後生ですから、お嬢様に納豆定食をあげないでください。
「――――それで、お嬢様は今、どこに?」
青年が仕事終わりの煙草に火をつけた瞬間、妙齢の美女が質問した。
音もなく現れた女性に動揺することもなく、青年は彼女の質問に答える。
「ここの屋上で夜空を見てますよ、レヴィ。食後は星を見たくなるから、って」
街灯もない常闇の中、満月の月明かりだけが二人の姿を照らしている。
短めに刈られた女性の髪は、煙草の先端の炎と同じ淡い色をしていた。
レヴィと呼ばれた女性は眉を顰めて、
「この国ではその名前で呼ぶな」
「じゃあ、何と」
お呼びすれば、と言いかけて、青年は自分の首元に細い針が当てられていることに気づいた。
「貴様が私の名前を呼ぶ必要がどこにある?」
女性は彼の首から狙いを外さないまま、青年に顔を近づけて囁いた。
青年は煙草を片手に身動ぎしないまま「意外とこの人、隙だらけなんですよね」「今から得物を取り上げて逆に縛ってあげましょうか」「でもここでこの人を傷付けたら奥様の耳に入るし止めておきましょう」などと考えて、ゆっくり両手を挙げることにした。
ぽとり、と煙草が地面に落ちる。
「今日は、何をしにいらっしゃのですか」
「決まっている、仕事だ」
愛想の欠片もない口調で吐き捨てると、鞄から封筒を取り出して青年の服に押し付けるようにしまい込む。
「貴様の健康保険証と戸籍謄本、あとはパスポート」
「全部偽造ですか」
「当たり前だろう」
本来ならここでお礼の一つでも言うべきなのだろうが、お嬢様の元"管理栄養士"である彼女には何を言っても炎のように着火してしまいかねないな、と黙って中身を確認することにした。
「――――古味、風斗」
身分証に書かれた名前を読み上げる。
「それが今日からの貴様の名前だ」
生年月日から逆算して、今年で22歳になる、らしい。
「貴様の名義でアパートも借りてある。生活に必要そうなものは一式用意しておいた。足りないものがあったら私に連絡しろ」
「連絡手段は?」
「スマートフォンも契約してある。記録に残っても構わんよう、要件は隠語で伝えろ」
「へぇ、スマホまで用意できるんですか。偽物の身分証でそこまで出来るなんて、この国のセキュリティって立派なもんですね」
癪に障ったのか、舌打ちの音が小さく響く。
「言っておくが、偽造とは言っても偽物ではない。正真正銘、この国の公的機関が発行した本物の身分証だ」
「成程、天涯孤独というやつですね」
稀に、肉親や親族との縁を完全に絶って生きる人間がいる。
運悪く彼らの個人情報が流出したり、或いは自発的にそれらを売った後に息を引き取った場合、死亡届が出されないで戸籍上は生き続けている場合がある。
恐らく、この"古味風斗"という人物も、そしてお嬢様の代わりの"彼女"も、その類なのだろう。
「私を馬鹿にしているのか?」
「いいえ、いいえ。上っ面の偽物を渡してくる業者よりよっぽど仕事が丁寧で」
「侮辱を続けるなら、そのまま喉に風穴を空けてもいいんだぞ」
針と青年の距離が数ミリ単位まで接近する。
青年は両手を挙げてピタリと固まったまま「これで脅しているつもりだろうけど毒針ぐらいで今更怖がれないですよね」「でも、ここで怖がらないとそれはそれで逆上させてしまいそうですし」「ちょっとビビるふりして機嫌とっておきましょうか」と、汗腺を開いて額から汗を数滴流した。
「申し訳ありません、久しぶりに話せて、嬉しかったものですから」
「……心にもないことを」
女性は針を袖に仕舞い、彼から距離を取った。
「お嬢様は、本当に召し上がったのだな」
「ええ、きちんと600cl。これで今週の"お食事"は終わりです」
「600、だと……!?」
「飲みやすいように混ぜ物もしましたが、お嬢様はすごく頑張られましたよ、ええ、本当によく……」
より機嫌を悪くしたのか、女性の歯ぎしりの音が反響する。
「私がどれだけ工夫しても、一食で200も飲んでいただいたことすらなかったのだぞ」
「まぁ、栄養とらないと死んじゃいますし、それをどうにか改善するためにボクが雇われたようなものですから。死ぬくらいならどんな手段使ってでも」
「貴様、もしやお嬢様に力づくで!」
足元に落ちた煙草をぐりぐりと踏みつけ、携帯灰皿に吸い殻を仕舞う。
「人聞きの悪い。お嬢様の生きる希望を後押しするために、ご褒美をつけただけです」
「ご褒美……?」
「ええ、納豆定食です」
ナットウテイショク、と口だけを動かして反芻する。
「まさか……まさか、お嬢様に"人間の食べ物"を……!?」
「それはそれは、美味しそうに召し上がってました、折角だしボクも久々にいただきましたけどね。やっぱ白米と納豆と味噌汁に比肩するメシは世界中探しても」
そう中々ないですよ、と続ける前に、女性の鉄拳が青年の顔めがけて飛んでくる。
青年はそれを受け止めることもかわすことも勢いを利用して反撃を喰らわすことも出来たが、そのどれもしないで正面から攻撃を受けることにした。
「……痛いなぁ」
「貴様、自分が一体何をしているのかわかっているのか。それを止めるのが貴様の仕事じゃないのか」
「違います。ボクの仕事はお嬢様の健康を守ること、そのために必要だと判断してご用意したまでです」
ああ、勿論おかわりは止めましたよ、と悪びれもせず口を動かす青年に
「とぼけるな。"管理栄養士"の任を与えられている者なら、奥様から聞かされていないはずがない」
「ええ、ですから、ちゃんと"誓約"も結んだんです。お嬢様にその覚悟があるのなら、必要に応じて血肉以外のものも食べていいと」
「じゃあ、お嬢様は……」
その言葉が受け入れがたいのか、信じがたいのか、いや、受け入れようとしているのか、女性は口を動かした。
「お嬢様が、理性的に、"ジャンクフード"を食べることを選ばれたのか」
炎のような髪色の女性は、炎のように燃え滾る感情を堪えて声を震わせる。
「というより、お嬢様は初めからそのつもりでボクとこの国に来たのだと思います。あなたはそれを止めるでしょうが、ボクはそれを止めませんから」
「お嬢様は、それを思い出すことを、記憶を取り戻すことを望まれたというのか」
「……ボクには、お嬢様の真意は測りかねます」
彼が嘘を言っていないことはよく解っている。だからこそ、彼女はその事実を受け入れがたかった。
「いったい何を考えているのだ、お嬢様は――――」
満月に照らされて、女性の目に光るものが溜まっているのが見えた。
「お嬢様は――――前世の記憶を失っている、元人間の転生者なんだぞ」