第27話 約束の電話
今は、暗い教室で静かに涙を流すだけだった。
暫くすると、また教室の扉が開いた。
「真守、さっき蒼井さんいたけどもう終わったか?」
飯崎の顔を見た途端、僕の中の今までの緊張の糸が一気に切れた。
ボロボロと流れ出す様に涙があふれる。
飯崎は、涙でぐちゃぐちゃになった僕を見るなりすぐ側まで飛んできた。
「おい! どうしたんだよ真守! 何があったんだよ!」
飯崎は心から僕を心配してくれているようだった。
涙と嗚咽でうまく話せない僕の側にただいてくれた。
何も言わずにただいてくれた。
どれぐらいの時間がたっただろうか。
時間が過ぎるだけで、落ち着きなんて出来なかった。
だから、さっきの出来事をそのまま飯崎に伝えた。
時折感情が昂って、言葉に詰まって上手く話せなかった。
それでも飯崎は何も言わずに聞いてくれた。
「そんなことが……。どうするんだよ!」
「どうもこうも、何もできないよ……」
「でも蒼井さんがヤバいんだろ! 助けないと!」
「家族の問題だろ! 言えるわけないだろ……何も……」
「でもよ……」
「色んな事情があるんだよ……。僕らじゃどうしようもないよ……」
「でも嘘ついてたんだろ! 蒼井さんはよ! 暴力振るわれてさあ! そうだ、警察に言えば!」
「先輩は拒否してないんだ……警察に言っても意味ないよ」
「……じゃあどうすれば!」
「でも二人とも笑顔だった……。幸せそうだったんだよ……それでいいだろ」
「……じゃあ何で泣いてるんだよ」
自分にそう言い聞かせていただけだ。
先輩は幸せなんだ。幸せなんだ。これでいいんだ。
大人の事情でもある。僕ら子供に出来ることなんてないんだ。もう決まったことなんだ。
深い絶望を迎える。
飯崎の存在も認識できないほどに。
暗闇に全てを持っていかれる。
恐怖だけがそこにあった。
他に何もない、恐怖だけが。
もう僕一人の力ではどうすることもできないんだ。
今までは目の前の壁を必死に乗り越えてきた。
少しづつ、少しづつ登ってきたんだ。
飯崎や先輩や、家族の助けがあったからこそ登れたんだ。
でも今は……。
目の前にあるのは壁なんかじゃない。
奈落の底だ。
奈落の上空には、禍々しい太陽が輝いている。
太陽の光は、奈落を照らすためにあるんじゃない。
太陽でさえも、その奥底を照らし出せないという現実を僕に突きつけるためだ。
どんなに頑張っても乗り越えることなんてできない。
一歩足を動かせば後はもう落ちていくだけだ。
そんな闇が……目の前に広がっている。
虚無感だけだ。見渡す限りの……。
ただ1人で……。
……。
ふと、その闇の中で少しの光を感じた。
これは一体……?
光は徐々に大きくなって、音を放つ。
聞き慣れない音だ。
でも確かに……聞いたことのある音。
「おい真守! 携帯なってるぞ!」
えっ? 携帯?
僕のカバンの中で携帯が音を立てて鳴っている
何で……。僕は急いでその携帯を手に取る。
僕の番号を知っている人は片手で数えるほどしかいない。
じゃあまさか……!手に取った携帯を確認する。
『蒼井先輩 着信』
液晶画面には、確かにそう書かれていた。
僕はただ祈った。
ただ祈りながら、受信ボタンを押した。
「あっ、もしもし。私だよ……。さっきはごめんなさい」
その声は、いつもの先輩の声だった。
「絵、描いてもらえないのは残念だったけど……しょうがないよね」
「いや……」
「えと……。ごめんね、急に電話しちゃって」
「はい……」
どう返せばいいのかわからない。お互い沈黙のまま。
「そういや真守君と電話するの2回目だよね……でね、あの時……」
「おーい凪。早く終わらせて準備手伝いなさい」
遠くから別の声が、先輩の言葉に割って入る。先輩の父親の声だ。
父親の声に、先輩の声色も一瞬で変わる。表情の変化が想像できる。
「あ、はーい! じゃあね。さようなら!」
「凪、誰にかけたんだい?」
「クラスの子だよー」
声が遠くなっていく。
「先輩……!」
ツー、ツー、ツー。
その声を呼び止めようと僕が声を上げた時には、すでに電話は切れてしまっていた。
切れた電話の音が僕の耳に響く。
「おい……蒼井さんだったのか?」
飯崎が心配そうに言った。
「うん……」
