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啓示・終末へのカウントダウン  作者: 合沢 時
3/12

予兆 パオロ

 空はスカイブルーの絵の具をチューブから出してそのまま塗ったかのように蒼く澄み渡り、草原を渡ってくる5月の風が心地よさを醸し出していた。ただし、その心地よさを感受できるのは、のんびりとその空間の中に自分の身をおける身ならばだ。


 パオロ・チェルチの場合は違っていた。パオロは左手に大きなバッグを提げ、足下まで隠れるスータンと呼ばれる黒い司祭服を身にまとった姿で、額から汗をかきながら北イタリアの田舎道を走っていた。、


 齢六十にとどくその身体には、パオロが普段居る教会から目的地となる家までは走るには、あまりにも距離がありすぎた。いつもなら、その家に行く時には車を使うのだが、なぜか今日に限ってエンジンがかからなかった。


(これは、良くないことが起こる前兆か…)


 そう思い始めると、パオロは気が焦った。


(神が私に与えた試練かもしれない…)


 そろそろ体力的におとろえてきた身体にむち打って、息を切らしながら走り続けた。


 パオロは、悪魔払いを行うエクソシストである。

 パオロに、アリアンナの急変を告げる電話があったのは、明け方近くだった。アリアンナに取り付いている悪魔アスラフィルが表れるのは、いつも決まって夕刻近い頃だったので、明け方に姿を現したこと自体がいつもと違っていた。アスラフィルは、自分は朝の光は苦手なんだとパオロに言ったことがある。名前を尋ねられて、本当の名前を答えるはずのない悪魔がアスラフィルと自称したのと同様、朝の光が苦手だということも悪魔の戯言だとパオロは思っていたが、アリアンナの悪魔払いを手がけてから四年間、アスラフィルが現れるとしたら、決まって夕刻だった。


 パオロがこれまで悪魔払いをした中でも、アスラフィルはたちの悪い悪魔だった。十字架や聖水は恐れはするが、かといってアリアンナの身体から出ていこうとはしない。もっとも、アリアンナがアスラフィルに取り付かれたのは、まだアリアンナが十二歳の頃だったので、悪魔払いの儀式を長く行っては、先に若いアリアンナの身体がまいってしまいかねなかった。生まれつき病弱だったアリアンナに、長い時間悪魔払いの儀式を行うことは、実質不可能であった。

 もし、アスラフィルの本当の名前が分かりさえすれば、アスラフィルを神の御名に於いてアリアンナの身体から追い出すことができるはずなのだが、パオロの問いかけにも狡猾な悪魔は中々その尻尾を見せなかった。


 背後から雷鳴が聞こえた。

 パオロは立ち止まり振り返った。

 先ほどまで蒼く澄み渡っていた背後の空が、黒い雲で覆われつつあった。


「いかん、急がねば」


 パオロは再び走り出した。再び走り出して数分もしないうちに、バラバラバラと音がしたかと思うと、すぐにその音の正体はパオロの身体にも降り注いだ。細かな雹であった。


「悪魔の所業か…」


 パオロは、片方の手で雹のつぶてから頭を守りながら、尚も走り続けた。先ほどまで薄茶色だった舗装されていない田舎道が、みるみる白く覆われていく。雹で覆われた路面は滑りやすくなり、パオロは細心の注意を払いながら急ぎ足で歩を進めた。


 やっとの思いで目的の家に到着した時、また再び背後で雷鳴が鳴り轟いた。


「パオロです」


 パオロは、木製のドアをどんどんと叩きながら、来訪を告げた。ギイときしむ音とともにドアが開けられた。


「おお、パオロ神父様。お待ちしておりました」


 アリアンナの母親のベネデッタが抱きついてきた。ベネデッタの身体は小刻みに震えていた。パオロが中々来ないことに不安感が増したのであろう。夫と死別し、自分一人で育ててきた娘の異変は、悪魔がその姿を現すごとにベネデッタの精神を痛めつけてきたに違いなかった。


「安心しなさい」


 パオロはベネデッタの身体を一度ハグし、「私が来たからもう大丈夫だ」と言いながら、その背中をノックするようにポンポンと優しく叩いた。それからまだ震えているベネデッタの身体を引き離した。


「アリアンナは? 」


 パオロは短く問うた。アイアンナが悪魔に取り憑かれてからの四年間の歳月が、こんな短い発問だけで、その発問の意図するところをベネデッタに伝えることができた。


「午前7時ちょうどです。一度も」


 ベネデッタが答えた。アリアンナの今置かれている状況を詳しく説明すると、聞き耳を立てているかも知れない狡猾な悪魔アスラフィルは、パオロがこれから行おうとする悪魔払いの儀式への対策を立ててしまうかも知れない。

 いや実際に、過去アスラフィルはパオロが悪魔払いの儀式をしている最中に、アリアンナの心の奥深くに身を隠し、悪魔払いの儀式が終わった後に表にあらわれて、パオロを嘲り笑ったことがある。


 ベネデッタの短い答えには、アスラフィルが午前7時にアリアンナを支配し、それからずっとアリアンナの身体のみならず精神までも、その支配下に置き続けているということを意味していた。


(あの悪魔め、何を企んでいるんだ? )


 パオロは、いつもと違うアスラフィルの現れ方に戸惑いを感じながら、首からかけたロザリオを握りしめ、アリアンナの部屋のドアを開けた。


「悪魔の所業なんかじゃないぜ」


 ベッドの上に脚を投げ出したような格好で座っているアリアンナ、いや正確に言うとアリアンナの身体に取り付いているアスラフィルが、いつもは可愛いアリアンナの可憐な顔を醜く歪めながら嘲笑を浮かべた。今朝はすぐに悪魔に支配されたので髪をとくこともできなかったのだろう、アリアンナの亜麻色の長い髪はボサボサだった。


