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最初のきっかけはいつだっただろう。
思えば遠い昔のような気がするけれど、月日に換算すればそれ程昔じゃない。
それでもそう感じるのは、毎夜繰り返される長い夜が原因だ。
あの日から、私は毎晩、夢の中で彼に殺される。
「……っはっ」
腹の中が熱い。痛い。刺された箇所が次々に熱くなって、その熱で頭がどうにかなりそうだ。荒い呼気を吐きながら、薄目を開ける。私の腹の上に跨る彼の姿は、ただそれだけで視界に入り込んでくる。
手にした包丁で一心不乱に私の身体に穴を開ける彼の表情は、今日も泣きそうに歪んでいた。
そんな顔をするくらいならやめればいいのに。
熱さと痛みを感じながら、ぼんやりと考える。いつも感覚はあるように感じるが、実際はさほどでもない。本来感じるべき痛みには程遠いものだ。
きっと、視覚的に刺されているものだから、脳が誤作動を起こしているのだろう。
これは夢だ。
幾度も同じような夜を繰り返せば、ついに夢の中でもそうと気づけるようになってしまった。これは夢だ。いつものように、彼に殺される夢。
どうしてこんな夢を見るようになったのか、それはいくら考えても分からない。
初めて夢を見た時は、それが誰なのかさえも分からなかった。
思えばその日は、日中に初めて彼を見かけた日だったような気がする。
そう、ただ見ただけだ。そしてすれ違った。
言葉一つ交わしていない、知り合い以下の赤の他人。
そんな彼とただすれ違ったその日から、こんな夢を見るようになった。
綺麗な人だと思った記憶がある。そして近寄り難い人だとも。
男にしては線の細い彼は、繊細に整った容貌をしていて、周囲の注目を集めていた。それなのに誰をも寄せつけないような硬質な雰囲気が、周囲を拒んでいる様が手に取るようにわかった。
夢は記憶の整理の過程で生まれるものだという。
でも、他人の彼に害されるほどの関わりなどなかった。
夢は無意識下の願望が反映されているという説がある。
ならば、私は彼に殺されたいのか。
まさか。夢だとわかっていても、毎度死にたくなんてない。
だとしたら、どうして毎晩こんな夢を見るのだろう。
昔昔の時代、夢に誰かが登場する時は、その誰かが自分を強く思うが故に、夢の中まで逢いに来たと考えられていたのだそうだ。
もしそうだとしたら、彼は私を、殺したいほど恨んでいるのだろうか。
ああ、そうかも。そうなのかも。
知らない間に恨みを買っていたのだとすれば、それが一番信憑性がある気がする。
その理屈が、遠い昔の考えだと言うところが少し微妙だけど。
ああ、痛いな。痛い。
脳が錯覚させる擬似的な痛みが、鈍く意識を揺さぶってくる。
くしゃりと歪んだ彼の表情を見ながら、何度目かわからない感想を思い浮かべる。
現実の彼はあまり表情が変わらないから、こんな彼の姿を見るといつも不思議な心地がする。
そうしている間に視界がぼやけて、次第に暗く霞んでいく。
ああ、終わってしまう。今日もまた殺される。
その前に、せめて声よ届けと緩慢に口を開ける。
「──……」
言葉はいつも形にならない。
声を出そうとしても、実際に出せたためしがない。
口を開けては閉めて、喉の奥に力を入れても、いつも漏れ出るのは呼気ばかりで。
これが叶えば何かが変わるような気がするのに。
そうして今日も声を出そうと奮闘する途中で、視界は闇に呑まれた。
「──み、なと」
自分の声で目が覚めた。
暗い部屋の中に吐き出された小さな呼びかけは、やけにしっかりとしていて、些か滑稽だ。
目が覚めてちゃ世話はない。
彼に届かなければ意味が無いというのに。
一つため息をついて立ち上がり、カーテンを開ける。
分厚い布を掻き分けて覗く景色には、ちょうど顔を出してきた太陽が良く映える。
この夢を見るようになってから、すっかり早起きになってしまった。
