後生ですから、お嬢様に納豆をあげないでください。
「吸血鬼はニンニクが嫌いって、よくその程度の知識でお母さまに雇ってもらえたわね」
「学が浅くてすみません」
「いいわ、この国にいる間だけの、一刻の主従関係ですし」
かつて刺身だった何かにゴマ油でこんがりと焼き目をつけながら、白い髪の少女は青年との会話を続けていた。
黒い髪の青年は、彼女が火傷をしないか気を配りつつ、「まぁ、IHですし、火よりは危なくないでしょう」と自分の"作業"を継続している。
「確かに、ニンニクが苦手な吸血鬼も多いわ。口に含んだだけで卒倒しちゃうレベルで」
「でも、それが致命的ではない、と」
「うぅん、食べられなくはないけど好んでは嗜まないし、わたしみたいに好きな方が珍しいかも」
嗜好品ならトマトジュースかバラの花がメジャーだし、と少女が小声で補足する。
「ほら、ニンゲンだって、ミルクが飲める種族と飲んだらお腹を壊しちゃう種族がいるらしいじゃない」
「体質的に合わない、ってことですか」
「ニンゲンにも、そういうの、よくあるのかしら」
「さぁ、聞いた感じだとアレルギーに近いような……」
弱火で炒められた脂がパチパチと小気味よい音を立てて、そして少し怪しい匂いが台所から漂い始める。
「……お嬢様、ホントにそれ食べるんですか」
「何言ってるの、ちょっと腐ってるからって食べものを粗末にするのはニンゲンの悪いところよ」
その臭いは、腐敗の進行度が「ちょっと」じゃないことを立証している。
「お嬢様も、先程腐りきっていた部分は棄てたじゃないですか」
「あれはもう虫さんのごはんになってたじゃない、横取りしちゃいけないでしょう」
先程彼女が素手で引きちぎったソレの残りには、部屋の片隅で数匹の羽虫が集っていた。
「腐ったものは食べものじゃなくてゴミって言うんですよ」
「えっ、ニンゲンは腐ったもの、食べられないの」
「何言ってるんですか、そんなの当たり前で――――」
青年は作業の手を止めて、一瞬、
「―――納豆は、そうかもしれない」
この国特有の"例外"の映像をイメージしていた。
「ナットゥ?」
いつの間にか、出来立てのソテーを皿に盛りつけ終えている。
小声で「イタダキマス」と覚えたばかりの日本文化に習い手を合わせ、何故か手づかみでそれを頬張り始めた。
素材が放つ異臭とは裏腹に、ともに加熱されたゴマ油の香りは程よく食欲をそそらせる。
「この国には、豆を腐らせて作る、伝統的な食べ物があるんです」
「豆を、腐らせる」
口に何かを入れたまま喋るのはお行儀悪いですよ、と窘める。
「正確には発酵、と言うんですが。匂いが苦手で敬遠する人もいますけど、この国では朝食の定番メニューとして一般家庭でも普及しています。安価で、それでいて手に入りやすいので、ボクも昔はよく食べていたのですが」
炊飯器で炊き立ての白米に、小粒の納豆と、刻んだネギや生卵を和えて、昆布だしの加えられた醤油ダレをかけて食べると、それはそれは朝の活力としては申し分ないほどのエネルギーが貰えるんです、ああ、それにアオサの味噌汁と甘じょっぱい卵焼きと味付け海苔もついていたら完璧ですね、大根おろしもつけたいな、と饒舌に説明し終えて青年は、
「……お嬢様?」
吸血鬼の目がとても輝いているのを無視できなかった。
「ズルいわ」
「え……?」
「ズルいわ、あなただけそんな、わたしの知らないおいしそうなものを知っているなんて!」
先程まで持っていた皿の上は空で、彼女の指は油でテラテラと光沢を帯びている。
生ゴミのソテーは既に彼女の胃袋へと向かってしまった後らしい。
「朝食の定番メニューって言ったわね。ちょうどいいわ、もうすぐ夜明けだし、あなたの"作業"が終わったらそのナットウとやらも食べさせて!」
品格をギリギリ失いかけるほど鼻息を荒くし、服に汚れが付くことも厭わずに興奮する。
「お嬢様……」
まただ、またお嬢様の悪いクセが始まった。
この国に来てからこれで早6度目の、おととい「チーズバーガーってものが食べたい」と喚きだして以来の、突発的な食べ物への渇望。
幾分、少し前のお嬢様の様子を知るものとしては、前向きな食欲の"変化"そのものは内心喜ばずにはいられない。
