繭に入る理由
私が企業の臨時職員となって「繭」に入る仕事をしてから半年が経った。企業は私の地元からそう遠くないところに施設を建てており、私はそこに週4日で働きに出ている。
企業が実際に住まうことのできる仮想現実世界を作り上げたと声高々に宣伝したのは2年前で、その発表に世界は大いに沸きあがったものだ。
しかしよくよく調べてみると仮想現実世界は何もない空間であり、利用者が満足できる環境は現実世界で演算処理能力の高い装置を用意しなければ仮想世界を生成できないことが後々わかった。
もちろん企業は一部の権力者や富豪のために一部分ながら現実のような環境を生成したが仮想現実世界という商品を世に広め利益を得るにはまだまだ技術の進展を待たねばならなかった。
さて、ここで「繭」の解説をしたいのだが、その前にまず何故私が「繭」に入るに至ったのかを説明しなければならない。
現代社会の理念においては人はみな平等であり、そこに格差は存在しない。社会の中で上位階級に入りたければ努力、勉強、キャリアを重ねることが重要である。そして私は大学4年生までは愚かにもそれを信じて、光り輝く将来に邁進していた。
しかしながら受ける会社はことごとく面接で私を落としていた。面接でいくら印象を良くしても私の地元が貧民街であることに気づいた会社は固く門戸を閉ざしたのだ。
この時点で私はいくら努力をしてもスタート地点が恵まれていなければ競争することすらできず、むしろ想像以上にカネの多寡は世界に厳格な身分制度を作り上げている事を知った。
そうして私は就職できずに地元に戻り、日々細々と安いバイトで家計を支えていた。
企業が施設を建設したのはそのころだ。そして施設は職員を募集していた。
職務内容を簡潔に言えば一般市民が仮想現実世界を気軽に利用できるために仮想世界の環境創成をする人材を要求しているようだった。職員は「繭」に入り、電脳世界の住民となる。その際、仮想世界では1ランク上の身分とカネを与えられる。その代わり「繭」にいる間、脳の持つ演算処理能力と過去の記憶を使い、周囲の利用者が快適に暮らせる仮想世界を構築するというものだった。賃金は仮想世界で支払われ、「繭」から目覚めて手続きをしてはじめて引き落とせるらしい。
最初、この求人ビラを見た時、私は警戒した。貧民街の住民がいかに学がないとはいえ仮にも私は大学を卒業した身だ。世界初の技術で法整備もろくに定まっていない分野の機械に身を預け、あまつさえ脳を勝手に使われるというのだ。どんな事故が起こらないとも限らない。近所の経営破綻したタバコ屋の店主のイケダさんは首が回らず施設に入っていったが私は絶対に入るまいと誓っていた。君子危うきに近寄らず、だ。
しかし人生の転機は突然にやって来た。実家の父親が借金を残したまま蒸発したのだ。母はもうずっと前から病気で働けない状態だ。妹は高校の陸上の大会で全国大会出場が決まっていた。勉強だけが取り柄の私と違い、いくつかの大手の会社に実業団枠での就職の可能性があった。私が当時やっているバイトでは妹の学費を賄うことは到底できず、加えて父親が蒸発した状態で寝たきりの母と妹を家に置いて遠くに働きに行くということはできなかった。
そうなると私にとれる選択肢はひとつしかなかった。施設の求人募集通りに「繭」に入ることである。
だが私は最後の決心がつかなかった。これから就職できず大したカネを手に入れることもできないだろう私よりも妹が幸せになる可能性に投資するのが正しいことだとは分かっていた。
だが「繭」に体を預けるとだんだんと私が私でなくなってしまうのではないか?という恐怖心で最後の一歩を踏み出せなかった。
私は悩みに悩んでマユミに現状を打ち明けた。マユミは私と同じ貧民街から同じ大学に進学した幼馴染みであり心を許せる恋人である。
「妹のことを思うなら迷うべきじゃないのはわかってる。でもだれも気付かない内にじわじわと自分が自分でなくなるかも知れないのが怖いんだ・・・」
