追跡
桃貫「なるほど。では、殺人犯はこの廃墟内にいる可能性が高い、というわけですな」
私たちが説明を終えると、桃貫元警部は眉間に深い皺を寄せて眉を吊り上げた。
樺川「ええ、まず間違いないでしょう。死体の周辺にはこれといって不審な仕掛けはありませんでしたし、至近距離から銃撃されたと考えるのが自然だと思いますね」
桃貫「なら、そやつをとっちめれば、この下らんゲームは終わりということですな」
西野園「いえ、私たちもそれは一応考えてみたのですが、相手は銃で武装していますし、単独犯とも思えません。手を出すのはあまりに危険だと……」
桃貫「いいや、こう見えても私、現役時代は数々の凶悪犯をこの手で逮捕してきたのです。拳銃など何するものぞ。もし彼奴めに遭遇したら、必ずやその場で捕えてご覧に入れましょう」
と、桃貫元警部は鼻息を荒くするが……。現役の刑事だったらさぞかし頼もしく思えたのだろうけれど、今の彼にそこまで大きな期待をかけるのは酷かもしれない。年寄りの冷や水にならなければいいのだけれど。
私たち三人は足早に廃墟内の探索を続け、診察室がある棟、そして別棟の一階のフロアにある部屋は全て確認を終えた。私と樺川先生だけでは半分も回れなかったのに、元エリート刑事である桃貫警部が加わるだけでこうもテキパキと捜索が進むのかと、私も樺川先生も驚きを隠せなかった。
薬局の奥には先程見かけた死体が変わらず転がっており、死体を見た桃貫警部は、その傍に屈んで数秒間手を合わせた。これもまた、私と樺川先生には全く気が回らなかったところだった。
本棟、別棟含めて、裏口玄関や通用口のようなものは何箇所かあったが、それらは全てセメントで固められていて、人間の力では扉はびくともしない。本棟と別棟は一本の渡り廊下で繋がっていて、それ以外の通路はなさそうだ。新たな発見と呼べるようなものはそれだけで、現状の打開に繋がるようなものは何一つ見つけられなかった。
しかしそれでも、正義感溢れる桃貫元警部は気落ちする気配すら見せない。警察って一日中聞き込みしても何の成果も得られないことがザラにあるらしいし、この程度は日常茶飯事だったのだろう。
桃貫「さて、一階は一通り見て回ったことになりますが、奴らの言っていることが正しければ、ここにはもう一つ、樺川先生が来てから殺された人間の死体もあるはずですな」
樺川「ええ、そのはずです」
桃貫「この廃墟は見たところ四階建てで、地下階もあるようだ。部屋数も多いし、十五分で全体を見て回るのはどうも難しいですな……」
桃貫元警部は苦虫を噛み潰したような顔で腕時計を見る。私もスマートフォンの画面で時間を確認した。かなり手際よく探索したはずなのに、既に桃貫元警部が来てから十二分の時間が経過している。三人目の生贄を救うために残された時間はあと僅か三分。やはり無理なのか、と絶望的な空気が流れかけたが、桃貫元警部はまだ諦めていなかった。
桃貫「いや、何年も捜査を続けて手掛かりが得られなかった事件を、時効寸前になって解決したこともある。それに比べたら、これぐらい何ということはない。まだ諦めるのは早いですぞ、お二人さん。さあ、二階の探索を始めましょう」
と私たちを鼓舞しながら、桃貫元警部は意気軒高と二階へ続く階段目指して歩き始める。
樺川「元気だねぇ、あの人……」
樺川先生がやや疲れた様子で呟く。二人で探索した時よりも早いペースで歩き続けた私たちは若干疲れていたけれど、桃貫元警部に置いて行かれないよう、既に棒のようになった足に鞭打って階段を昇った。
階段は平坦な通路を歩く以上に足元に負担がかかる。一段上がるたびに爪先に鈍い痛みが走り、ほんの少し気を抜くとそこから転がり落ちてしまいそう。私は痛みを堪えながらどうにか階段を昇り切り、ようやく二階へと到達した。
各種の窓口があった一階と比べると、二階は廊下と扉と窓ガラスが見えるばかりの無機質なフロア構成になっている。部屋数はやはり多く、我々に残された三分間という僅かな時間では、このフロアの全ての部屋を見て回ることすら難しそうだ。総合病院でもないのに、何故こんなに広くする必要があるのだろうか? 私は心の内で無駄に広すぎるこの建物の設計者を呪った。
樺川先生は勿論のこと、さっきまで鼻息を荒くしていた桃貫元警部までもが、二階の部屋数の多さには閉口し途方した様子。しかし、正義感溢れる桃貫元警部は、
桃貫「いや、まだ時間はある! 最後まで諦めてはなりませんぞ、お二人共!」
と、定年を過ぎた老人とは思えない矍鑠とした足取りで長い廊下を歩き出す。
