだが、里奈に関しては沙菜の知らないアーティストや曲名を言ってくるために、正直、こういう話が始まった時は、あさみと燈華の間に逃げ込むようにしている。これが処世術というものだ。
家に帰ると、祖父がギターの手つきを真似ながら歌っているところに出くわした。
祖父は若い頃、バンドをやっていて、ギタリストとしては相当な腕を持っていたそうだが、就職後はすっかり封印してしまったそうだ。
なので、同年代の人とは音楽の趣向が全く違っていて、洋楽や邦楽でもロックのようなものしか聴かないという、ちょっとした拘りがあるのだ。
沙菜に気付いた祖父は
「待ってたんだ。ちょっと悪いが、頼まれてくれないか? 爺ちゃんは接客があって、どうしても行かねばならないから……」
と言ってきた。
祖父は基本的に職人肌で、接客を好むタイプではない。
普通なら他の人に任せるような接客をやるという事は、きっと接客したいお客だったのだ。
工場のいつもの場所に行くと、後ろ半分が黒く焼けてしまったグレーのツートンカラーのステーションワゴンが沙菜を待っていた。
「マグナかぁ……それじゃぁ、はじめるよ」
と言うと車葬を開始した。
三菱・マグナワゴン。
日本は自動車文化未発達の自動車後進国である。
以前にも出てきたこのフレーズは、複数の理由によって成り立っている。今回はその1つである『日本ではステーションワゴンが売れない。育たない』が関係してくる。
戦後の国産車は多分にアメリカからの影響を受けて形作られていった。
そこには、基本になるセダンとそこから派生したクーペやハードトップと共にステーションワゴンがラインナップされていた。
セダンと同じ上質な室内と、高い走行性能、そして広大な荷室は、大型のワゴンともなればサードシートを起こして7名乗車も可能となるマルチパーパスカーとして、アメリカでもヨーロッパでも市民権を得ていった。
しかし、日本のステーションワゴンは、同一ボディのバンを内包するものが多かった。
戦後の日本の自家用車のスタートとして多かったケースは、商店主や工場経営者が業務用兼、マイカーとしてライトバンの上級機種を買い、それが所得の増加と共に切り離されて乗用車を欲していく……というものだった。
なので、日本人にはどうしてもステーションワゴンはライトバンの上級機種というイメージが色濃く残ってしまったのだ。
更に日本人にとって不幸だったのは、マルチパーパスなレジャーカーという面においても、日本では多人数乗車としては商業バンから派生したワンボックスカーになびいてしまう傾向が強く、ステーションワゴンの普及には至らなかった。
多くのメーカーが、ステーションワゴンをメインにしようとしても、販売の後ろ盾を失っていき、ステーションワゴンはおまけ程度のラインナップにしたり、ワゴンを廃止してライトバンのみに絞る車種も'70年代には出てくるようになっていった。
三菱もまた、海外との乖離に泣いてステーションワゴンを縮小してきていた。いつの頃からか三菱はベースのセダンが2回のモデルチェンジするタイミングで、ワゴンは1回モデルチェンジされるようになっていった。
小型車のランサーは初代、3代目、5代目、7代目でモデルチェンジをし、初代はバンのみ設定だった。
そして、ミドルクラスのギャランは初代、3代目(国内では3~5代目はギャランΣ)でのモデルチェンジを実施、2代目と4代目は外観を似せた初代や3代目のマイナーチェンジで乗り切っていた。
3代目、4代目に渡って設定されていたスーパーエステートは、セダンの上級車種並みの豪華装備を備えていながらも、バンのみの設定という日本のマーケットの妙に翻弄されたモデルであった。
そして、'83年に登場した5代目では格下のランサーバンへと統合してギャランのバンモデルは廃止される。
しかし、5年を経た'88年に突然オーストラリアで発売された5代目をベースとしたマグナのワゴンが日本へと逆輸入される事となった。
導入されたマグナワゴンは、一見すると5代目に見えるが、オーストラリアサイズに拡大されており、横幅は7センチ拡大され、排気量は2600ccとなっていた。
バブル絶頂期に導入されたマグナワゴンであるが、'89年より前であったために税制が2000cc以上では著しく不利に働いた事、その割にデザインがひとクラス下のギャランそのものにしか見えないため所有欲を満たさなかった事、更には'87年にギャランが6代目にモデルチェンジしていて、旧モデルにしか見えないマグナに魅力を感じないという要素などがあって、最初からヒットする事を考えて導入されていなかった。
それに応じて日本国内では特にアピールする事はなかったマグナワゴンであるが、そこからの数年で国内でのマグナワゴンを取り巻く環境は大きく変わってきた。
まず'89年に自動車税額が改定された事によって自動車税が81,500円から51,000円に軽減される。
