第18話 長い下り坂
そして帰り道。
先輩を押す先輩と並んで歩いていた。
帰りは僕が漕いで帰ると言ったことを忘れたわけじゃない。
ただ、ゆっくりと歩きたかっただけだ。先ほどの時間を惜しむように。
2人とも黙ったまま、ただ歩いている。
あの場所を出てから、話題も特にない。
日が沈む前に帰りたいね。
はい。
こんな会話を一言二言交わしただけ。
でも、気まずい気持ちとか、そんなものは無かった。
逆に、安心感があるというか。
きっと先輩も、自分と同じように考えていると思う。
何故かそう思う。
この関係に慣れてきたって感じているからなのか。
無言も苦ではなかった。
あの長い坂道を下った時には、赤い太陽が僕らの町のもっと向こうへと沈んでいくのを眺めることが出来た。
赤に彩られた町並みが僕の目の前に広がっている。こうしてみると意外と広く見える。
ふと視点を変えてみると、別の山の方に見慣れない塔を見つけた。
遠くてよく見えない。
鉄塔なのか、展望台なのか、それとも別の施設なのか。
そんな塔が、静かな僕らを遠くから見下ろすように聳え立っている。
先輩の笑顔のことが頭に思い浮かぶ。
そのことを思うと、心が陰るようだった。
優しく微笑む先輩は、すごく素敵だと今も思う。
でも……。
天真爛漫に、それこそ先輩の一番の特徴だと思っていた大きく元気な笑顔は、もう純粋な気持ちでは見ることはできない。
好きになれないと思った理由も今なら分かる気がする。
ただ気になるのは、いつ、どんな時に先輩は笑顔を見せていたか。
思い返そうとしてみたが、はっきりとは覚えていない……。
でも確かなのは、先輩はいつも笑顔だったこと。
その笑顔で何を隠しているのだろう。
何で自分の表情を知らないのだろう。
何で、僕に自分の絵を描いて欲しいってお願いしたんだろう。
先輩に近づけたと思った。
実際に近づいているのは確かだ。
でも、近づいて初めて見えるものもある。
ふと後ろを振り返ると、木々は夕日に照らされていた。
しかし、山へと続く一本道は木々に光が遮られ暗闇は深く。
先が見えなくなるほどに。
あの場所にいたときは考えることなんてほとんどなかった。
それとは逆に、この帰り道は頭がいっぱい。
これ以上考えても仕方ないと思った時には、もう山を下り切った後だった。
一度通ったことのある道ということも合わさって、向かう時よりかなり早く町に着いた感じがした。
寄り道したあのコンビニも、もうすぐそこに見えるほど。
「もうこんなとこまで戻ってきた」
微笑みながら先輩が言った。
「……最初は遠いって思いましたけど。そうでもないですね」
思ったことをそのまま伝える。
それは単純なことだけど、長い道のり。
「そう。意外と近いんだよね。自転車ですぐ行ける場所にあるのがいいよね~」
「まぁ、田舎ですからね。山ならいっぱいありますし」
「そこがいいところかな」
「そうですか?」
先輩はいろんな所に住んできたって言ってた。
そんな先輩が惹きつけるものがここにはある。
それはいったい何なのか。
考えれば考えるほど、疑問が増える。
考えれば考えるほど、先輩から遠のいているような。
そんな気がする。心の中が少し曇りがかってきている感覚だった。
「おいヒカゲ!」
それはあまりにも唐突だった。
コンビニの方から僕に向かって叫ばれた声。
……何でだよ。
僕の中の曇り空。
それさえも覆い隠すほどのドス黒い靄が蘇る。
全身が強張る。その声の方へ首を振り向けなくても、誰の声なのかはっきりと分かる。
「気づいてんだろ。おい! 止まれよ!」
その怒号と共に投げつけられたコーヒー缶が僕の頭を直撃し、飛び散った中身が、僕の制服のシミになる。
振り向いた先には、飯崎が隠しきれない怒りを表情に映していた。
こいつのことはもう忘れていたかった。
もう2度と関わりたくないと思っていた。
でも1日も経たないうちに、しかも同じく最悪のタイミングでこいつは僕の前に現れる。
