第13話 裏切り
少しずつ、その笑顔が保てなくなっていく飯崎。
僕はその表情に立ち上がり、少し身構える。
「えと……絵を描いてもらってただけだよ!」
先輩も、いつの間にか戻っていた笑顔で話しかけた。
その言葉。飯崎には届いていないのか、僕の方に視線をじっと向けている。
「ふざけんなよ……。なんで蒼井さんといるんだよ」
「別に……。お前には関係ないだろ」
「意味わかんねえ。なんなんだよ……」
飯崎の手元には、学校の購買部で買っただろうコロッケパンが二つ握られていた。
ラップに包まれたパンは、徐々に強くなる飯崎の手の中で潰されていく。
「真守っ……!」
僕の名前を口にするが、その後の言葉を詰まらせる飯崎。
彼の混乱が伝わってくる。
「皆にも説明して……良くしてやったのに……いじめもさぁ」
飯崎の口から困惑と怒りが溢れ出るように。
「俺の事、裏切んのかよ!」
「裏切るって……。いじめもお前が始めたことだし」
「お前が悪いからだろ……反省したと思ったからさぁ!」
とりあえずこいつを何とかしないと。先輩の方に目をやる余裕もない。
「蒼井さんには手出すなって言っただろ!」
「どうしようと僕の勝手だろ」
飯崎を睨みつけてるであろう僕の眼。隠せない表情が飯崎を更に刺激する。
「ヒカゲお前調子のってんじゃねーぞ!」
飯崎の方も、僕の敵意に反発する。
僕の方へ近づくために、ゆっくりと美術室に入ろうとした時だった。
僕はとてつもない嫌悪感に襲われ、その勢いで叫んでしまった。
「入んな!」
どうしてそう感じたのかも分からない。
でもこいつをここに入れてはいけない。その気持ちだけが先行した。
そんな僕の姿を先輩が見てどう思ったか、なんて今は考えられない
僕も目の前の出来事に精いっぱいだった。
僕の怒りに足を踏みとどめた飯崎。
しかし、今度は足を鳴らす勢いで僕へと向かってきた。
「入ったらどうなるんだよ……根暗がさぁ!」
その言葉の後、飯崎の容赦ない拳が僕の顔へと飛んできた。
どうしようもなくその場に倒れこむ。
「言ってみろよヒカゲ! どうなんだよ!」
這いつくばった僕の背中を蹴り続ける。
「いつも……いっつも助けてやってんのに! クズ野郎! 無視ばっかりしやがってさぁ」
蹴られた箇所は、熱を持ち、鈍い痛みが広がっていく。
「お前は自己中だしさぁ! ……なんでお前はいっつも俺を裏切るんだよ!」
その言葉に、僕は痛む体中を飛び起こし、飯崎の胸元に食らいつく。
気持ちが昂ぶって、何も考えられないで。言いたい言葉も自分で抑えられない。
何年も溜めていた、飯崎への不満。二人の仲を引き裂いた出来事。遠い過去のわだかまり。
それが頭を駆け巡った。
「お前に助けてもらったことなんてない……」
まっすぐに眼を睨みつけて。
「それに助けてやったのも僕だろ」
相手の瞳のその奥を見据えて。僕は声を叫ぶ。
「助けてやったのに裏切ったのはお前だろ! お前のせいでこうなったんだろ!」
奥底に閉じ込めていた声が、叫び出だす。
「……うるさい黙れ黙れ! しゃべんなゴミ!」
僕の言葉に耐え切れなくなったのか、飯崎は僕を突き放すように殴り飛ばした。
「自分勝手すぎんだよいつも! 俺の気持ちも知らないでさぁ!」
突き飛ばされようが、どんなに蹴られようが、ボロボロの体を起き上らせる。
そして立ち上がり、飯崎の眼の前へ。逸らさず、睨み続けて。見つめ続けて。
僕の眼から涙が流れだすのを感じる。
単に殴られた痛みからじゃないのは確か。怒りが昂りすぎたからなのかもしれない。
それでもはっきりと伝えてやる。僕のこの気持ちを。
「お前の気持ちなんて知りたくもない」
飯崎の顔も、眼も、真っ赤に染まり切っているのを感じる。
もちろん、もう一発。いや、何発も拳が飛んでくることは覚悟していた。
しかし、それよりも先に視界の外から先輩が駆け寄ってきて、笑顔で言った。
「私のせいだよね。えと……ごめんね」
その笑顔の意図は分からなかった。
でも、先輩の存在を再認識した事によって2人の緊張が少し緩んだ。
これ以上の衝突は起こらなさそうな雰囲気に。助かった……。
このまま飯崎と僕と2人っきりだったらどこまでやりあっていたか考えるのが恐ろしい。
とりあえず飯崎とはこれ以上話すこともないし話したくない。
「もういいだろ……。帰ってくれ。……出てってくれ」
最後に、殺した泣き声の中に言葉を絞り出す。
心からの願いを。
飯崎は今にも反抗してくるかのように強張った表情を見せたが、先輩の顔を伺うと踏みとどまり、振り返ってそのまま美術室の外へと歩いて行った。
飯崎が扉を閉めようと手をかけたとき、再び僕と目が合う。
