第26話 太陽
「真守君?」
問いかけてくる先輩。
僕はとっさに顔を足元に逸らしてしまった。
先輩の顔……表情を直視できない。もうそんな顔見たくない。
僕は覗くように先輩に目をやった。
顔は見ないように、その体を。
その時、僕はまたしても気づいてしまった。明らかな違和感に。
その笑顔じゃない。笑顔だけじゃなかった。明らかにおかしいんだ。
今は七月の後半だ。
体育館だって相当なもんだった。
エアコンすら無いこの教室も同じくらいにかなり暑いよ。
……じゃあ何で。
何で先輩は長袖を着ているんだよ……。
今まではずっと半袖だった。先輩の白い肌に見とれていた。
それ以上、特に何も思うことはなかった。それが普通だからだ。
だからこそ、汗一つかいていない今の先輩の姿がすごく気持ち悪い。
笑顔のままで。
「じゃあ描いてもらっていいかな?」
先輩を見ていられなくなった僕は、また視線を下にそらしてしまう。
「大丈夫?」
先輩が僕の顔を覗き込む。あの恐ろしい笑顔が目の前に。
僕は思わず後ろに仰け反ってしまった。
「どうしたの真守君?」
「どうしたんですか先輩……」
堪らず、震えた声を絞り出す。
「え?」
「何でなんですか……何で長袖なんですか……」
「……なんでもないよ!」
実際、長袖だろうが半袖だろうがどうでもいい。
昨日のこともあったし疲れがたまって体調崩して寒気がしてただけなのかもしれない。
そんな大したことない理由を願っていた。
そう、理由なんて何だってよかったんだ。
なーんだそんなことだったのかと、笑いたかった。
でも先輩は、何でもないって答えたんだ。
満面の笑顔で。
「……なんでですか」
「え」
「何で嘘つくんですか……」
「嘘なんてついてないよ!」
「ついてます……全部」
「ねぇ。早く描いてよ。約束したでしょ」
先輩が僕の腕を掴む。
「早く描いて」
「嫌です……」
先輩は、掴んだ腕を引っ張るように
「どうして? 早く描いてよ」
「嫌です! そんな顔……描きたくないです!」
そう言った勢いで、先輩の掴む手を力いっぱいで振りほどいた。
先輩は笑顔のままで。困惑したような引きつった笑顔で
「……どうしてそんなこと言うの? 描いてよ。ねぇ! 描いて! 早く描いてよ!」
叫んだ。
それはお願いと言うには強引すぎる、相手を脅すような叫びだった。
そんな先輩の姿なんて見たくなかった。僕の目に涙があふれる。
でも、背けちゃ駄目だ。
そのままの目で。
涙も隠さないそのままの目で。先輩の目をしっかり見つめて言った。
「正直に話してください」
フッと……先輩の顔から笑顔が消えた。
少し俯いた様子で先輩は静かに言った。
「……帰ってきたの」
消えそうな声で、僕に呟いた。
「お父さんが、帰ってきたの」
先輩の、お父さん……。
「それで、お父さんと暮らすことになったの」
覚えている。
あの森で、あの場所で話したことだ。
「だからね、引っ越すことになったんだ」
先輩は、両親はいないと言った。
直後、父親のことを語ったあの顔……
「だから私、今すごく幸せなんだよ」
その表情を見て、僕は先輩の嘘に気づくことができたんだ。
今の表情。満面の笑顔。
それは嘘を隠すためのものだって。
きっと父親に何かあるんだ。
深くは追及しなかった。出来なかった。でも確かにそう感じた。
父親のせいで先輩は……。
「もう真守君と会えないかもしれないから、だから描いてほしい」
「ダメです……描けません……」
「……」
家族の問題だ。
僕が首を突っ込むのもおかしい話かもしれない。
でも。今更、先輩を見捨てることなんてできるはずがない。
僕は先輩に向かって心の奥底から叫んだ。
「……行かないでください!」
どうしていいのかわからないから、ただ素直に自分の気持ちを叫んだ。
「もう決めたから……自分で決めたから」
「それも嘘なんでしょ!」
「嘘じゃない……!」
「嫌なんでしょ! お父さんのこと!」
「嫌じゃない!」
「じゃあこれは何なんですか!」
もう我慢なんて出来ない。
僕は先輩のその長袖を掴み、無理やり袖をまくり上げた。
そこにあったもの。
あの真っ白な、細くて綺麗な腕があってほしかった。心からそう願った。
でも現実は容赦なかった。
その腕は、小さな無数の痣にまみれていた。
痛々しく、毒々しく、赤く、点々と先輩を蝕むように、痣は腕にあった。
腕だけじゃない、きっと二の腕、肩、その先にまで続いているようだった。
想像以上の禍々しい現実に、僕は言葉を詰まらせてしまった。
「やめてっ……!」
先輩は腕を振りほどき、僕を押しのけた。
先輩の行動に、言葉を失いかける。
それでも僕は何とか、何とか言葉を発する。
「お父さん……虐待ですよね。それ、殴られたんですか……?」
先輩は涙を見せた表情で僕に向かて叫んだ。
「違う! お父さんはそんなことしない!」
あの笑顔は消えていた……。
「私のことが好きだから……」
嘘じゃない……。なんで。
