3話
3話
今から約500年前、イスラムの衰退とともにレコンキスタ
というキリスト教徒による領土回復運動が起きた。
これにより多くのユダヤ人がイベリア半島を逃れ、
オスマン領土を目指すこととなるが、反レコンキスタ、
その活動の最大の支援者の名前をドナ・グラツィア・ナスィと言う。
彼女のキリスト教徒名をベアトリーチェ・ルナと言いマラーノであった。
死の前に、自らの名を血で記しユダヤ教徒へ回帰した。
マラーノとは豚のことであり、裏切り者として断罪された。
それを唯一救う方法、それは契約者モーセス・ナスィの血をもって
そのものの名を書くことであった。
ヘロデ・ナスィという王がユダヤ最後の王というがそれは事実ではない。
日本の天皇家も伏見宮家や何十親等も離れた親戚を天皇にしたことがあるように、
ヘロデ・ナスィの滅亡後も王家の血ナスィの系譜は健在である。
南ユダ王国やイスラエル王国が滅亡したため『王』ではないが王家の血脈ではある。
ドナ・グラツィア・ナスィもまたその一人であった。
16世紀初頭 ポルトガルにて
ドナ・グラツィア・ナスィ
「アーニャの夢は何?」
いつのころか、誰にかはわからないが、おそらくキリスト教徒の貴族
であろう友人から聞かれた。幼い私がどう答えたのか今もなお
はっきりと覚えている。
アーニャは元気にこう答えた。
「みんなをパン屋さんにすることゾ」
キリスト教社会ではユダヤ人の多くが差別迫害され、
パンやどころか、なめし革職人にすらなれない。
ユダヤ人はみんなそれを知っていた。まだ幼い、アーニャ
のような子供でも。
それを聞いたキリスト教徒の友人、正確にはキリスト教徒の貴族の
友人が言った。
「アーニャは馬鹿だなぁ。パンなんてお皿にいくらでも出てくるじゃないか」
「うちの使用人が作ってるぜ。いつでも雇ってやるよ」
周囲の子供には理解されないアーニャはひとり寂しく空を見上げるのだった。
当時、ヨーロッパに住むユダヤ人には2種類いた。
ヨーロッパ北中部に住んでいる言葉の通じない
ユダヤ人と名乗っているが、その大半は
乞食であり物乞い、ゴミ拾い、なんとでも形容できるが
キリスト教徒により、家畜や奴隷扱いされる者たち。
それに対して、アフリカ北部沿岸とヨーロッパ南岸の地中海沿い
に居住するもの、アーニャの一族のようにポルトガル王家に属する
大貴族。表向きはキリスト教徒を名乗ってはいるが誰が見ても
ユダヤ教徒のユダヤ人だ。褐色の肌でアラム種のため外見ですぐに判別できる。
もしユダヤ人でないとすれば、イスラム教徒と言ったほうがましであろう。
アーニャの両親も迫害される白人系ユダヤ人を支援する気はあるのだが、
あまりにも文化が違いすぎる。まず言葉がまともに通じるものが少ない、
大半のスファラディムのユダヤ人はイスラムを盟友と考えているが、
白人系ユダヤ人にイスラムを友人と呼ぶものはほぼいない。
同じユダヤ人であっても戒律を守らず、法も守らないため、
悲しいことだが、冷遇する者もいる。
彼らは周囲にキリスト教徒ばかりいる環境でユダヤ的な思想や習慣を
持つことは確かに危険だ。
密告や拷問を恐れるあまり疑心暗鬼で少し狂った人々だと
客観的に見ればそう思わざるを得なかった。
だが 同じ ゆだやびと 救うべき者たち、好くべきものたちだ。
学校が終わり、家の前に着けた馬車から下りて家に入ると
父がイライラしていた。最近はずっとこうだ。
「カーッ、またヘマをやらかしおってこの無能が」
最近とみに怒りっぽくなったオスマン領で大商人をする父は
従者のメンデスを叱っていた。なにをしたかは知らないが
申し訳なさそうに謝罪をしている。
アーニャの勘ではあるが、単なる父のやつあたりであろう。
後世の歴史では、メンデス家は香辛料を扱う新キリスト教徒で、
フッガー家と比肩する大富豪と伝えられているが実際には
それは少し違う。
「スルタンの侍従医」、「王の侍従医」、
ユダヤ人の名門に侍従医がやたらと多いが、
侍従医とは現在で言うところの王専用のCIA長官のような存在だ。
仮にキリスト教徒に諜報をさせたとしよう、同じキリスト教徒に
情報が漏れる可能性が高く、イスラム圏にコネクションなど
構築できない。少なくとも十字軍での聖絶という行為による、
イスラム教徒の持つキリスト教徒に対する恐怖感は想像を絶しており、
見つけたら即殺すだろうし、内通者は拷問以上の極刑だろう。
ユダヤ教徒は、キリスト教徒とイスラム教徒の間で蝙蝠のように
諜報活動をしていた。もちろんどちらかといえばイスラム寄りではあるが。
当然、スルタンや国王の意見を直接聞き、報告する義務がある。
ゆえに、「侍従医」なのだ。
王の健康状態は王位継承にかかわる、特級の機密事項だ。
王妃や王子に知られることもだめだ。当然、貴族もだ。
内部での抗争や外国の蠢動を許すことになり、
戦争の発端が開かれかねない。