「何て言ってたんだよ」
「さよならだって」
「マジかよ……」
そのまま飯崎は言葉に詰まったように黙り込んでしまった。
もうどうしようもない、そんな顔だ。
でも僕は、そうは思わない。
先輩は、さよならだって。僕に言った。
笑顔でそう言ったんだ。
電話越しだから直接は分からない。
でも確かに笑っていたんだ。
それと初めての電話の時、先輩は言っていた。
また会う約束の時は電話していいかな、って。
父親にクラスの子って嘘をついてまで僕にかけてきたんだ。
あの父親に、嘘をついてまで……。
その真意に気づいた僕は、教室を飛び出していた。
すぐ後ろを飯崎が追いかけてくる。
「おい真守! どうしたんだよ!!」
「先輩のとこ……! 行かないと!」
「さよならって言ってたんだろ!」
「とにかく行かないと!!」
「何なんだよ……!」
詳しく説明している暇はない。
僕は走った。
飯崎は、それでも飯崎は何も聞かずに後ろをついてきてくれた。
校舎の外に出ると、真夏の熱気が僕を襲った。
美術室からここまで走っただけですでに汗だくの僕。足は止められなかった。
校門まで走り抜けようとする。その少しの道でさえも、倒れそうなほどの熱気だ。
でも、止まっちゃ駄目なんだ。
「おい真守!」
ボロボロの自転車に乗った飯崎が僕の目の前に止まる。
「これ乗ってけよ。乗りにくいけどさ、走るよりは速いと思う」
「……ごめん。助かる」
僕は飯崎のボロボロの自転車へと飛び乗った。
そのまま自転車を進めようと漕ぎ始める。
確かに何箇所もフレームが曲がっている。真っ直ぐに進むのがやっとの状態。
今にもバランスを崩して転けてしまいそうだ。
それでも、前に進まなくちゃいけない。
「おい! どこまで行くんだよ!」
深呼吸で息を整えて。
「先輩の家」
「……俺、後ろから走って付いていくからさ。とりあえず先行けよ!」
僕は飯崎に頷いて、ボロボロを自転車を漕ぎ進めた。
自転車はフラフラとかなり不安定だ。右にバランスが崩れる、それを補おうと左にハンドルを向けると今度は左に倒れそうになる。
それを制御しながら、何とか前へ前へと進んでいく。
普通に漕ぐ自転車より遅いかもしれない。でも確かに走るよりは速い。
後ろを走る飯崎の足音が少しずつ遠ざかる。
僕は、昨日の記憶を頼りに先輩の家へと道を進む。
汗だくで自転車を漕ぎ進める僕は、なぜか少しだけ冷静さを取り戻していた。
そして僕はまた、祈った。
先輩が無事でいてくれるようにと。
静かな住宅街を自転車で駆けていく。汗は流れ続ける。
そして、先輩の家に向かう曲がり角が現れる。そこを曲がればすぐだ……。
そう思い、車体を右に傾けた時だ。
傾きすぎた自転車は、僕を投げ飛ばした。
フレームの曲がりによる予期せぬ動きだった。汗ばんだ腕がハンドルから抜け落ちる。
そのまま僕は地面に叩きつけられた。
右肩から腕にかけて激痛が走る。でも止まるわけにはいかない。
僕は右腕を抱えて立ち上がり、自転車をそのままに、自分の足で走り出した。
すでに体力もギリギリだ。汗は目に入り行く先をボヤけさせ、傷口に入り更なる痛みで気力を削ぎ落とさせる。
それでも僕は、止まらずに走り続けた。
最後の角を曲がった先。少し古めかしいような家が並ぶその一番奥。
ついに先輩の住んでいる家に到着した。
大通りから外れた住宅街に立つ家は、引っ越し前とは思えないほどの静けさだった。
窓もカーテンも全て閉め切っていて、中の様子は全く分からない。
異様な雰囲気だ。言い表せない恐怖が僕を襲う。
汗も乾き切っていないのに、僕の腕は鳥肌でいっぱいになっていた。
この妙な寒気は一体……。
目の前の古い家が、聳えたつ山のように巨大に見えてくる。
心臓の鼓動が早くなり、滲み出た汗が額を滑り降りる。
抑えきれない吐息は荒く、様々な恐怖が僕の頭を駆ける。
……だめだ。それじゃだめなんだ。
もう後には引かない。逃げないって決めたんだろ。
何があっても手を差し伸べ続けるんだ。
僕は目の前に差し出した腕に自ら噛み付いた。
噛み付いた腕に痛みが広がる。痛みが広がるのと同時に恐怖が和らいでいく。
僕に何ができるかわからない。どうするかなんてわからない。
でもどうにかしないといけないんだ。




