蛹の檻
Wheredunit Mystery
薪ストーブの暖気は届くはずもなくて板張りは凍てついた。出かけのパンプスのままのささやかな後悔、毛糸のもこもこに替えてれば問題ないし、なにより可愛いじゃん。昼は暑かった、待たせるわけにはいかない。
分かってはいるけどノブはそろそろ動く、ケチな躊躇い、外の相手はなおさらなのにね、ホッとした、二重の警戒、躊躇い、心のどっかで会いたかったんだよね、じゃあ、三重の安堵か。真っ先に君の強い眼差しを理由もなく感じる、庭のランプも点けないなんてサイテー。薄闇に溶けた君はほころんで白い気が綺麗、と思った。スリッパに薄い靴下、これもサイテーだ、ビニールが安っぽいし、君は奥を覗いてる、ウチはいちいち木が重々しい、気に入ってくれれば嬉しいけれど。
ひと気のしない家、君と歩く。ラベンダーを目線だけで振り向いて、ただ過ぎる。君はそういう人だ、さっぱりしてくれるし、優しいよね。過ぎても薫りは伸びている、上質紙の黒、薄紫で認められた君の便りの数列が走った。
不規則な明滅が侵入してせわしく君を染めている、白っぽい肌鮮やかに、小高い鼻梁切れ長に咲く鷹揚な睫のなした陰翳には複雑に色は混じり浮き出させる、不気味に。吹き抜けに届きそうなモミの木は迫力だ、改めて、壁に映す焔、一瞬耳に満ちる小枝の破裂音が不意に熱を想いださせる、どろどろ蕩ける。てっぺんに揺れるヤジロベー、右へ左へ金の躰の奇妙なサンタさん、幼いころにさーやが選んだ、さーやさーやさーや。
無糖の紅茶、これはペットボトルだ、六角のグラスに星形の氷を浮かべて、これは気に入ってるの。お茶受けみたいに小鉢を置いた、ガラスの天板が鳴る。
「足りる?」
君は不可解そう、急に不安が。
「ううん?」
「え?」
「いや。クリスマスに和食なんだなって」
「あ。それはね。ウチじゃわりとフツーなんだ、なんだ、そんなこと、あはは」
「変わってるね」
「そうかな、でもないよ」
君はツリーを眺めてる、あんなにでっかいツリー。
「だね。それはそうと。要件を詳しく訊こうか」
紅茶に肉じゃが。
「かくれんぼね……」
「そう」
「ふーん。なんだかなぁ」
「なによ?」
「ふ~ん」
「なんなのよ!」
君はテーブル辺り、視線を落とす、不満そう。
「ちょっと幼稚じゃないのかなって」
「悪ふざけだよ、てか、ノリ?」
ツリーを見上げる。
「ウチらまだ女子高生だし、全然あるってば、てかたまにってことだから」
「ふん。まあ、いいんだけどさ、でもなんと言うべきか……妙だよね」
「ぶっちゃけ、キモいってこと?」
「まあ……ぶっちゃけてしまえば」
「まあね、妹の私だってちょっと怖ろしいわけ」
「虫みたいに潜んでるってことなんでしょ?」
「あははは。虫ね、そうそう、ふふふふ」
ケータイがよぎる、そうだよ、掛けてみなきゃ。
「さーやね、こういうことにはあり得ないってほどにガチなの、本気すぎて怖くなっちゃうくらい、もう慣れっこだけどさ」
「うん。さーやさん、ケータイ持ってるんでしょ?」
「そう。それは必ず決まってるんだ、ローカルルールで。なにかあっちゃマズいじゃん、だからね」
「じゃ、掛けちゃおうよ。てか、やんなかったんだ」
「まあ、最終手段だし、ケータイより先に君が浮んじゃった、助けてくれるよってね」
「予感が働いた?」
「そう」
「まあね、20代の知恵があるから」
「だね? でもさ、さーや、意味ないかも。マナーにしてんだ、こういうとこ抜け目ないから」
「だろうね。バイブ?」
「うん、多分。虫みたいに冬眠してんだよ。この館はとても広いんだぞー」
「館か。確かに大きな家だけど」
「もうちょっと本域でツッコんでよね」
「まあ、館でしょ。でも暖かくて助かるよ」
「それはこの部屋だけだよ」
「じゃあその時みたく死んだふり?」
湯船に沈んだ、あぶくが途切れて急激に恐怖、お湯に沈んで恐るおそる瞼を上げようと勇気、プールみたいな大きすぎる浴槽、沁みて痛い、痛すぎるし思いの外暗すぎる、胎児のような頑なな、さーやさーやさーや、赤――――。