「私はお父さんと暮らすって決めたの! 私の決めたこと否定しないでよ!」
本心から。
先輩は本心から僕を怒鳴りつけた。
その涙にまみれた怒りの顔。
初めて見る先輩の表情だった。
怒りの表情は、確実に僕に向けられていた。
僕は、悲しさとやるせなさと、もうどうしたらいいか分からない……。
涙があふれて、高ぶる感情と絶望に落ちる気持ちと。
頭の中全てをかき混ぜられている様だった。
「真守君……。ねぇ。どうしてそんな顔するの? ……笑ってよ。笑ってよ。お願いだから笑ってよ」
もう、先輩の顔なんて見ることはできなかった。
先輩の声も入らなかった。
こんな形で、先輩の本心なんて知りたくなかった。
先輩の本当の表情なんて見たくなかった。
二人きりの美術室。
でも、僕は暗い闇に一人ぼっちでいるようだった。
孤独が響く。
「終わったかい?」
僕の孤独を破るように、美術室の扉がガラッと開かれる。
そこから、長身の男が何の躊躇もなく、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
制服を着ていない。生徒じゃない。先生でもない。見たことがない。
その男は、異様なまでの笑顔をこちらに向けていた。
張り付いたような笑顔が僕の恐怖心を膨らませていく。
ニコニコとしたまま、こちらに近づいてくる。
一歩、一歩近づくたびにその得体のしれない恐怖が増大していく。
笑顔が、僕のすぐそばまでやって来た時だった。
気づいてしまったんだ。
皺だらけの笑顔。その目の奥。
しっかりと見開いた光のない瞳は決して笑ってはいなかった。
僕をしっかりと見据えて離さなかった。
その笑顔は、喜びや楽しみの感情なんかじゃ無い。
僕は本能的に感じてしまった。
その笑顔は、威圧されてしまうほどの笑顔だった。
心の全てを恐怖に支配されてしまう笑顔だった。
もう目を逸らすことも出来ない。獣に睨まれたように。
瞬きもないままのその笑顔の持ち主は高い声で流暢に話し始めた。
「やぁ、君が凪のお友達だね。僕は凪の父です。絵を描いてあげてたんだって? いいなぁ、僕にも見せてよ」
僕を見下して語り掛けるその笑顔が眩しかった。
まるで砂漠の太陽。
僕から全てを奪い去っていくようだった。
恐怖に僕は、何も話すことができなかった。
恐怖に耐えることしかできなかった。
「えっと、描いてってお願いしたんだけど……なんか今日は調子悪いみたい!」
先ほどの表情が嘘のように、満面の笑顔で先輩は父親に話しかける。
やっぱり先輩は……。
「そうかそうか。それは残念だね。楽しみだったのになぁ。凪の絵。で、引っ越しのことは言ったのかい?」
「うん、言ったんだけど……」
「なら話は早いね。今まで僕のせいで凪には寂しい思いをさせていたんだよ。でも、もう心配事は何もなくなったから、凪と二人で暮らそうと思ってね。だからこの町も今日限りで離れなきゃいけなくなったんだよ。分かるよね? だから、絵は最後のお願いだったみたいなんだけどね……。残念だったなぁ」
この笑顔に飲み込まれている。
笑顔と甲高い声、そして有無を言わさない一方的な話し方に僕の全てが飲み込まれている。
笑顔と声からは先輩といるのが心から楽しいと伝わってくる。
先輩の父親は、手に持った資料を先輩に見せ
「転校の手続きは終わったよ。校長先生も残念がってたけどしょうがないよなぁ。じゃあ引っ越しの準備もあるからそろそろ帰らないとね。遠くへ行くから準備も大変だよー! 今日中には町も出るから、本当に残念だけどもう凪と会えるのも最後になるね」
笑顔。笑顔が怖い。目が怖い。
瞳の奥が僕を見つめ捕らえている。
人でない何かが、人の皮を被っているように感じる。
「……もう少しだけ話せないかな?」
笑顔のままの先輩。その笑顔とは逆に、不自然なほど恐る恐る伺い立てるように話す。
「凪」
「……」
「お父さんのお願いだよ。帰る。嫌なの?」
「……嫌じゃないよ」
父親は、はっきりと静かに、それでいて教室中に響くほどの通る声で答えた。
威圧させるような嫌な迫力がある。それでいて笑顔は一切崩さない。
その笑顔がより恐怖を感じさせる。
「待って……!」
ここで引き止めないと、本当に一生会えない気がした。
しかし、太陽の笑顔が僕を遮る。
「これは僕たち家族の問題だ。君はもう関係ないだろ? ほら凪、挨拶なさい」
「うん! ……じゃあね真守君!」
絞り出した僕の声は2人に届くことはなかった。
先輩もの笑顔も、あの笑顔と並んで僕を見つめている。2つの笑顔が脳裏にこびり付く。
先輩の言葉の前に、僕は何もできなかった。
動けなかった。声も出なかった。
ようやく気づいた時には、この美術室に一人ぼっちだった。
全て焼き尽くされた後のように、虚無感だけが残っていた。
今までのは何だったんだ。今までの先輩との交流は何だったんだ。
今まで僕が乗り越えたことは何だったんだ。
その全てを、あのドス黒い太陽は一瞬で奪い去っていった。
僕は、何もできなかった。