いつも。いつもだ。
小学校のあの時から変わらない。
いつも僕の前に現れては、僕を邪魔する。僕を痛めつける。
なんでだよ……。なんでそんなに僕に構うんだ……。もうやめてくれ。
怒りのような。悲願のような。
そんな気持ちを表情に込めて、睨みつけようとあいつの方を振り向いた。
しかし、飯崎に向けた表情も、冷や汗と、心臓の嫌な高鳴りと共にかき消されてしまう。
そして先輩の小さなつぶやきが頭の中に鳴り響く。
「与一郎君……」
飯崎の後ろから、ゆっくりとこちらに歩いてくる人間がいた。
島だ。先輩と付き合ってるっていう、あの島がそこにいた。
不機嫌そうな、ダルそうな表情を浮かばせ、ゆっくりとこちらに歩いてきていた。
島は、飯埼の肩に手を掛けた。
すると突然笑顔を見せて
「マジでいたよ! お前すげーな! ストーカーかよ!」
飯崎も、少し笑みを浮かべ、島に顔を向ける。
「いや……。でも俺の言ったこと嘘じゃなかったっすよね!」
「悪い悪い。ダルかったけど来た甲斐あったな。ベストタイミングだろ?」
「ベストっす! 俺、マジこういうの許せないんで」
飯崎は睨みつけながらゆっくりと僕に向かって指をさした。
よく見るとその手には携帯電話が握られていた。これで島を呼んだのだろう。
「こいつっす。島さんの女、盗ろうとしてるやつ」
僕の方を見る島の顔は、あの不機嫌なものに変わっていた。
この間廊下で見た時とは別人のような恐ろしい顔だった。
「マジ? 何このチビ。おい凪!」
怒鳴るように呼ばれた先輩は、即座に笑顔で反応した。
「なんでこんなやつと遊んでんの?」
そう問い詰められた先輩は、やはり笑顔で言った。
「ごめんね。なんて言うか……断り切れなかったっていうか」
やめてください……。
「ちっ。お前さぁ。もうちょっと俺の女って自覚持てよ。何やってんの。」
「あはは! ごめんってば〜」
見たこともないような満面の笑みで。もう笑顔にならないでください。
嘘はつかないでください。
「しつこく付きまとわれたりでもしたか?」
「……ちょっとね〜!」
終始笑顔。
満面の笑顔の先輩。
「素直なのはいいんだけどさ。」
素直なんかじゃない。先輩は嘘にまみれている。
「あんま調子のりすぎんなよ」
「ご、ごめんね」
「てかお前ちょっと濡れてね?」
「あ。これは……」
「はぁ……。最悪じゃん。もういいわ」
島は完全に先輩を威圧しているような態度をとっている。
その怒りが伝わってくる。先輩は笑顔で答えるしかない。
「で。誰お前?」
ついに、その怒りの矛先は僕へと向けられる。
僕はとっさに島から目線を外す。
そのまま何も言えず、何も出来ず。
「なんかしゃべれよ」
島が僕の太ももに軽い蹴りをいける。痛むほどではないが、少しバランスを崩す。
「なぁ。大丈夫か? 聞こえてる?」
その言葉と共に、島は僕の髪の毛を鷲掴み、自分の顔へと引っ張り上げる。
掴まれた髪の一本一本が、激痛に悲鳴を上げている。
「あんまり殴ったりとかしたくないんだけどさ。しょうがないよな。とりあえずさ、ここじゃ目立つから」
島は辺りを少し見渡して
「あっちいくか。ついてこいよ」
そう言って島はコンビニ裏の、木々で囲まれた場所へと僕らを連れて行く。
必死につま先立ちで抵抗するが、その痛みから逃げられることはなかった。
「チビのくせに背伸びしちゃって。舐めてんの?」
そして目の前には、見下した島の表情が僕を追い込んでいた。
突然の状況に僕は、何も出来ず、何も言えず、込み上げる吐き気のような不快感と恐怖感が襲ってきた。
「まあしょうがないけどよ。綺麗なのはわかるよ。でもよ、俺の女に手出したのは失敗だったな。おい!」
島は飯崎を呼びつけた。
「やっぱり俺よ、殴るのやめとくわ。痛いの嫌いなんだよな〜。だからよ、お前好きにやっちゃえよ」
その言葉を受けた飯崎は、笑みをこちらに向けていた。とても邪悪な笑顔を。




