後生ですから、お嬢様に”ジャンクフード"をあげないでください
誰も居ない屋上で、ごろんと横になる。
食後に空を見るのが好きだ。
食後に星を見るのが好きだ。
遠くの星を見ていると、いつかわたしもあちら側に行けるような気がするから。
遠く遠くの、ここじゃないどこかに行けるような気がするから。
「ここにいらしたんですか、お嬢様」
優しく、あったかい炎のような声がする。
「レヴィ、久しぶり」
「お懐かしゅうございます。1カ月ぶりでしょうか」
「えー、もうそんな経ったっけ」
レヴィはニンゲンで、わたしの友達だ。
わたしはもっとレヴィと仲良くなりたかったけど、レヴィは「私はお嬢様の家来ですから」となかなか距離を詰めてくれなかった。
わたしがそのことを不満に思って顔に出すと、いっつも冷静なレヴィがおろおろと慌てるのが面白くてたまらなかった。
「最後にお会いしたのも、満月の夜でしたから」
「そっか、早いね」
レヴィはニンゲンで、わたしの元"管理栄養士"だ。
わたしは、わたしのためにレヴィは悪いことをするのは嫌だったけど、レヴィは「これが私の仕事ですから」となかなか止めてはくれなかった。
レヴィがわたしのために取ってきてくれた血を、無駄にすることは出来なかった。
がんばって、がんばって飲もうとして、レヴィのために飲もうとして、無理をして倒れたこともあった。
「ご気分、悪くないですか」
「大丈夫、あのね、凄くおいしいもの食べたから、すっごく気分がいいんだ」
「ナットウテイショク、ですか」
「あたり」
レヴィはニンゲンで、わたしの"お姉ちゃん"だ。
わたしが吸血鬼として生まれ変わった日、それと同じ日にレヴィも生まれたらしい。
転生した直後はニンゲンだったころの記憶がまだあったので、お父さまもお母さまも「このまま吸血鬼にだけ囲まれた生活をしていると精神を壊してしまう」と心配したらしく、生まれてすぐ身寄りを無くしたニンゲンの女の子を誘拐してきて、わたしの従者として一緒に育てることにしたらしい。
レヴィを育てるために、両親はわざわざニンゲンの食べ物を盗んできていたんだとか。
「レヴィはさ、納豆ってどうやって作るか知ってる?」
「先程、彼に聞きました。豆を腐らせるだとか」
「ね、ニンゲンって面白いことするよね」
転生してから数年、ニンゲンでいう物心がついてきた年齢の頃、わたしはニンゲンだった頃の記憶を完全に失った。
わたしはもうずっと"お嬢様"だったし、お父さまもお母さまもレヴィもいたし、何も不自由はなかった。
そのときは、わたしは普通にニンゲンの血が飲めていた。
ある日、ニンゲンでいう成人にあたる年齢になった頃、レヴィが大人の仲間入りの証としてトマトジュースを飲むことになった。
吸血鬼とニンゲンの寿命は違うので、わたしはまだ大人の見た目ではなかったけど、レヴィはすっかり大人だった。
わたしは、レヴィだけ飲むのはズルいと駄々をこねて、ほんの少しだけ飲ませて貰った。
その直後の記憶はない。
ただ、ニンゲンだった頃の記憶が少しだけ戻った。
ニンゲンだった頃の、あまり思い出したくない記憶だった。
レヴィは「少し酔って気分が悪くなったのでしょう」と介抱してくれた。
そのあと、わたしは何故か急にニンニクが食べたくなった。
お父さまもお母さまもビックリしていた。あのときの顔は忘れられない。
「そういえばさ、レヴィは覚えてる? わたしがニンニク食べたいって最初に言ったときのこと」
「ええ、あの時の奥様と旦那様の驚きようは、言っては何ですが、こう、滑稽で」
「そうそう、面白かったよね」
あんなものは毒だ、食べる必要がない、そもそも嗜好品のトマトジュースを除いてニンゲンの食べ物は栄養にならないゴミだから食べる必要はない、などと口々に止められるも、「私が、人間の市場で手に入れてきましょうか」とレヴィが申し出てくれた。
流石にレヴィも普段からニンニクを食べるなんてことはしていなかったし、両親も好むはずがなかったので、手に入れる方法はそれしかなかった。
「あの時、レヴィがニンニクとお刺身買って来てくれて、初めて食べたんだよね」
「私もあのときは不勉強のため知りませんでしたが、どうやら揚げたりして食べることもあるとか」
「そう、だから、嬉しかったんだ。レヴィがわたしのために買って来てくれて」
レヴィの買ってきたニンニクはすごくおいしかった。今まで食べてきた血や肉がなんだったのか、疑いたくなるほどおいしかった。もうひと口、もうひと口、そして3切れ目のお刺身をニンニク醤油で食べた直後、わたしがニンゲンだった頃の記憶が、当時のニンゲンの父親に暴力を受けていた頃の映像がフラッシュバックした。
記憶の中のわたしは、余計に彼の怒りを招いてしまうことを恐れて、泣くことも叫ぶこともせず、ニンゲンの父親の暴力を甘んじて受け入れるしかなかった。
肩、腹、脛、脇、そしてまた腹、腹、腹。
唐突に蘇った前世の記憶は、わたしの精神に深く傷を残していった。
「あれからさ、どういうわけか急にニンゲンの血が飲めなくなっちゃって。逆にニンゲンの食べ物がすごくおいしく感じるようになっちゃって、でも食べたら嫌なことも思い出しちゃうし、どうしたらいいのって」
「……あのとき、私がニンニクなんぞ買ってこなければ」