「わかったよ。それならキミと一緒に施設に行こう。それなら恐怖も二人でわけられるでしょう。大丈夫、きっとうまくいく。うまくいくよ」
その時の私はマユミのその言葉にどれだけ勇気をもらい、心が軽くなったことか。とても言葉では言い表せない。マユミには大きな借りができた。この借りはいつか返さないといけない。
そして私はマユミと一緒に施設に出向き、インフォメーションロボットから簡単な説明を受けて臨時職員契約を結んだ。
次の日、私達は職場に馴染むということで先輩を紹介された。なんと元タバコ屋のイケダさんだった。
「まぁ、業務自体は何てことないよ。ただ『繭』の中のキャップをかぶるんだ。それからリラックスする。そしたらいつの間にか眠っていて、気が付けば仮想世界だよ。あとは好きに生活したらいい」
「仮想世界は何もない空間って聞いたんですけど」
「ああ、それは最初だけだったらしい。ワシも仮想世界はどんなものかと思っていたんだが、仮想世界は『繭』の中に入った人の記憶を読み込んで環境を作り出していくんだ。ワシが仮想世界にダイブした時にはもうすでに現実と変わらないくらいの町が出来上がっていたよ。だから何も心配いらないよ。ワシらはただ仮想世界の町でただ生活することが働くことになるんだ。簡単だろ?」
正直こんな話を聞いて私達には不安しかなかったし、それで平気な顔をしているイケダさんの神経を疑ったのだが今更「繭」入りを拒みようもないのでイケダさん先導のもと、私は眼鏡をはずして「繭」の中に入り眠りについた。
初仕事を終えて私とマユミが眠りから目覚めたのは9時間後だった。本当に9時間経過したのかと驚いたたが、携帯端末を確認すると確かに9時間経っていた。「繭」の中での出来事は断片的にしか思い出せず、それすらあやふやだったが全体を通して気持ちよかったというのは覚えている。ひとつだけ印象強く覚えていたのは、仮想世界の中で私はマユミと一緒に大好きな、しかしもう絶滅してしまったペンギンと思う存分触れ合ったということだった。
その日の業務は終了したので施設入り口のATMで初給金を引き落とした。眠りの中で自分の身に覚えのない労働の対価が本当に存在するのか不安だったが確かに給与は振り込まれていた。
そしてATMから取り出した給料は私が今まで手にした現金の中でもっともぶ厚かった。
それは妹の月々の学費に加えて母の薬代を支払ってなお我が家の食事に天然の食材を使うことができる額だった。現実味のない額に私は少なからず驚いたが、その晩に母と妹がおいしそうに夕食を食べるのを見て心が弛緩したことを確かに憶えている。
それが半年前のことであった。
最近私は家に帰るのが遅い。
ある日妹が漏らしたその不満で「繭」の中で過ごす時間が伸びているのを知った。最近は私が目覚めてもマユミが目覚めるのに少し時間がかかるのでマユミの「繭」の隣りでぼうっと待っていることが増えていたのは自覚していたが私自身の目覚めも業務時間に照らし合わせると確かに伸びていた。
目覚めが遅くなるといえばイケダさんも遅かった。
もうしばらく前から私達が目覚めても目覚めないのだ。
理由はなんとなくわかる。単純に仮想世界が居心地いいのだ。向こうで何をしたかは余り覚えていないのだが、目覚めた後は何かしらの充実感が体を満たしていて、仮想世界で幸せな体験をしたという事実だけを体が記憶しているのだ。だからイケダさんやマユミ、「繭」に懐疑的な私でさえも目覚めが遅くなっている。
施設入り口のインフォメーションロボットに目覚めの遅くなることへの説明を求めると『勤務時間分の給与は口座に振り込んであります。当社は企業理念により業務時間外で仮想世界を満喫なさる方を強制的に覚醒させることはございません』と平坦な声が返ってきただけだった。
この目覚めた後の充足感は日常生活に支障をきたした。
日常を生きていて、達成感とか満足感が薄くなったのだ。
休日妹と動物園に行っても、薬が効いて体調がいい日の母と家族で外食しても、マユミとベッドを共にしても全てがあと少し物足りないのだ。それについてはマユミも同じようだったが。