樺川「まあ……彼の言う通りだ、今はとにかく探索を続けるしかない。西野園君、ずいぶん辛そうだけど、ここで休むかい?」
樺川先生は苦笑を浮かべながら私を気遣ってくれたが、桃貫元警部のようなお年寄りがあれだけ頑張っているのに、まだ二十代の私がのんびり休憩するわけにはいかない。出会った場所が満員電車だったら、私は席を譲らなければならない立場なのだから。
西野園「いいえ、まだ歩けます……桃貫さんを追いましょう、樺川先生」
桃貫元警部は既に階段から一番近い部屋の探索を始めており、私たちもそれに続いた。
その部屋は、見たところ物置として使われていた部屋のようで、決して広くはない室内にスチール棚が林立していたが、棚の中身はやはり綺麗に抜き取られて空になっている。奥へと続く扉もなく、棚の陰になる場所が辛うじて死角となるぐらいで、さほど探索に時間のかかる部屋ではなかった。
三人で手分けして室内を隈なく見て回り、私たちはすぐにその部屋を出た。滞在時間は三十秒にも満たなかったのではないか。
そして、部屋から廊下に出た瞬間。
最初に気付いたのは桃貫元警部だった。
桃貫「やっ、あれは……だ、誰だ!」
と、桃貫元警部は部屋を出て左手の方向を指差した。驚きのあまり震え気味の桃貫元警部の声に、私と樺川先生も桃貫元警部が指差す先を見つめる。
「……!」
私たちの立つ廊下の数メートル先。そこには、四十代ぐらいと思しき一人の男性が立っていた。
身長は180センチはあるだろうか、坊主頭で痩せぎすの男。一人目の死体と同様グレーの無地の上下に身を包み、廊下にぽつねんと立ち尽くしている。桃貫元警部の声でこちらに気付いた男は、私たちの姿を見て大きく目を見開いたまま、その場でしばし硬直した。
咄嗟に動くことができなかったのは私たちも同じだった。必死で探していたとはいえ、正直なところ、まだ本気で見つかるとは思っていなかったのだ。また、私たちにはあの男が生贄なのか殺人犯なのか考える必要があり、それも判断が一瞬遅れた原因となった。
そのまま廊下で睨み合うこと数秒。
先に動いたのは男のほうだった。表情を大きく歪ませた男は、独楽のようにくるりと私たちに背を向け、脱兎の如く逃げ出したのである。
桃貫「ややっ、待て待てぇっ!」
走り去る男の背中を追い、弾かれたように駆けだす桃貫元警部。老いて尚この反射神経。これこそが、彼がエリート刑事として磨き上げてきた一つのスキルなのだろう――などと思う間もなく、
樺川「僕たちも追うぞ、西野園君!」
西野園「は、はいっ!」
私たちは男と桃貫元警部に続いて駆け出した。
しかし、その差は縮まるどころか広がってゆくばかりだった。二階のフロアを貫く長い廊下を、男は全速力で逃げてゆく。桃貫元警部も息を切らせて男を追うが、熱い正義感で体力差を埋めることはできず、男との距離は縮まるどころか広がるばかり。私は走りづらいハイヒールを脱ぎ裸足になって二人の後を追ったけれど、桃貫元警部との距離すら縮まらず。男の背中は遥か遠く、今や米粒のように小さく見える。
細長い長方形の形をしたこの建物は、その両側の短辺にあたる位置に階段がある。私たちが一階から昇ってきた階段の近くから走り出した男は、早くも廊下の突き当たり、つまりもう片方の階段の付近まで辿り着こうとしていた。階下や階上へ逃げられると見失ってしまう可能性が高くなるが、かといって男に追いつくことも足止めすることもできそうにない。気付けば桃貫元警部の脚色も鈍り始めており、最早男を捕えることは絶望的な状況だった。
廊下の突き当りに差し掛かった男は、上り階段と下り階段を見比べながら、どちらに進むか一瞬悩んでいたが、男は下り階段へ足をかける。
しかし、その次の瞬間。
遥か前方、階段の方向から『パン』と乾いた破裂音が聞こえた。
それが一体何の音なのか、私が気付くまでには、やはり数秒の時間を要した。男はその場で膝から崩れ落ち、そのままの勢いで下り階段に消えてゆく。男が階段を転がり落ちる鈍い音が、離れた位置にいる私にまではっきり聞き取れた。
前方で樺川先生が力なくへたり込み、桃貫元警部も一瞬足を止める。その二人の背中を見て、私も走るのをやめた。あの乾いた破裂音、即ち銃声が意味するところは――。
桃貫元警部だけが再び気力を奮い立たせ、男が転がり落ちた階段を駆け下りる。しかしその数秒後、やはり大音量の音楽が流れ、ゲームマスターの声が告げた。
『残念ながら三人目の犠牲者が出た。現在、四人目の探偵がこちらへ向かっている。諸君は建物内の探索を続けるもよし、エントランスで新たな探偵を出迎えるもよし、四人目の探偵がここに到着するまで、ひとまず自由に過ごしていてくれたまえ』