第29話 正直に
先輩が呟いたと同時に、父親の手が緩んだ。
「なんだい?」
先輩の方に振り向いた父親。
「凪っ! どうしたんだい……!」
そこに見えた先輩の表情。
あの笑顔は消えていた。すべて消えていた。
悲しみも怒りも全て消え去ったように、無表情で立っていた。
空気が静まり返る。
そして、小さく口を開いて。
小さく言った。
「正直に話すから……。だから、聞いてほしい」
「はい……」
僕は苦しい表情の中、先輩に小さく微笑んだ。
「凪は優しいなぁ! わかった! 全部聞かせてやりなさい! この子に分からせてあげなさい!」
父親も先輩に大きな笑顔を見せて叫んだ。
そして先輩は深く息を吸った。
その全部を吐き出すように。
「……小学校に入る前くらいかな。お父さんとお母さんと私の3人で暮らしていたんだ。お父さんは毎日仕事に行ってて、帰りも遅くて一緒にいる時間も少なかったけど、それでも家族で揃った時はお父さんもお母さんも私も、いつも笑って本当に仲良しだった」
「あぁそうだよなぁ! あの頃の凪も本当にかわいかったもんなぁ! 凪のために必死に働いていたんだよ!」
「お父さんは仕事の話ばっかりで。私はお母さんと一緒に頑張り過ぎも良くないよっていつも言ってた。でも仕事の話をするお父さんが好きだった。私がいるから仕事も頑張れるって言ってくれたから」
「凪のことだけを思って働いてたんだよ! お父さんも凪のことがず〜っと大好きだからなあ!」
「でも家にあんまりお金がないのは何となく知ってた。お母さん、よく私の破れた服とか縫ってくれてたし。それ着るのも好きだったな」
先輩は微笑んでいた。
「でもね、私が小学校に行くようになってからね、お母さんも仕事に出るようになった。お母さんはお父さんの負担を減らしてあげたいからって、お母さんが働けば3人の時間も増えるからって言ってた。でもお父さんも帰るのがどんどん遅くなっていった」
そんな先輩の微笑みが、少しずつ暗くなっていくのが分かる。
「私は鍵だけ持たされてね、学校終わって家に帰っても誰もいないの。お金は必要だし、仕方ないのはわかってた。でも寂しかった。3人で一緒にご飯を食べたかった」
「ごめんねぇ! お母さんは酷い女だったよ! 足りない分も僕がもっと働けばいいからって言ったのに! 勝手にパートなんか始めやがって! 僕の分まで凪を見てやって欲しかった! ずっと家にいるのが母親の務めなのに!」
「ある日ね、私イジメられたの。クラスの子に。着てる服が汚いって。貧乏がうつるから近寄るなって。……凄く悔しかった。お父さんもお母さんも頑張ってるのにって。でも何も言い返せなかった。私……お父さんとお母さんのために何も出来てないって思っちゃって……私が負担なんじゃないかって……。それですぐに家に帰った。お父さんとお母さんに謝りたくて……」
先輩の声が震えだす。
「でも……家に帰っても誰もいなかった。ずっと1人で泣いてた……。怖かった……。お父さんとお母さんのいない家の中が怖かった……」
「寂しかったねぇ! ごめんねぇ! 凪! ごめんねぇ!」
「気づいた時にはね、家……飛び出してた。お父さんとお母さんを探しに。でも行くあてなんて無かったから、街の中をただフラフラ歩いてた。そしたらお巡りさんがね、話しかけてくれて、交番に居させてくれた。ちょっと落ち着いた頃かな、お父さんとお母さんが迎えに来てくれた。2人とも汗だくでちょっと泣いてたかも。私も大泣きしちゃった」
「本当にあの時は悪かったよ……! 凪ぃ〜」
「それからお父さん、毎日ずっと私と家に居てくれるようになった。かわいい服とか、人形とかキラキラしたアクセサリーとか、何でも買ってくれた。何でもいっぱい買ってくれた」
「嬉しかったよね!? 凪にすっごく似合ってたからね!」
「でも私……嬉しく無かった。そんなの欲しく無かった」
「…………え?」
「お父さんが居てくれるようになってから、お母さんが仕事に出かける時間が長くなった。帰ってきてもお父さんと顔を合わせたら言い合いばかりするようになっちゃった。私……それが怖くて。でも泣いちゃうともっと言い合いが激しくなって……」