恨めしそうに、その表情からは言葉を発する以上の気持ちが伝わった。
そして飯崎が勢いよく閉めた扉の音が、美術室と僕の心に虚しく響き渡る。
とりあえず難は去ったと、安心感があふれ出す。
一息つく。すると、潰れた2つのコロッケパンが床に落ちているのに気づく。
僕は黙ったまま、そのパンを手にとってゴミ箱に運んだ。
今後、面倒が増えそうだ。
飯崎にはもう会いたくもない……。
でも学校もあるしどうしても顔は合わせてしまう。
せっかく終わったいじめも再開するかも。
色んな不安が……。
もう呆然。考えたくもない。
「えと……真守君、大丈夫?」
そんな僕を心配するかのように、先輩が語り掛けてくる。
「全然大丈夫です……慣れてるんで」
はい。この一週間くらいで。
体に溜まる鈍い痛み。これは耐えられる。
でも心の痛みは別。
いつまでたっても慣れはしない。
「すみません。なんか、見苦しいっていうか……」
「大変なことになっちゃったかな……」
「大丈夫ですよ……。僕の問題なんで」
そう、これは僕の問題。
先輩抜きにしても、ずっと避けてきた飯崎という問題に今、直面しているだけだ。
いつかはどうにかなるだろうと放置してきた。それが爆発してしまった。
でもどうすればいいかなんて今は分からない。どう転がるかさえも。
とりあえずこの微妙な空気を何とかしないと……。
「場所……絵、描くとこ。変えませんか?」
なんでもいいからとりあえず話題。
「なんか毎回、誰か来て……。中断される感じですし」
そう、先輩といるときに限って余計な邪魔が入る。
これも切実な問題。
「そだね。誰も来ない場所って思ってたけど……意外と来るね」
少しの笑顔で答えてくれる先輩。
なんとなく、さっきの嫌な雰囲気も薄れてくる感じ。よかった。
「じゃあどこにしよっか?」
「あ……えと」
また別の問題が発生。
提案したは良いけど、いい場所なんてこの僕が知っているはずがない。バカ丸出し。
何も考えずに発言なんてするもんじゃないな……。
どうしよう……。
まあ、今のところは先延ばしにすればいいか。
今日は帰ってじっくり休んで。その間に考えよう。
とりあえず……。またにしませんか? 今日は色々あって疲れたんで。
そう提案しようと、蒼井先輩の方に目を向けた。
その時、先輩と目があった。
まっすぐ僕を見つめて。
先輩には珍しく、笑顔のないまっすぐな眼で。
僕の瞳の奥に語り掛けるように言った。
「私、いい場所知ってる」
ただ、先ほどの僕の移動の提案に乗っただけだ。
何故かは分からない。でもなぜか、僕はそれ以上の気持ちを先輩から感じ取った。
どんな気持ちかも分からない。
……曖昧なことばっかりだけど。
心からの言葉に聞こえたんだ。それに応えたい。そう思った。
「どこですか?」
「ん~。なんて言えばいいか……」
先輩は、窓の方へ振り返って、外へ顔を向けた。
もう12時を超えようとしている夏の午後。
強い日差しと蝉の声が町中を包んでいる。
「……今から行こっか。天気もいいし、時間もあるし。大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「あっ、でも体……」
「全然痛みも少ないですし大丈夫ですよ」
嘘。ちょっとだけやせ我慢。
どこに行くかなんて今は全然分からないけど。断る理由もない。断りたくもない。
僕は快諾した。
「えと~。そうは言ったけど、ちょっと距離あるから……行けるかな~」
先輩は僕の方へ振り返ってちょっとの笑顔でそういった。
「今日1日空いてるんで。全然行っても……」
「そっか! じゃあ行こっか。自転車で行けばそんな遠くないから!」
そっか~。自転車で行くぐらいの場所ですか~。
それを聞いてまた問題が増えたと頭が痛い僕。
「あっ、僕……自転車ないです」
なんで携帯といいいつも僕はこうなんだよ……。ほんと使えない。
それを聞いた先輩も少し悩み顔……。
マジすみません……。
「じゃ~ぁ……。後ろ乗っけてあげる! どう?」
先輩のとんでもない案。
絶対それだけはない! ありえない!
「大丈夫です……それで」
でも断ることもできない。はぁ……。
「決まりだね」
先輩の後ろに乗っけてもらう僕。何かそれを想像するだけで間抜けな感じ。
必死にしがみつく姿が見える……。
辛い……。不安すぎる。
「じゃあ行こっか」
先輩が僕にやさしく微笑む。
何でだろう。先輩のこの微笑みが好きだ。
今朝は、僕に対して笑顔が少ないと不安になっていた。
でも、先輩の大きな笑顔より、この小さな微笑みの方がもっと見てみたい。
何でそう思うのだろう。
少しの疑問を抱きつつ、蒼井先輩の言う“いい場所”へと向かうため美術室を後にした。