はたして私とマユミの覚醒までの時間は伸び続けている。働きに出てから帰るのが2日後になるのも珍しくなくなっていった。イケダさんが最後に目を覚ましたのももう覚えていない。最近はもう何をしても楽しさを感じることができなくなっていた。
そして遂に、マユミが目覚めなくなった。肩をゆすっても、頬を叩いても目覚めない。仮想世界で覚醒の手続きをしない限り、外部からはどうしようもない。
ここにきて私の中に恐怖心が蘇った。恋人が「繭」に捕らわれたという事実と、次に眠ったら目覚められないという予見が私を慄かせた。
私は施設入り口脇のATMに目もくれず、叫び声を上げながら家に逃げ帰った。
それから私は帰ってすぐ、部屋の電気を消し、布団にくるまって震えていた。マユミに会いたい。なぜ私だけが目覚めたのか。家で普通に寝て、次目覚めることはできるのか。睡眠が怖い。
身体の中を後悔と慚愧が渦巻いた。
妹や母が心配して私の部屋をノックしても私はドアを開けなかった。かろうじて必要最低限の水分補給と食事はしたがそれは意識を保つためのギリギリの量だった。
そんな生活であった私は当然のことながら日々、憔悴していった。
どのくらい時間が経ったのか。今が昼か夜かわからない部屋の中で布団に覆われ外との交流を遮断した中で、携帯端末から声が聞こえた時、すっかり闇の住人となった私はおおいに狼狽した。しかもそれがマユミの声だったのだからなおさらだ。
「ねえ、なんで最近こっちに来ないの。」
「な、なんで私の端末が勝手に・・・」
「仮想世界は電子機器の演算処理を中継して構築されているからね。特定の端末を選択して声をつなげることはできないことじゃない。この端末、企業の子会社のキャリアでしょ?ムリを言ってつなげてもらったよ」
「ほ、本当にマユミなの?」
「うん。仕事に来てない同期職員の事情を聞いて来いってイケダさんに言われてね。どうしちゃったの?」
「・・・『繭』の外でいくら待ってもマユミが起きないから、それで怖くなって・・・」
「ああ、働く前に言ってた不安がまた膨らんじゃったんだ」
「うん・・・」
「今はネガティブな気持ちが強いかもだけど、思い出してみて。向こうでのこと。たしかに断片的な事しか思い出せないかもしれないけど、それでも確かに覚えてることがあるでしょ?それは幸せなものだったでしょう?」
「それは、確かにそうだけど・・・」
「確かにそっちから見れば『繭』に捕らわれていると思われてもしょうがないかもしれない。でも覚醒の意志主張は向こうでいつでもできるじゃない。それに妹さんの学費は大丈夫なの?」
「・・・卒業までにはあと少し必要・・・」
「どうしても仮想世界が嫌だっていうなら働くのは卒業までの学費が貯まるまでにしたらどう?・・・一人でいるこっちの世界はどうにも寂しくてね。そのときが来ても仕事を終わると考えているなら一緒に仕事をやめるよ。大丈夫、きっとうまくいく。うまくいくよ」
その言葉を聞いて私は心が晴れるのを感じた。マユミの心はあちら側に捕らわれたわけではなかったのだ。私は今もマユミに会いたいと思っているし、マユミも私と会いたいと思ってくれている。
いつもそうだ。マユミの言葉は私に勇気をくれる。
そういえばいつかマユミにもらった勇気の借りを返していなかった。今が借りを返す時だ。向こうでマユミと一緒にペンギンを愛でるのだ。たくさん笑って、遊んで、そしてキスをしよう。
そうと決まれば早くマユミに会いに行かなければ。
私はふらつきながら家から出て、何十日かぶりの陽光に目を細めつつ施設に向かって歩いて行った。
企業の施設の入り口脇に佇むインフォメーションロボットは「繭」から送られてくる情報をまとめて、本社に報告していた。
<報告書>
〇月✕日に臨時職員として契約した男女2名の深層意識が本日付けで「繭」へ潜没したことを確認。
脳への仮想世界観の浸透具合から、外的要因がない限り覚醒することはないと思われる。
よって当該地区における仮想現実世界の構築用頭脳収集のノルマは達成されたことを報告する。