予兆 壬生 1
牧野さやかが、あの事件を起こした二週間後、壬生貴之は一人、以前ロケで訪れた廃病院に向けて車を走らせていた。
本来ならば、あの事件を知った翌日にでも行きたかったのだが、ADという仕事柄、時間を作ることができなかった。やっととれた一日半の休みを、貴之は、さやかの事件の真相解明に使うことにした。
午前中の仕事が終わると、貴之はすぐに愛車のパジェロミニに乗り込み廃病院を目指した。
貴之は、自分に親しく話かけてきていた牧野さやかが、あんな死に方をしたことが信じられなかった。
あの日、ロケからの帰りの車中で、さやかがドッペルゲンガーのことを尋ねてきた。廃病院の中で何かを見て失神したさやかを気遣って、さやかが怖がらないようにと、あらゆる可能性を考えて科学的な説明をした。
同じロケバスに乗っていった杏里が、何かに映った自分を見たのではないかと結論めいたことを言ったので、自分もそう思うと言った。
しかし、さやかが死んだ今となっては、ドッペルゲンガーを見た者には死が訪れるという迷信めいた言い伝えが当たったことになる。
牧野さやかは、あの廃病院で何を見たのか、彼女の身に何が起こったのか。貴之はそれを確かめるべく廃病院に向かったのだった。
壬生貴之は現在三十二歳、まだ独身で恋人もいない。
貴之は過去に一度だけ恋人がいたことがある。それは、貴之が十七歳の時、高校生になって初めてつき合った女の子であった。
同じ高校のクラブ活動、民俗学研究会の後輩であり肩下まで伸ばした黒髪が似合う誰もが認める美少女だった。その美少女が自分のことを好きだと告白してきた時、貴之は最初そのことが信じられなかった。
当時の民俗学研究会の仲間は、いたずら好きな連中が集まっていて、たわいもない悪ふざけを繰り返していた。そしてその美少女の西原和美も、そのようなことが好きな少女だった。
だから、和美が愛を告白してきたとき、すぐにはそれが信じられなかった。彼女と誰かが組んで仕掛けたいたずらかと思ったのだ。
まじめに返事を返したとき、隠れて見ている誰かが「はーい、ドッキリでしたぁ」と言いながら出てくるのではないか。そんな疑念に捕らわれて、しばらく黙り込んでしまった。気まずい空気が流れ、和美の目に泪が潤んできたことに気付いて、ようやく貴之はそれが彼女の本心なのだということに気がついた。慌てて「僕も」と言っていた。
それから和美とつきあい始めた。昼の弁当を和美が作ってきて、それを学校の中庭で一緒に食べたり、休みの日には、少し遠出をして国立の博物館などに行ったりした。貴之としてはもっとロマンチックな場所でデートをしたかったのだが、和美は同世代の娘が喜ぶような場所は好まなかった。和美が行きたいという場所は、博物館や美術館が多かった。おかげで、貴之も色々な知識を得ることになった。
貴之はどちらかというと奥手なほう、今風に言えば草食系だったので、和美と初めてのキスを交わしたのは、つきあい始めてから三ヶ月後だった。だが、彼女との幸せな日々は半年しか続かなかった。
別れは突然にやってきた。
その日、正式な部活動ではない民俗学研究会が、放課後の活動場所として間借りしている社会科資料室に和美がやってこなかった。
昨日別れるときに、明日研究会の活動が終わった後に、一緒に書店に行く約束をした。和美がどんな参考書がいいのか選んでほしいと頼ってきたからだ。
参考書を一緒に買いに行きたいと言い出したのは和美だ。でも、その和美が来ていない。 和美とつき合う中で、貴之は和美が必ず約束を守る娘だということを分かっていた。そんな和美が来ないということは、和美の身に何かあったのではないかと心配になった。
もっとも、その時、社会科資料室には二、三年生のメンバーしか来ていなかったので、一年生は学年で何かあっているのかもしれないと思ったりもした。
しかし、貴之の心配は、最悪な形で現実となった。貴之は、その時のことを、今でも鮮明に覚えている。
コンコンとドアをノックする音がした。こちらの返事も待たずにドアが開けられた。
民俗学研究会のメンバーではない女の子がそこに立っていた。
「ん? きみ入部希望者? 」
部長の真田が訊いた。
「こ、こちらに、み、壬生貴之先輩って、い、いらっしゃいま…」
後の言葉は聞き取れなかった。彼女はどうやら泣いているようだった。顔を見ると眼は真っ赤に充血し、泪に溢れていた。
「壬生は僕だけど…」
貴之は、その女の子の前に行った。彼女が胸元に付けているバッジの色と数字で、その子が和美と同じ一年B組の生徒であることが分かった。
「か、和美が…和美が…」
その女の子は、その言葉を繰り返して後の言葉を続けないので埒があかなかった。
「和美がどうしたんだい? 」