同年にはスバルのレガシィによってステーションワゴンのブームが勃発、それに伴って、それまで販売不振で旧モデルで放置気味になっていたトヨタ・マークIIワゴンや、日産・ブルーバードワゴン等にも人気が集中するなどした。
それに伴って少しは期待値が上がったのだが、残念ながらボディサイズの大きさや、中途半端な排気量、そして高価だった事もあって、ワゴンブームの中でも数少ない注目を浴びない組に入ってしまい、販売台数は微増しただけで低空飛行を続けて'93年に輸入を終了する。
後継車は同じくオーストラリアからの輸入となった後継車のディアマンテワゴンとなり、日本でワゴンブーム及びディアマンテの人気にあやかってヒットする事となる。
次に持ち主の情報が浮かんでくる。
2オーナーで、最初のオーナーは50代のアメリカ人男性だが、日本に魅入られて永住を決意して購入。
大柄なワゴンボディが気に入って10年以上乗っていたが、古くなった事と、国産車のステーションワゴンが増えた事からステージアに乗り換える。
次のオーナーは20代前半の男性。
大きな荷室と国産車に無い雰囲気、更には格安な金額に魅かれて購入。
1人暮らしだったが、趣味で参加していたバンドでドラムをやっていたためにセットが搭載できるワゴン一択で、当時はミニバンやワンボックスは子だくさんの家庭で乗るものというイメージが強かったこと、アメリカ車には維持費の面で乗れないことから、エキゾチックな雰囲気のステーションワゴンを探していたのだ。
バイトと練習に明け暮れる毎日で、その他には脇目もふらない傍目から見たら異様な生活だったが、彼なりに完全燃焼し、いつか表舞台に立ちたいという夢があったために、侘しいとか孤独だとは全く感じなかった。
彼も、他のメンバーが有名人になりたいとか、目立って女性にモテたいとか、他の目的を持ってバンド活動をしている事を知っていたし、決して愉快だとは思っていなかったが、目指すものが違うために特に意識しないようにしていた。
彼はストイックなまで純粋に良いものが弾きたい、音で人を魅了したいという事を常に願ってきた。
アパートとバイト先、練習場所の3ヶ所のみを往復しているトライアングルの生活スタイルが彼の定番となっていった。
バイト先は、廃棄の弁当やまかない狙いで探して食費を浮かせ、少しでも音楽にお金を回せるようにして練習場所で完全に弾ける……。
彼は生活の一部に必ず音楽を持ってきており、彼にとってバンドは自分自身の居場所そのものであった。
そんな中、バンドのライブにスカウトが来ていて声がかかり、突如としてプロとしてスポットライトを浴びる事になったのだ。
唐突にやって来た話に舞い上がる彼とメンバー達にとって、まさに人生の絶頂を迎える事となった。
それからの彼らは、昼夜を問わず忙しく動き回る日々を送る事となった。
デビューと、それに伴う打ち合わせ、デビュー曲のレコーディング等々で目まぐるしいスケジュールだった。
しかし、彼にとってはとても嬉しかった。
好きな音楽の事を24時間常に考えていられる生活を送る事こそ、彼が夢見ていた事だったからだ。
彼にとって自分の夢が叶った瞬間だった。
ところが、そんな日々は長くは続かなかった。
そんな日々を1年、2年と続けるうちに、一部のメンバーからは、デビュー前に比べて自分達のやりたい音楽ができていない、方向性が違ってきているという不満の声が聞かれるようになってきた。
しかし、彼は全くそうは思わなかった。
確かに、以前に比べれば自分の思ったものと必ずしも一致するものばかりでは無かったが、それは、メジャーデビューをした以上は必ずしも全てが自分の思う通りになるとばかりは限らないのだと思っていたし、事務所側も最大限折れてくれていると、彼自身も分かっていたので、決して不満ではなかった。
気がつくと、メンバーが1人、また1人と脱退していった。
一番音楽に対してストイックに取り組んでいなかった、モテたい、目立ちたいと思っていたメンバーが理想論を口にして脱退していき、一番音楽に対して拘りと愛情を持っていた彼とリーダーが残って、元メンバーから日和っていると批判されてしまったのだ。
そこから彼は数ヶ月間、自問自答した。
彼らの言う事にも一理あるのではないかという事だ。
現在のファン層は、以前とは少し変わってきていて、アマ時代にいた様なコアなファン層が減った代わりに一般的な層に置き換わってきている事にも気付いてはいた。
そんな時、芸能人となってから、輸入車を買って放置状態になっていたマグナを引っ張り出して、あのころの気持ちに近づきたいと、オフの日を見つけてはあちこちへとマグナと共に出かけていった。
顔バレしていない自分とマグナで旅をするうち、ある朝、彼の中で殻が破れ、1つの結論に至った。それは、音楽がやりたいのか、我を張りたいのかという事だった。
