第8話 そのままの笑顔を描き出す
「じゃあ私……。えと、どうすればいい?」
どうするもこうするもわかりません、実は人物画なんてほとんど描いたことないのでわかりませんすみません。
なんて言えたらどれだけ楽か……。
とりあえず黙ってても仕方ないので、近くの椅子を先輩の所まで引いていく。
「ここに座ってください」
「はい先生!」
元気よく答え、そして椅子に座る先輩。
やっぱりすごく爽やかだなあ。ほんと同じ空間にいるのが奇跡だ。
先輩に対して思うことは多々ある。でもこうして間近で対面すると、先輩の周りに吹く透明な風みたいなのが全ての考えも遠くに飛ばしてしまう。
僕は自分の画材置き場から、スケッチブックと鉛筆を持ち、そして先輩に向かい合うように、少し離れたところに椅子を用意し、僕も腰を下ろす。
部屋に差し込む強い日差しは向かい合う僕らを照らし、空間に浮かび上がらせる。
この位置だと、先輩のその表情がとてもよく見える。
こんなに近くに……。そのキョトンとした笑顔が僕を見つめている。
……。
無理です!
もう何も考えることもできません。頭の中が真っ白です。
先輩の顔。本当に綺麗なその顔。ずっと見ていたい。
でも逆を言えば、先輩は僕の暗い、ヒカゲのような顔をずっと見なければいけないということだ。申し訳なさすぎる……。
その状況に僕自身が耐えられません。
「あの~真守君?」
必死で自我を保とうとした結果、結局黙っていただけの僕。
そんな僕にしびれを切らしたのか、先輩は口を開く。
「えっと……。なんていうか~……」
凄く考えて言葉を選んでいる感じ。
てかやっぱり先輩みたいな人でも言葉が出てこないってことあるんだなぁ~。
ってそんなこと考えている場合じゃない。
やっぱりやめるとか? 僕を傷つけないように慎重になってる!?
あれだけ言葉に詰まって……。相当気を使ってるはず……。
やめたいなら早くそう言ってください! いつでもやめる準備はできています!
「あの……電話番号、聞いても……いいかな? 今聞いとかないと……また次いつ会えることになるかわからないし……」
僕の予想は外れ。大外れ。
でも、少しホッとしてる。
そうか、その手があったか。先輩マジ天才。
確かに連絡先を知っていれば、これまでみたいに毎日毎日美術室に通わずに済むんだ。
そう、連絡先さえ聞けていれば……。
そのハードルが高すぎます!
女の人と話すらしたことのない僕。そんな僕が連絡先の聞き方なんてわかるはずがない。
そもそも聞くなんてこと選択肢すらに入っていません。
でも待っていた甲斐がようやく表れた。まさか向こうから聞いてくるとは。マジでラッキー。
先輩がポケットから二つ折りの携帯を取り出す。
「番号とメールも教えてほしいから……。赤外線の方がいいかな?」
もう任せます。なんでもいいです。
赤外線なんて一生使うことのない機能だと思っていたけど、まさか日の目を見ることがあるとは……よかったな! 僕の携帯!
そんなちょっと浮ついた気分の僕。ポケットに手を突っ込んで携帯を取り出そうとする。
最近不幸続きの僕にもやっと幸福が訪れた!
しかし訪れた幸福は一瞬で飛び去って行ってしまった。
ポケットの中に携帯など入っていなかった。
そこで僕は思い出す。
携帯は高校に入ってから持ち始めた。
最初は必要ないと思っていたが、内心やはり欲しかった。
親の方も、高校に入って帰りが遅くなることもある。高校生だし自立も必要。
そんな話し合いとかがあって、やっと買ってもらった携帯。
入学してからは常に持ち歩いていたが、持って初めて気づいた。
そんなに携帯って使わないということに。
皆常にいじっているけどいったい何をしているのかわからなかった。
連絡先も家族だけ。着信が鳴ったことなんてほとんどない。
次第に僕は携帯を持ち歩かなくなってしまった。
そして今も……。
なんでこんな時に限ってないんだよ! 死ね!