「あれはお母さんが悪いんだよ! あいつが凪の側にいていれば、凪は寂しい思いしないで済んだのに! だからね、父さんが側にいてあげることにしたんだよ。ずっとね」
「それで……最初は言い合いだけだったけど……お父さん……お母さんを殴るようになって……」
「あ、あぁ……凪を守るため、仕方なかったんだよ! 凪はお父さんと遊びたかったのに。だろ? 凪を泣かせる奴は許せないんだよ! 僕は仕事より凪が大事だったんだよ! な? いつも笑って遊べるようにね!」
「だから私、泣くのはやめたの。私が笑顔でいると……お父さんも笑ってくれた。そしたらお母さんも殴られなかった。だからずっと笑ってたんだ。私が笑顔だったら、皆幸せになれるんだって。何があっても……笑顔でいれば」
「そうだよ! 笑いが絶えなくて、皆幸せだったんだよ! それなのに……!」
「そしたらお母さん突然ね、知らない人の名前を言ってね……。その人と一緒に暮らそうって。この人なら家庭を大事にしてくれるからって。稼ぎもしっかりしてるし、家族の時間も増えるから……。苦しまなくて済むからって。お父さんといても幸せにはなれないよって……お母さんと幸せになろうって」
「……本当に酷い女だったよ! お父さんが働かないからとか言って……自分はパート先で男なんか作って! 僕から凪を奪おうとしたんだよ!」
先輩の表情が変わっていく。
「それが原因でお父さんとお母さん、怒鳴り合いの大喧嘩になった……。私、笑顔でいたけど、それでも2人は怒り続けて……私もどうしていいか分からなくなっちゃって……どんな顔でいればいいかわかんなくて……」
「そうだよ……! あの女のせいで……何が凪を守るためだ……あの女がいると凪が笑顔でいられなくなるんだよ! だからね! だからなんだよ! あの女を黙らせたんだ! もう二度と凪に手を出せないようにね! 僕だけが凪を愛し続けるんだ!」
「……そこからあまり覚えてない。でも気づいたときにはお母さんは動かなくなってた。泣き出したかった。大声で。本当に怖かった。悲しかった。……でも目の前に、お父さんが……笑顔で立っていた」
先輩の目から、涙が流れ出す。
「お父さんは私に言った……。これで2人で笑顔で暮らせるねって。……嬉しいだろって。……嬉しいだろって。真っ赤な手で私を……何度も……。笑ってよ、笑ってよ。……嬉しいなら笑ってよって。……そしたら……私……笑顔になってた。お父さんといられて嬉しいよって……」
「あぁ……嬉しかったよね……」
「でもお父さん、それからすぐ、いなくなっちゃって……。後は真守君が知ってる通り、親戚の家、転々としてた……」
「ほんとごめんよ……凪……。でもやっと迎えに来れたから! 一緒に暮らせるから!」
先輩の表情はボロボロになっていた。
「どうしてそんな顔するんだい!? 笑ってよ! 凪! 笑ってよ!」
本当に……苦しそうだった。
「真守君……お願い……助けて……」
先輩は叫んだ。
声にならない声を、叫んだ。
それは閉じ込めていた心からの叫び声だった。
「凪……」
首を掴む力がさらに増すのを感じる。もう息もままならないほどに。
父親がこちらに顔をゆっくり振り向ける。
その表情から、笑顔は剥がれ落ちていた。
獣が、その本性を現した。
この世のものとは思えないような怒りに満ちた表情を僕に突きつける。
「お前のせいだ……凪が……」
その瞬間、僕から恐怖の気持ちは消えていた。
やっとこいつが分かったんだ。
得体のしれない化け物じゃない。
獣なんかじゃないんだ。
こいつもただの人間なんだ。
それが分かった。
そして父親の燃え上がるような怒りが僕に襲いかかる。
「お前が凪から笑顔を奪ったんだ!!!」
そいつは手に持った包丁を、僕の左肩に振り下ろした。
不思議と痛みはなかった。左肩に異物感と共に、じわっと温かみが広がる。
しかしその直後、この世のものとは思えないような激痛が全身に貫く。
絞められた首。痛みを叫びあげる声も絞られ、より悲痛になった声が部屋中に響く。
死にたくない……。
やっと先輩の声を聞けたんだ。
死にたくない……!