「どこでやったの?」
「え?」
「さーやさん、死んだふり」
「あ。どこででも……そうだな、シャワー室とかね」
あれ……。そうか、ずっと物置だって思いちがえてたや、広い物置、タイル張りの。だけど、どうしてだっけ……。
「ふーん、シャワー室ね」
「うん、浴室だよ」
「そう。じゃ、行ってみてもいい?」
「浴室に? だけどどうしてさ」
「いや、なんとなくだよ」
「へえ」
すーと首を動かしてガラス戸を戻した、眺めるほどもない簡素な浴室に。
「館みたいな豪勢なお家だけど。なんだか不似合いというかさ」
「ん?」
「浴室だけはやけに、お金が掛かってない」
そう、貧素だといったって間違いじゃないはずの。
「ウチね、そういう気質なんだ、掛けるとこにはありったけ注ぐくせに、興味のないとこには一切無頓着、みたいな」
「そうか……、でも不自然すぎやしない?」
そうなの、不自然すぎるの。
「でも、そういう両親だからさ」
理由がある、でも……。
「ところでさ、掛けてみようよ、ケータイに」
「あ、そうだった」
分かってる、分かっているけど、分かりたくない。
「えっと……どこに置いてたっけ、私の部屋かしら? あれ、さっぱり分かんないかも」
「じゃあさ、鳴らしてみなよ。大変だ、こんなに広いんだしまるで宝探しだよ」
「そうだね、君が鳴らしてくれる?」
「ふーん」
そうだ、君と目があったまま見つめ続ける、吸い込まれるように、このままでいたくなるように。
「ねえ? ずっと訊かずにいてくれたんだ」
あれから君と何度か会った、君は何度もさらりとしてくれてた。
「えっと君の連絡先? そりゃそうさ」
「だよね、なんかごめん」
「いや……まあでも、掛けてくれたしね」
「そうそう、メリークリスマスイヴ」
「うん、メリクリだね」
「偶然なのかな、実は嬉しい」
めっちゃ嬉しいんだ。
「それはさ、もちろん俺もだよ、感謝だね」
さーやの悪戯に。
ラベンダー。君がくれた便り、薄紫の数列。
「えっとね……ここにあるんだ」
固定電話のページからさーや宛てを鳴らす。
「案外さ、忘れちゃうんだよね」
「だね、俺もだな」
「あの、コレ」
君がくれた物に比べればなんと品のない紙切れだろう、だけど気持ちは籠ってるから、ね?
「ありがとう、嬉しいよ、とっても」
鳴らしっぱなしのベル、えっと上……かな、2階ってことはさーやの部屋だったか。
「やけに響くね」
「うん」
「だってバイブだよ」
「そうね、ちょっと違和感」
「だいぶだよ」
長い廊下の突き当たりから街が見えている、ただの住宅街だったはずだけど、今だけはまるで並木道。光が、ぼんやりと広がって見えた。
「やっぱり下かな」
君は進んでいく、螺旋階段へ、こっちの階は予想外の静寂。
「うん、やっぱ音が大きくなってる、1階でよさそう」
「ほんとだ」
「自由なご両親だよね」
「娘たちを残してってこと? でも毎年だよ、クリスマスイヴ」
「そうなんだ。仲がいいんだね」
「そうかな、そうかもね。でも私もいけないんだ、毎年外出していたから、中二のころからだからね、呆れちゃったのかもよ、だから私、高校に入ったとたん事切れちゃったのかもしれない、もーいーやって」
「諦めちゃったんだ、だから両親共に」
「そうそう、この歳でべったりってのもなんか違うしね。さーやもいるんだし」
「こっちに行ってみよう」
何だろう……? 私の家なのに、君が隊長で、探検をしているみたい。さーやを探す隊? 奥は洞窟みたいだ。
「やっぱり広いな」
「そうだね、改めてみるとそうかも。普段生活してるスペース以外が多すぎるくらい多いのかもしれない」
「こっちは」
「うん、中庭の周りなんだけど、そこの部屋は物置って呼んでる、私的には」
「物置ね」
君は物置に進んでいく、タイル張りの奇妙な一室、隙間風が少し冷たい、昼は暖かかったりもするが。