そんな怒りと自分への失望を押し殺して先輩に言う。
「携帯……。家に忘れました」
「あ……そっか……」
少し残念そうな先輩。ほんと申し訳ない。
そしたら先輩、少しの沈黙の後
「……じゃあ番号教えてよ! こっちでかけとくから家帰ってから登録しといてもらえれば」
素晴らしい代案。ほんと申し訳ないです。
こんなバカな僕のために……。でもその案もダメそうです……。
「自分の番号覚えてません……」
死にます。ほんと。すみません。
先輩はじゃあ! と、僕のスケッチブックと鉛筆をやさしく取り上げ、何かを書き始めた。
そしてすぐに書き終わったかと思うと、スケッチブックを僕の方に向け。
「はい。私の電話番号。ここに連絡してね!」
大きなスケッチブックの隅に、小さく書かれた電話番号と蒼井凪という名前。
先輩のその元気なイメージとは違ってとても繊細で綺麗な文字だ。
「わかりました」
嬉しい反面、後で僕の方からかけなきゃいけないというプレッシャーを少し感じてしまうが……。今はこの先輩との時間を楽しみたい。
だから心配事はとりあえず後回しだ。考えるな僕。
「じゃあそろそろお願いするね」
そう言ってスケッチブックを差し出した先輩。
やさしい表情。
僕はそれを受け取る。
「はい」
僕が先輩に返事をした直後、先輩は少しの声でくすっと微笑んだ。
「えっ?」
「えと、ごめん! 真守君。すごくいい顔してたから」
その言葉を聞いて恥ずかしくなってとっさに受け取ったスケッチブックで顔を隠してしまう。
いい顔ってどんなだよ! あぁ! もう自分が嫌だ。
「真守君って、表情豊かだよね」
先輩のその一言に僕の心臓が跳ね上がった。
それ自体は否定しません。
豊かすぎるのは自覚している。思ったことがすぐに顔に出てしまうのだ。
家族も全員そうだから遺伝なのかもしれないが……。まあそれで得したことなんて一つもない。
だから隠して生きてきた。トラブルを避けるためにも。
隠し始めてから、みんなの僕への評価は暗いやつになった。僕にとっては思い通りって感じった。上手く隠せてる。そう思ってきた。
でも先輩と出会ってから色んなことがあった。その中で表情が出てしまっていたのだろうか。なんにせよ恥ずかしい……。
「先輩には負けますよ……」
「そんなことないよ!」
先輩はとびっきりの笑顔で否定した。
いや……全然否定になってませんけど……。
もう一度、上目遣いでちらっと先輩のその表情を見る。
それは眩しすぎる、輝く太陽のような。
やっぱり完璧だ。完璧な笑顔。そんな感じ。
先輩の笑顔が好きになれなかったのは、完璧すぎるからなのかな……。少し考える。
僕から程遠い存在。それを嫌でも感じさせるからなのか。
「そのままでいてくださいね」
「そのまま?」
「……表情。描き始めるんで」
そう言われた先輩は、先ほどの笑顔を維持する。
まあ、いい笑顔なのだけど、少し不自然に笑顔すぎるような気も……。
絵に描くわけだしこれぐらいでもいいのか……。
なんせ人物画を描いたことのない僕だ。どんな表情を書いていいのか分からない。
……とりあえず笑顔でいい。
笑顔。一番幸せな顔。
スケッチブックの白紙を開く。
鉛筆を手に取り、先輩を一本一本、その紙の上に筆先を走らせる。
髪の毛。輪郭。目。表情。その一本一本。
絵を描く技術なんてこれ一つ持っていないだけの僕。
見様見真似だ。だけど、それを補うように丁寧に。
白い紙の上に先輩を表現する。
見たまんまの形で。
一本一本。
たまにスケッチブックの上から目を覗かせ、先輩の今を覗き見る。
笑顔。変わらない笑顔。
目を落とし、また一本。
その繰り返し。
校庭からの声も、さらに静かに。二人だけの静寂。空間。
流れる時間に身を任せる。
でも……再び覗き見た先輩の表情は、時の止まったように変わらぬ笑顔。
目を落とし、また一本。
繰り返し。
真っ白だったスケッチブックに、先輩が少しずつ浮かびだす。その表情が読み取れるほどに。
「……真守君」
先輩の一言に、鉛筆が止まる。
その声は今までとは違う、とてもか細い声で。
僕は、返事をすることなく、スケッチブックの上から覗き見た。
「もっと近くで……」
そこにあった先輩の表情。
先ほどの笑顔は消えていて、柔らかな、それでいて少し悲し気な表情があった。
窓からの光が先輩の瞳をより浮かび上がらせる。
光のせいかもしれないが、少し潤んでいるように瞳が揺れる。
それに吸い込まれるように、目が離せなくなる僕。
ずっと固まったままで……。
えと、どうすればいいんだ……?