ぐっしょりと汗で濡れて張り付いた前髪を持て余し、シャワーを浴びようと浴室へ向かう。
朝風呂に入るようになったのも、この夢を見るようになってから。
訳の分からない毎夜の悪夢は、私の生活を少しだけ変えた。
*
「おはよう、湊」
「……はよ」
大学の敷地内、木陰のベンチで本を読む彼の姿を見かけて、声をかける。
彼はちらりと私に視線を寄越すと、やる気なく挨拶を返してから、すぐ手元の本に目を落とす。その一連の流れを見てから、私は特に断りもいれずに、彼の隣に腰を下ろした。
「おい」
嫌そうな顔をする彼を無視して欠伸をひとつ。麗らかな天気に涼しい木陰。構内では授業中のため人の往来は少なく、完成されたかのように快適なこの場所は、どうにもこうにも眠気を誘う。
「……眠い?」
「ん」
怪訝そうに聞いてくる声に短い返答をひとつ。襲い来る睡魔に白旗を挙げて勝手に彼の肩を借りれば、少しだけ肩が揺れた。それでも何も言わずにそのままにしてくれるということは、許容してくれたのだろうか。突き飛ばされるかとも思っていたのに、案外優しいものだ。
彼、湊と他人以上の関係になったのは、初めてあの夢を見てからさほどしない頃だった。
きっかけという程のきっかけがあった訳じゃない。夢を見始めてから数日後、夜毎の殺戮にすっかり精神が参っていた。鬱屈したまま衝動的に授業をさぼり、外をぶらぶらと歩いていた時、夢で見たのと同じ顔を再び大学で見かけたのだ。
その時の湊は、今と同じように人気のない木陰のベンチでひっそりと本を読んでいた。
声をかけたのは私の方から。やけっぱちになって絡んでいくと迷惑そうな顔をされて、それでも案外すんなり受け入れてくれて今に至る。
国文学を専攻している私だが、あの時の湊の心情はまったく持って謎の一言に尽きる。どう控えめに言っても碌な出会い方じゃない。本当に、なんで私達は友人になっているのだろう。
湊の肩に頭を凭れさせながら、傾いだ前方の景色をぼんやりと見やる。
麗らかな日差しが照らす風景は現実味がない。眠気と相まってどこか夢見心地だ。いつもの夢とは違うのどかな視界に船を漕ぎつつ、ついつい口が軽くなる。
「湊はさ、私のこと恨んでるの?」
沈黙は数秒だった。
「……なんで」
「いや、別に何となく」
「別に、恨む理由がない」
そりゃそうか。
そうだよな、普通は。私達少し前に知り合ったばかりだもんな。あの時が初対面だもんな。
私が忘れていなければ。
ぼんやりと夢の内容を思う。どうしてあんな夢を見るのだろう。どうして相手が湊なのだろう。鈍い思考を回しながら、眠気に負けて放り出す。
別にいいか。いくら考えても答えなんてわからないんだ。
「恨んでるなら言ってね」
深く考えることなく、思ったことをそのまま吐き出す。
「殺したくなったら刺す前に言って。心の準備くらいしておきたい」
「……言ったら黙って刺されるのかお前。死にたがりかよ」
「あー……いや、死にたくはない。ごめん、刺したくなったら手加減してくれる?」
「普通に警察行け。逃げる努力くらいしろ」
「そうか。そうだな。そうする……」
駄目だ。本格的に眠い。
瞼が重い。考えることが億劫だ。
肩だと些か首が痛い。
「ごめん湊、ちょっとひざ貸して……」
半ば落ちかけながら舌足らずに頼み込めば、ため息が聞こえた。
「勝手にすれば」
やった、言質取った。
倒れ込むようにして湊の膝を占領すると、目を閉じる。
あの日から眠ることが嫌いになった。
それでも眠らないと翌日に障るから仕方なく寝て、夢のせいで早くに目が覚める。
睡眠は心を癒す時間にならない。
それでも、今は何故か気分は穏やかだ。
すぐ近くにいるのは夢の中で何度となく私を殺す湊自身なのに、まったく恐怖も嫌悪も感じない。
「……恨んでないし、死なせない」
小さく降ってきた彼の独白を聞きながら、私は眠りに身を投じた。
久しぶりに、とても穏やかな夢を見た。