でもそんな思いも父親には聞こえない。
やつは肩の包丁を引き抜いて、再び刃を僕の真ん中に向ける。
そして、僕を引き裂こうとしたその瞬間だった。
「お父さん!」
先輩が僕と父親の間に割って入ってきた。
そして僕の首を掴む手を振りほどいて、父親を押しのけた。
父親は先輩の行動を飲み込めていない様子で、気の抜けた風船のように軽々と僕から離れていった。
そして、困惑したような笑顔を先輩に向けていた。
「な、なにしてるんだい凪……。危ないよ……お父さんの所においで……」
僕の肩から滴る血が、先輩の足元を赤に染めていく。
先ほどもみ合った時に付いたのか、先輩のセーラー服の背中も、僕の血でいっぱいだった。
そして父親に向かって、先輩は言い放った。
「行きたくない……お父さん……大嫌いだから」
涙にまみれた声で途切れ途切れに。
でもしっかりと、その言葉は父親に突き刺さったようだった。
父親の顔に笑顔はなかった。怒りもなかった。
それは、無表情というより……魂が抜けきったような顔だった。
開いた口からよだれが滴る。
目の前の男に、あの威圧感はなくなっていた。
「な、凪がそんなこと言うなんて……嘘だ……嘘なんだ……」
何かをブツブツ言っている。
でもやつはまだ包丁を僕らに向けたままっだた。
僕は痛みでまともに動くことができない。
その前に先輩が立ちはだかっている。
先輩が危険だ……まだ気は抜けない……。
やつが包丁を高く振り上げた。
先輩……危ない……!
僕は残る力の全てを振り出して、先輩の前に割って入った。
覚悟は決まっていた。
そして奴は、その刃を振り下ろした。
僕は目を瞑った。全てを受け入れる覚悟で。
……。
「凪が……お父さんが嫌いだって……そんな……」
声が聞こえたとき、僕はゆっくりと目を見開いた。
奴が振り下ろした刃は、奴自身の腹に突き刺さっていた。
「愛していたのに……愛していたのに……愛していたのに……誰よりも……」
一人の人間の命が消えようとしている。
僕はそんな光景を目の当たりにしていたんだ。
何も言えない、何もできない。
奴は再び包丁を引き抜いた。噴き出た血が僕の体を赤く染める。
傷は浅かったのか、刺さりどころが良かったのか、奴はまだ立ったままでいる。
「凪から笑顔が消えてしまった……もうお終いだ……」
奴が再び高々と、刃を振り上げる。
そして……。
「おいっ! 取り押さえろ!!」
包丁を振り下ろすその一瞬だった。
部屋に押し入ってきた男たちが父親を背後から床に倒した。
「確保!!」
「君、大丈夫か!?」
もう一人の男が、僕らのもとに駆け寄ってくる。
その男は、僕の体を抱えてくれた。
あぁ……助かったんだ……。
その安心感で、男の体に力の全てを預けてしまう。
「歩けるか? 二人とも、とりあえずここから出るぞ!」
僕は小さく頷くと、先輩と二人で家の外へと向かおうとした。
「待てよ!!」
床に倒れこんだ父親は大きく叫んで僕らを呼び止める。
いつの間にか手錠がかけられ、男に押さえつけられて身動きは取れないようだ。
しかし、その表情はギラギラと輝いていていた。
あの満面の笑顔が戻っていた。
「僕はまだ生きてる! 生きてる! まだ、諦めないぞ! 凪から笑顔を取り戻すんだ! 絶対に! 凪、もう少し待っていてね! 必ず幸せにしてあげるからね! あははははははははははははは!!!」
「やめろ! 黙るんだ!!」
男が止めようとも、父親は笑うことをやめなかった。
部屋中に笑い声が響く。
先輩は父親の方を見ないように顔を俯かせ、両手で耳を覆ってその場を通り過ぎた。
そして僕らは玄関の先に迎える光と風の方へとゆっくりと歩いて行った。
「おい! 救急車!」
僕を運ぶ男が叫ぶ。玄関の敷居をまたいでその先。
薄れゆく意識の中で、飯崎が不安そうな面持ちで立っていたのが見えた。
「お、俺が呼んだんだ……」
「そうか……」
そう僕は答えた。
そこから僕の記憶は途切れてしまう。