貴之は言いしれぬ不安感に襲われ、女の子の肩に手をかけ、揺さぶった。
「し、死に…ま…した…」
嗚咽を繰り返しながら、女の子は衝撃の言葉を絞り出した。
「し、死んだって…、じょ、冗談言うなよ。僕をからかいに来たのかい」
貴之は、動揺しながらもそう言った。しかし、その女の子が演技をしているわけではないことは、その子の様子から分かっていた。
全身の力が抜けていく感覚を、貴之は、その時初めて味わった。
和美の死因は、感電によるショックで心室細動を起こしたことだった。朝シャンをしてて、濡れた手でドライヤーのコンセントを差し込んだときに感電してしまったらしかった。
家人が見つけたときには、ほとんど手遅れの状態だったらしい。
貴之は、人間がこんなに、いとも簡単に死んでしまうということを初めて知った。昨日までは、明るく笑っていた和美が、棺の中で静かに横たわっていた。
葬儀が終わり、霊柩車を見送ってしまってから、貴之は人目も憚らず慟哭した。
初めての恋人との死に別れが、もともと恋愛に奥手だった貴之を、恋愛をすることから遠ざけた。
大学時代や、テレビ局に就職してからも、それは続いた。ルックスもよく、頭もきれる貴之に、言い寄ってくる女性は沢山いたが、貴之は全て断っていた。貴之の心の中で、和美は生き続けていた。和美を裏切って、他の誰かを愛することなど考えられなかった。
そんな貴之が、初めて牧野さやかを見たとき、貴之は衝撃を受けた。
初めて会った時、牧野さやかとは、テレビ局の廊下ですれ違った。さやかは、ジューシーラブ×2の他のメンバーと共に、挨拶回りにテレビ局を訪れているらしかった。マネージャーとおぼしき人物に引き連れられて、ぞろぞろと局内の廊下を歩いている女の子の中に、貴之は和美そっくりの娘を見つけた。
一瞬、「和美! 」と声をかけそうになったほど、瓜二つの娘だった。顔が似ているのは勿論のこと、肩下まで伸びた黒髪や、背格好まで一緒だった。
二度目に会ったときは、あるバラエティ番組に、ジューシーラブ×2が出演したときだった。その番組は、東京のスイーツ専門店で売られているスイーツをランク付けする番組で、ジューシーラブ×2のメンバーがスイーツ専門店に赴き、実際に試食して感想を述べるというものだった。
大型二種の免許を有していた貴之は、ジューシーラブ×2が移動するためのロケバスの運転手を務めることになった。
ロケバスの中で、さやかが運転席のすぐ後ろの席に座った。
さやかが初対面の貴之に気兼ねすることもなく話しかけてきて、その会話の中で、貴之は和美に似た娘が、牧野さやかという名前であることを知った。
『輪廻転生』という言葉がある。死んだ者が生まれ変わって、再び現世に現れるというものだ。特に、東洋思想に顕著なものだが、世界中にこの思想はある。
貴之は、この輪廻転生という思想には懐疑的であったが、さやかの誕生日を知ってから、もしかすると起こりえるのかもしれないと思うようになった。
さやかの誕生日は、和美が死んだ日の翌日だったのだ。もしかすると、さやかは和美の生まれ変わりなのかもしれないと考えると、自分はさやかに対して何かしらの使命を持たされているのかもしれない、とまで思うようになった。
そのさやかが、またもや貴之の前からあっけなくいなくなってしまった。今度は、さやかの自死という形で。
貴之は、さやかの死を知ったとき、何であの時と後悔した。さやかがロケバスの中で質問してきたドッペルゲンガーのことについて、どうしてその時の状況をもっと詳しく訊かなかったのかと。
勿論、貴之はドッペルゲンガーにまつわる迷信を信じているわけではない。おそらく、さやかは、精神的に何かに追いつめられていたに違いない。ドッペルゲンガーを見たというさやかの話をもっとよく聞いて話をしていれば、さやかの悩みを知り、その悩みを解決してあげられたのではないか。それを自分は、さやかの思い違いだと断言した杏里という子に同調してしまった。さやかは、そのことで深く傷ついてしまったのかもしれない。
貴之は、自責の念に駆られた。
さやかが死んでしまった今となっては、さやかが自殺するまでの経緯を明らかにすることで、彼女の供養になるのではないかと思った。
何しろ一方では、さやかは自分の肉親を殺害した犯罪者なのだから。さやかが死んでしまったので、警察も、さやかが肉親の殺害に至った動機などは、検討もつきかねる有様だった。
被疑者死亡で送検された彼女を救えるのは、自分しかいないと貴之は思った。
さやかが、あの時から精神を病んでいたのなら、彼女に責任能力は問えなくなる。つまり犯罪者のレッテルをはがしてやることができる。
そんな思いもあって、貴之は何らかの手がかりを得るために、あの時のロケ地だった廃病院を訪れたのだった。