「正直、ボクもそうさせてあげたいのは山々なんですが」
なんなら、例の"誓約"さえなければこのまま仕事を放り出して、このまま24時間営業の牛丼屋で納豆定食を掻き込んでしまうのも悪くない、とすら青年は考えていた。
しかし、そんな少女のささやかな要望を叶えるためには、その前に乗り越えなければなければならない高いハードルがあるのも事実だった。
「お嬢様の"管理栄養士"として、まだそれを許可することは出来ません」
納豆を手に入れるのはさほど難しくはない。
白米や卵だって、コンビニか深夜まで開いているスーパーでなら容易に購入できるだろう。
青年が危惧している最大の問題は、少女の母親と青年の間に結ばれた"誓約"と、白髪の少女の体質にあった。
「まずは奥様とのお約束が、食べるべきものがあるでしょう。お嬢様は」
「『お嬢様は、ヒトの血肉以外からは栄養を摂れないんですよ』――――でしょう」
これから口に出すはずだった台詞を主人に先に言われ、従者は押し黙った。
氷の様に透き通るほど白く輝く髪をした吸血鬼の少女は、不器用に笑顔を作る。
「心配してくれるのは嬉しいの。髪も、血をちゃんと飲んでいないからこんな色になっちゃったし、お母さまがわたしをあなたに押し付けたのも、わたしに『ちゃんと食べさせる』ためだって、よくわかってる」
でもね、と、か細く鳴くように漏れた声が青年に聞こえた。
「ニンニクが苦手な吸血鬼がいて、ニンニクが大好きな吸血鬼もいるんだから、ニンゲンの血を飲むのが苦手な吸血鬼がいるのは、そんなに変なことかなぁ」
白い髪の吸血鬼は、今にも何かが溢れそうに、訴えた。
「いいじゃない、がまんして苦手なものばかり食べてたら、あたまおかしくなっちゃうでしょう。せっかく舌があるんだから、せっかくお口があるんだから、栄養にならなくたって色んなもの食べたいでしょう、それの何が悪いの」
声を、絞り出すように、震わせていた。
「『ニンゲンの血さえ飲んでいれば、我が一族は永遠に生きられる。他に食べる必要なんてない』って、お父さまが言うの、わたしだけはトマトジュースも飲んじゃいけないって。お父さまを悲しませちゃいけないから、ニンニクもあのとき以来食べてなくて、あれからがんばって血の匂いには慣れたけど、どうしても、アレを口に含むと、わたしは」
「お嬢様」
震える彼女の身体を支えようと、青年は"作業"中の手を伸ばして、
「――――あっ」
青いビニールの手袋に付着していた、紅い液体が少女の肩を染めた。
「よく仰っていただきましたね、ありがとうございます」
青年の近くには、孤独死から数時間経った様子のこの部屋の住人の遺体と、そこから採取した血液の容器が並んでいた。
無理に辛いことを言わせてしまってすみません、と小さな声で続ける。
「お嬢様は、お優しいです。命も、家族からの期待も、何もかも大事にしたいと頑張るあなたは、お優しいです。だから、この国にいる間は、奥様と旦那様の目が届かない間は、ご自分にも優しくしてあげてください。あなたは、血肉以外にも、人間の食べ物も食べる自由がある」
「……ほんとう?」
真っすぐ少女の顔を見て、青年は頷く。
「ボクは、あなたに無理をさせないために、奥様に"管理栄養士"として雇われているんです。そのまま飲むのが苦手なら、摂取しやすいように加工する。
『ちゃんと食べる』ことが出来たら、栄養をしっかり摂ってさえいれば、その上であなたに覚悟があるのなら、人間の食べ物も食べていい。奥様とボクが結んだのは、そういう"誓約"です。
納豆だって、ニンニクだって、他にもなんでも食べましょう。ボクは例えこの国の、人間の法を犯そうとも、貴女の心身の健康のために"食材"を取ってきますから」
青年の腕に支えられた細い身体は、いつの間にか震えが止まっていた。
「これから、この国にいる間は、ボクにお世話をさせてください。既に、ヒトとしての人生は捨てている身ですから」
「……栄養にならなくても、食べていいのね」
「ええ。だって―――」
従者は青いビニールの手袋を外し、氷の様に白い主人の髪の毛を撫でた。
「だって、何の栄養にもならない、不要で不急なものほど、おいしくて魅力的なものでしょう?」