「物置というより物干し……かな?」
「そう、母さんたまに干してるみたい、気分屋だから」
「ふーん、ま、気分というより雨よけもあるんじゃない?」
「違うよ、ザーザー降りでも軒下に干してみたりもするくらいだから、だから気分屋なんだよ、完全に、変な親なんだきっと」
シャワー室はちょっと眺めるだけだった、でも、こっちは、こっちの浴室は……赤――――。
「いつからなの?」
唐突だな。
「何がよ?」
「だから……」
君の眼差しが強くなった。
「ここ、以前は使っていたんだよね、違うの?」
えっと……。
「うーん、その……」
「まあね。少なくともしっかり使ってる形跡はないかなっては思うから、そこは曖昧なのかもしれないけれど」
「うん、さすが、君、鋭いよね。でもね、私、ちょっと驚いちゃってるんだ、母さん、気まぐれに使ってるとは知っていたけどね、案外、床がきれいだなって。もっと埃が被ってるイメージだったから」
「そうなんだ」
君は広い広いこの部屋をじっくりと眺めわたしていた、幼いころプールくらいに感じていた円形の、少し小さくなった、それでもやっぱり大きなその。多肉植物の鉢が散漫に並べられていて、それらはしかし不様に欠けていたり完全には潤っていなかったりする、しかし放置しきっているほどには殺伐とはしていないような。円形の内部の段差を利用して一時は半ば熱狂的に蒐集せられたはずのそれらのいちいちを手に取り動かしたりしながら、君は思いに耽っているみたい、私の呼び出した探偵さん。
「ね」
君の顔が硬い、なんだかトーンが変わった気がする。
「どこにいるんだろう?」
「え?」
「ねえ?」
なによ?
「うん?」
「君は俺を呼び出した」
「うん」
「君の姉さんを探してほしい、と」
「そうだよ」
「君はね、俺に会う……というか、俺とすれ違う度に君は君のケータイで写真を撮ったりSNSをやったりする様子を見たりしてた、もちろん、あの日俺が君にあの薫りつきのメモを渡す以前も以降も同じで……」
「ゴメン、思わせぶりなつもりはなかったの」
違う、あえて見せびらかしていたのかもしれない。
「うん、違うんだ、そうじゃない。俺は、そうだな、君から反応は欲しかったけれど、強要する気は全くなかったのさ、問題はそこじゃなくて」
君の眼差しは強く真っ直ぐで熱く感じていた。
「君は今日、ケータイから連絡はくれなかった」
そう……ラベンダー、固定電話、分かっているの、全てはもうすでに始まっていて、もうとうに終わってしまっている。たった一つ、それを開く鍵が必要なだけだった。
「音のする場所へと還ろうか」
ユニットバスのシャワー室。そこは。
「天井から音が鳴っているね」
「うん」
「そこにお姉さんはいるんだね」
「そう」
円形の浴槽のあるあの旧い浴室はもうとうに使わなくなっている。あの日を境に、この家には不釣り合いな簡素な浴室ですべては事足りていた、この家の住人は多くを欲さなくなってしまった。
天井の蓋を鳴らしつづける振動が君の指先へと伝わっていた、君は君が眺めていた私のケータイを掴んで、そっと私へと渡してくれた。
赤――――。
さーやは私だった、心の檻にさーやを掴んでは離さなかった、私は蛹だったよ。円形の浴槽に沈んだ君の口からは、逆流した赤があり得ないほどに溢れだしていて、君の美しいか細い裸体を浸すその領域を染めてたゆたう。
固定電話の受話器を収め振動は止んだ、まるで事切れた心臓の今際、びりびりびりと掌がざわついてしばらくはこのままだろう。ラベンダー。
「ねえ」
君に眼差す、強く真っ直ぐ熱く。
「こんなにオシャレな渡し方ったらないよ、友達全員に一生の自慢なんだからね」
やっと言えた、こういうシンプルな気持ちを、吐き出すべきだったんだよ。
ノブの動き、ますます盛り上がる鮮明なこの夜が差し込んだ。
「ねえ?」
君は眼差す。私は檻にいた、この蛹の檻の中で、踏み出したその勢いのままに君の腕へと巻きついた。