ゆえに、支配者が変わると、大物ユダヤ人が殺されたりする。
メンデスが大富豪と言ったが、メンデスはナスィ家の財産管理人で
信用のおける側近だ。
だから、身寄りのなくなったアーニャを娘として育てた。
父は有力ユダヤ人や新キリスト教徒など数人と
何やら深刻そうに話しこんでいた。
後世で「レコンキスタ」と呼ばれるキリスト教徒による
領土回復運動だ。もはやオスマン帝国のイベリア半島撤退は
時間の問題。各地の侍従医、諜報担当の貴族から
厳重な警告がなされていた。
「撤退か、そうなれば、キリスト教徒が同胞をどう遇するか。」
それが皆の話題だった。
「火を見るよりも明らかでしょう。最低で改宗、火あぶりや全財産没収
もありうるでしょう。」
「最悪の事態、かつての十字軍のようなアナテマ、無差別な虐殺も
視野に入れるべきです。」
家全体が、闇の帳に覆われたかのような雰囲気だった。
グラツィアも心配になって少し口を挟んだ。
「キリスト教徒にも友人はおるゾ。
そ、そうじゃメンデスもキリスト教徒ゾ。」
父はグラツィアを気にかける様子もなく、
メンデスに謝罪する。
メンデスもバツが悪そうだ。
今、考えれば、メンデスも好きで改宗したわけでもないだろう。
この陰鬱な雰囲気が嫌なグラツィアは軽挙にも
また口を挟もうとする。
すると、さすがに見かねたように、母が諭す。
「グラツィア、殿方のお話に首を突っ込むものではありませんよ。」
すると弟が、母の差し金であろう絡んでくる。
「姉上、あそぼ!」
グラツィアがユダヤ人でありながらキリスト教徒の学校に行き
ナスィ家の財産がメンデス名義に変わっていたのか、
当時の私は、それを知る努力すらしていなかった。
ナスィ家は有力者、諜報のトップだ。もっと早く逃げられた。
だが、グラツィアの父は踏みとどまることを選んだ。
情報が得られなくなれば、ユダヤの最高権力者が逃げれば、
一般のユダヤ人は見せしめに、皆殺しにされるだろう。
ユダヤ人の元締めといえる、ナスィ家の名誉にかけて
それはできなかった。ナスィ家の改宗はユダヤ教の死を
意味していた。
家を出るときに架けられたロザリオに注意を払うべきだった。
なぜ、私だけがキリスト教徒の教えを受けていたのかを。
闇夜に兵士たちが、松明を以って近づいてくる。
皆の生きる希望として選択の余地はなかった。
「ひぃっ。」
今思えば、父らしからぬ言葉だった。
割礼を受けている弟は逃げることはできない。
母は、幼い弟だけを逝かせるつもりはなかった。
死の瞬間まで弟と一緒にいる気だろう。
一族の根絶やし、それだけは避けねばならない。
遥かなる祖先、モーセから受け継いだ、神の名を繋ぐために。
「ここまで付いてきてくれてありがとう。
メンデス親子は帰れるのでしょう?」
これが私の聞いた母の最期の言葉だった。
自然とほほを流れる涙。
家族との離別、そしてその死、耐え難かった、抗えなかった。
気絶しないように、最後の気力を振り絞ってこう言った。
「密告したのは私です。」
「お世話になったのに、裏切って申し訳ありません。」
無言で泣く弟。
姉、グラツィアの未来を祈って。
父は去り際にこう叫んだ。
「おのれ、生涯忘れぬぞ、メンデスの娘グラツィア!」
グラツィアは馬車に乗せられて、離れていく家族に向かって、
聞こえるかどうかなど考えることもなく、こう絶叫していた。
「これからは、あなた方の分まで生きてゆきます。」
「さようなら、旦那さま、奥様、お坊ちゃま!」
そしてグラツィアは力なく崩れ落ち、気を失った。
永遠の別れであった。
レコンキスタの時代、グラツィア、十代になったばかりである。
それから、五年後
ネーデルランドから早馬が到着した。
馬から降りた従者は異端審問官にこう告げた。
「グラツィアからの手紙だ。責任者にそう言えばわかる。」
鬱陶しそうに異端審問官は鼻を鳴らした。
収容され、死体と生きているものの区別さえつかない中、
改宗拒否者はうずくまっている。
ラビに至っては鼻と耳、両目を抉られていた。
扉を開けると「ううぅっ」悲痛なうめき声が聞こえ
耐え難い悪臭もする。血と糞尿、腐った死体に沸く蛆。
だが、異端審問官は嬉しそうに手紙の中身を読んだ。
「いましがた手紙が届いた。差出人は、豚のグラツィア・メンデス。
今はベアトリーチェ・ルナという名だ。」
「グラツィアはユダヤ教を棄て、キリスト教徒となった。」
ハハハハ、そう笑いながら続きを読む、異端審問官。
「自殺が禁じられているので、改宗しなければ殺せとさ。」
ラビは抉られた目をそっと閉じると、尋ねた。
「私は眼が見えません、その手紙、何色で書かれているでしょうか。」
「ん、これは、血、血か。」
ラビは最後の命のともしびを燃やし叫んだ。
「おお、かたはらよ。神は、神は、我らを見捨てたもうた。」
改宗の手紙、無条件降伏命令書であった。
「たとえ豚と言われようと、生きよ。」
王家の娘、グラツィアからの告解であった。