それが分かった時、彼の中で迷いが晴れて方向性が決まった。
彼はこれまで通りにメジャーな世界で、リーダーと一緒に生きていく事を決意した。
彼がやりたかったのは、自分の音楽で多くの人を魅了する事であり、音楽論を語り合っていた若い時分の青さを主張する事では無いのだ。
しかし、メンバーが抜けたバンドでは、今まで通りの量の仕事が来るわけではないため、仕事量と収入が減ったり、苦手なトークなどの不本意な仕事をしなければならない事もあったが、それも好きな音楽で生きていくための試練だと考えれば、ちっとも苦痛ではなかった。
それから10年が過ぎ、新しいメンバーを加えて再び活動を再開したバンドで、かつてを上回る人気を得る事に成功し、人気とともに徐々にかつての方向性にチャレンジする事も可能となっていった。そう、人気の裏付けもなく勝手に方向性を変える事など、メジャー世界では許されない事だったのだ。
彼らは、あの時、我慢をしてここに留まる選択をして、不本意な事をも笑顔でやる事で、今を手に入れたのだ。
彼は、その後も憧れた輸入車を何台も乗り換えながらも、マグナだけは手放せずにずっと持ち続けていた。
しかし、久しぶりのまとまったオフに旅行へ行こうと出かけた先で、遠方不注意の10トン車に突っ込まれて出火し、廃車せざるを得なくなってここにやって来た経緯が。
沙菜は、次に車からの思念を読み取っていく。
この車の歴史に翻弄された姿と、オーナーである彼の苦悩がオーバーラップする部分が多かったが、それを分けて丁寧の読み取ると、ボンネットに手をついて
「良き旅を……」
と言うと車葬を終えた。
◇◆◇◆◇
4日後、帽子を目深にかぶった瘦せ型の男性が事務所にやって来た。
この男性がオーナーであることは、沙菜にとっては顔を隠していても雰囲気で一目瞭然であった。
「前回りが生き残ったため、部品は争奪戦でした。ご希望通り室内部品の一部を外してあります」
沙菜は淡々と言った。
マグナや日産のブルーバードオーズィー等のオーストラリア逆輸入車に関しては、国内仕様と形が似ていたり、エンジンが共通の型式だったりする事から勘違いされやすいのだが、国内仕様とは全く違った部品で作られていて、互換性がなく、更に壊れやすいために、一度壊れてしまうと車自体を諦めなければならなくなってしまうケースが多いのだ。
なので、その部位が健康な個体が出回れば、争奪戦になってしまうのだ。
今回の彼のマグナは、事故車ではあるが、機関系は健康だったため、部品を流通させた瞬間、何軒もの引き合いがあって、瞬殺だったのだ。
ただ、彼からは事前に内装部品のハンドルと、特徴的なサテライトスイッチ付きのメーターパネルだけは取っておいて欲しいという要望があって取り置いておいたのだ。
沙菜は内装類を彼に渡すのとは別に、1つの小さな包みを渡した。
彼はそれを開封すると、そこには2枚のCDが入っていた。
それを見ると、元々口数の多い方ではない彼が完全に言葉を失って黙ってしまった。
それは、アマチュア時代に初めて自費制作で出した唯一のCDと、メジャーデビューした際の初CDだった。
自費制作した方は、売れないと思っていたが、蓋を開けてみると結構売れてしまって、ギリギリ自分達メンバーの分を確保できたくらい残らなかったそうだ。
メジャーデビューして、CDが出せた時は本当に嬉しくて、車の中でいつも聴いていたのだが、ある時を境に聴かなくなり、気がつくと見当たらなくなっていたそうだ。
そのきっかけは、やはりメンバーの脱退だったそうだ。
みんなで作り上げてきたバンドのつもりが、結局内部分裂に気付けなかった事がショックで、以降は聴くのが辛かったそうだ。
脱退した2人は、結局業界から去っていき、1人は社会にも順応できずに自殺、そしてもう1人は、坂を転がり落ちるようにクスリに走って、今や春に娑婆に出て、冬に刑務所に戻っていく生活を送っているそうだ。
マグナから、あのCDに乗せたメッセージは、初心は忘れてはいけないが、それは、あくまで今を大事にするために振り返るだけで充分で、そこに拘るべきではないという事だ。
恐らく彼には分かっているとは思ったが、敢えて沙菜は伝えてみた。
彼は相も変わらず口数は少なかったが、その不愛想で少し怖さも感じる表情の中で一瞬だけ口元をフッと綻ばせたのが分かった。
数ヶ月後、沙菜宛にCDが送られてきた。
まだ発売前のそれジャケットには、見覚えのあるマグナが健在だった頃の写真や絵がふんだんに使われていた。
そのアルバムのタイトルは、今までのバンドの傾向と違ってただ単語が一つだった。
その名は『マグナ』。そのアルバムがチャートで1位になり、メインの新曲マグナが週刊配信1位を数ヶ月続け、アルバムが品薄になる事など、その時の沙菜は知る由もなかった。