「それは違うよ。レヴィが何もしなくても、多分わたしは食べさせて、ってお父さまとお母さまに駄々こねてたと思う」
わたしは狂ってしまった。
吸血鬼なのに、ニンゲンの血を体が受け付けなくなっている。
ニンゲンの食べ物が無性に食べたくなり、食べるとニンゲンだった頃の記憶が戻る。
その殆どが精神的苦痛を伴う記憶だったが、それでもわたしの暴力的なまでの食欲が消えてくれることはなかった。
そのことを両親とレヴィに告白すると、なんとかしてわたしに血を飲ませようと、ニンゲンの食べ物を与えないようにしようと頑張ってくれたが、わたしの体は言うことを聞いてくれなかった。
ニンゲンの食べ物への湧き上がる欲求との闘いの末、いつしか血も、ニンニクも、トマトジュースも、何も口に含まなくなった。まるで氷みたいに透けた白髪になり、わたしも家族も疲弊し切っていった。
わたしの髪の毛が白くなってから1年。
わたしは、お母さまにお願いして新しく"管理栄養士"を雇い、ニンゲンだった頃に住んでいたこの国で療養することを望んだ。
勿論、家族の誰もが「血だけを吸う、純粋な吸血鬼に戻って欲しい」と思って送り出してくれたんだろう。
だけど、それは難しいんじゃないかと思っている。
わたしの体は、わたしが一番よくわかってる。
わたしは、血も吸えず、栄養にならない者ばかりを求め、そして精神が記憶に殺されるのだろう。
それならば、あの忌々しい記憶から逃げるのではなく、克服しなければいけないのではないか。
ニンゲンの食べものをおいしいと感じるようになった変化を、受け入れて生きるべきなのではないか。
そのうえで、また血が飲めるようになるよう治療するべきなのではないか。
だから、覚悟を決めて新しい"管理栄養士"の彼に「この国でのわたしの記憶と戦うために、もう一度家族と生きるために、わたしの食事を管理して欲しい」と頼んだのだ。
「お嬢様、私は、自ら名乗り出ておきながら"管理栄養士"としての役割を果たせませんでした。
その任はあの男が引継ぎましたが、私もこれからこの国で出来る限りサポートをさせていただきます」
「えっ、じゃあ、レヴィもこの国で一緒に暮らせるの?」
「一緒に、ではないですが、お近くに仕えております」
「よかった、じゃあさ、レヴィさえよければさ、たまには一緒にごはん食べてくれない?」
東の空が白んできた。もうすぐ太陽が昇る。
「……いいのですか」
「うん。だってレヴィはわたしの家族だもん」
脚を上げて、反動を付けて起き上がる。
現代の吸血鬼は日光への抗体を得ているとはいえ、あまり長時間日光を浴びるのは健康に良くない。
「もったいなきお言葉、感謝します」
レヴィは涙を目に溜めて、小さな封筒を差し出した。
「これは、この国でのお嬢様の身分証です。あの男にも彼の分を渡しました」
氷の様に透き通った白髪の少女は、親愛なる姉から手渡された封筒を開き、中のモノを確認する。
「――――氷川台、香澄」
身分証に書かれた名前を読み上げる。
「それが今日からの貴女の名前です」
生年月日から逆算して、今年で10歳になる、らしい。
「それ、思いっきりこの国の名前ですよね。ボクが現地の人なら、お嬢様の髪だとちょっと違和感を覚えます」
いつの間にか、音もなく従者の彼がそばに来ていた。
「……戸籍上は、西洋の国との混血、ハーフであるので、髪について何か言われてもはぐらかせるはずだ」
「ありがとう、レヴィ。すごくいい名前ね。大好きよ」
「い、いえ、そんな滅相もない」
照れくさいのか、レヴィはそそくさとその場から離れてしまった。
「あれ、お嬢様に褒められて照れてるんですか、レヴィ」
「煩い、黙れ、口を縫うぞ、レヴィって言うな」
「こら、そんな口の利き方しちゃだめよ、レヴィ」
ああ、この二人となら仲良く過ごせる、と少女は思った。
きっと、この二人がいてくれるなら、ここでの生活もきっと楽しいものになるだろう。
そして、彼女は、思い出したくないことも、思い出した。
「じゃあ、わたし先に降りてるから」
この3人での、これから始まるこの国での暮らしに、期待で胸を膨らませる。
それと同時に、今回"人間の食べ物"を食べて思い出した、前世での苦い記憶に立ち向かわんとばかりに、全力で階段を駆け下りていった。
「……なぁ」
「はい」
「お嬢様は、こんな私でも、家族だと言ってくれるほど、心のお優しい方だ」
「ええ」
「だから、出来ることなら、お嬢様を苦しませないようにして欲しい」
「それは……飲みたくない血を飲ませるな、ということでしょうか。それとも、思い出したくない記憶を思い出させるな、ということでしょうか」
「……」
「――失敬、今のは、配慮にかけていました」
「……貴様のことを憎むのは、お門違いだと思っている。しかし、難しいものだが、どうあれお嬢様を傷つける輩は、許せないという感情も湧くのだ、私自身に対しても」
「はい」
「だから、これは一度だけ、一度しか言わん。貴様に敬語を使うのも、頭を下げるのも、胸を借りるのも、これが最初で最後だ」
「わかっています。今なら誰も、見ていないですから」
「……恩に着る」
「……」
「これは、あの子の家族としての、お願いです。
後生ですから――――」