「あ……ごめん! なんでもないよ」
しばらくの見つめ合いの後、先輩の表情はスイッチを切り替えたように、先ほどの笑顔に戻っていた。
「どんな感じになったのかな? ちょっと見せて!」
そういって先輩は、僕のスケッチブックに手を伸ばす。
僕に否定や抵抗する暇も与えない早業でスケッチブックは抜き取られていく。
先輩……。たまに強引だよなぁ。もしかして僕舐められてる?
……まあ別に見るぐらいはいいけど。ちょっと恥ずかしい。
絵をじーっと見つめる先輩。
ちょうどスケッチブックと重なって顔は見えないが、真剣に見入ってるのが感じられる。
その少しの間が伸びるごとに、心臓の鼓動が増していく。
先輩は何を考えて僕の絵を見てるんだ?
なんだ思ったよりヘタクソ。全然似てない。やっぱヒカゲはだめだ。
そんなこと思われていたらどうしよう。マジで心臓が破裂しそうなくらい高鳴り出す。
そして、高鳴りが頂点に達したとき、先輩は言った。
「そっか。こんな顔してるんだ、私……」
思いのほか素直に受け取ってくれたのか。
とにかく僕は安心し、心臓も落ち着きを戻した。
でも、僕はその感想に何か違和感を覚えた。
ただ貶されなかったことが意外だったのか。
それとも別の何か引っかかりが……
「おい、何やってるんだ」
扉の方から突然の声に、驚いた僕は、情けない少しの悲鳴を上げてその声の方に振り返る。
そこには美術部の顧問の先生が同じく驚いた顔で立っていた。
どうやら見回りに来たらしいが、考え込んでいた僕は扉の開く音にも気づかなかった。
先生は先生で、予想外の美少女との遭遇にどう対応すればいいのかがわからないのが伝わってくる……。
「日向……と。えと……確か転校生の子か? 今日は部活無いから早く帰りなさい。戸締りもしっかりな~」
そう言い捨てて、慌てて去っていく先生。
先生……とても早口でしたね。その心情お察しします……。
「……どうしましょうか」
「とりあえず……今日はお開きかな?」
スケッチブックを僕に渡す先輩。
まあそうなりますよね。
突然水を差されたようだったけど、案外キリのいいタイミングだったのかもしれない。
先輩からスケッチブックを受け取り、自分の棚にそれを直す。
「じゃあ、後の片づけは僕やっておくんで……」
「私も手伝おっか?」
「大丈夫ですよ。先帰ってもらっても」
とりあえず一緒に帰るのはハードル高すぎるので、先に行ってもらう作戦。
「そっか。じゃあお願いしておくね」
作戦成功にホッと一息。
そして扉に向かう先輩。
美術室から出る手前で振り返る。
去り際に一言。
「また……もう一度書いてもらってもいいかな?」
「え? あ……はい」
先輩との関係も、まだまだ終わりではなさそうだ。
でも残念な気持ちは少なく、むしろ安心する僕がいた。
まあ絵も途中だったし当たり前っちゃ当たり前だけど。
「じゃあ電話。連絡してね」
僕は首を縦に振って、無言で返事をする。
先輩はそれを見て、ニッと笑顔で答える。
そして先輩は美術室を去り、教室には僕一人。
そう、あの先輩の笑顔、僕は今日それを描いたんだ。
僕はもう棚からスケッチブックを引っ張り出し、もう一度絵を確認する。
とびっきりの笑顔の先輩がそこにいる。
自分で言うのもなんだけど、初めてにしては悪くない出来。
意外と才能……ある?
いや、そんなことはどうでもいい。
この絵をみた先輩の一言。その違和感の正体が今、なんとなくわかった気がした。
あの一言。
普通は、上手とか下手だとかそういった感想が出てくるものだと僕も思った。
でも先輩は違った。
まるで自分がどんな表情をしているのかも分かっていない。そんな風に感じ取れた。