「いくら優秀な俺でもよう、天候を操ることなんかできるものか。神父さんよ、あんた俺を買いかぶりすぎだって」


 そう言ってアスラフィルはケタケタケタと笑い声をあげた。その笑い声は、アリアンナの普段の声から2オクターブも低いかすれた笑い声だった。


「なんの事だ? 」


 パオロはアスラフィルのいった意味が分からず問うた。


「あんたさっき、自分で言ったじゃんかよ。悪魔の所業かって」


 パオロは思い出した。それは、先程、自分自身が道を走りながら呟いた言葉であった。

 そんな呟きまでアスラフィルは聞き逃さなかったというのだ。パオロは、自分がこの四年間の長きにわたって、アスラフィルという悪魔を過小評価していたことに気がついた。


(私は、間違っていた。この悪魔がこんなに力をもっていたことに気がつかなかったなんて…)


 そんなパオロの心を見透かしたように、再びアスラフィルがケタケタケタと笑い声をあげた。


「そこら辺の教会の神父ふぜいが、それが例えエクソシストであろうが、この俺様にかなうわけないんだよ」


 そう言って、再びケタケタケタと笑い声をあげた。

 パオロはここで気後れしてはいけないと思い、もってきたバッグから黒表紙のバイブルを取り出し左手で胸に押し当てるようにして持つと、右手で聖水の入った瓶を取り出した。

 それまでケタケタケタと笑い声を上げ続けていたアスラフィルが、いやアスラフィルに取り付かれているアリアンナがおもむろにパオロを睨み付けた。


「また、いつもと同じパターンかい。四年間も俺と付き合ってきたんだ。いい加減に、そのお祓いグッズが役に立たないくらい気がつきなさいよ」


 枯れた声であった。


「悪魔よ、汝に命ずる。おまえの本当の名前を告げよ。大いなる神の庇護する、か弱き信者アリアンナの身体に取り憑いたおまえの目的を告げよ」


 そう言いながら、パオロは聖水をアリアンナに向かってかけた。


「わー、止めろ、止めろ」


 アスラフィルがアリアンナの両手を使って、その身に聖水が降りかかるのを嫌がっている素振りをみせる。

 アスラフィルが弱っていると見て、ここぞとばかり更に聖水を振りまくパオロに向かって、アスラフィルは言い放った。


「俺は、濡れるのが嫌いなんだ。というより、この可愛いお嬢ちゃんが風邪をひくかもしれないだろ。そんなことになってみろ、お嬢ちゃんを病気にしたのはあんたのせいだぞ」

「聖水で身体が濡れたからといって、風邪をひくようなことはない。聖なる水は正しき者を庇護する水だ」

「かぁー、いつまで経ってもあんたたちは非科学的なんだな。濡れたら風邪をひくかもしれない。これは人間の常識だろ。ましてや、生まれつき病弱だったこのお嬢ちゃんの身体だ、神父さんよ、もっと気を遣いなよ」


 パオロが聖水を振りまくのを止めると、アスラフィルがベッドから投げ出していたアリアンナの細く長い脚を組んだ。アリアンナが着ている長めのTシャツの裾がめくり上がり、太腿の付け根の部分が見えた。アリアンナはピンク色のショーツを穿いていたが、それも丸見えだった。

 パオロはその部分から視線をそらせた。


「神父さんよ、あんた今、このお嬢ちゃんの股間を見ていただろう? 」


 アスラフィルがにやりと笑う。


「馬鹿な、おまえが脚を組ませたから偶然見えただけだ。聖なるつとめにつく者にとって、淫靡な誘いなど無駄なことだ」


 パオロは、ぎゅうとロザリオを握りしめた。


「はたしてそうかな」


 またしても意味不明の嘲笑を浮かべた。


「まあ、いいや。あんたがお嬢ちゃんの股間を見ていようがいまいがどっちでもいい。ただ、俺がこのお嬢ちゃんに取り憑いたわけを今から話してやる。いいか、今日は特別大サービスなんだ。なんで話す気になったのかって、それは今日、俺はすこぶる機嫌がいいからだよ」


 アスラフィルは、パオロが訊いていないことまで喋った。アスラフィルが機嫌が良いと言ったことは、もしかするとあながち嘘ではないかもしれないとパオロは思った。なぜなら、今日のアスラフィルは、いつもと違って饒舌だからであった、


「神父さんよ、あんたも、このお嬢ちゃんの腰も胸も、四年前に比べたら随分肉付きが良くなったと思うだろう? 」


 アスラフィルが、アリアンナの身体をのけぞるように動かす。胸を突き出すようなポーズになるので、アリアンナのほどよく成長した胸が強調された。


「悪魔よ。これ以上アリアンナを侮蔑する行為をとることは許さんぞ」


 パオロはロザリオをアスラフィルの前にかざした。


「かぁー、あんたはせっかちでいけねえ。いいか、話には順序っていうものがある。黙って聞かないと、いくら機嫌が良い俺様でももう話さないぞ」


 アスラフィルがアリアンナの眼を使って睨んできた。その表情に、怒りに似たものが読み取れた。


「分かった。おまえの話を聞こう。ただし、もうこれ以上アリアンナを辱めるようなことはしないでくれ」

「ふふん、まあいいだろう」


 にやりと笑う。


「俺がこのお嬢ちゃんに取り憑いたわけは、このお嬢ちゃんに俺の子種を宿させるためだった」

「な、なに! アリアンナに悪魔の子を産ませるつもりなのか」


 パオロは思わず声を荒げた。


「まあ、まてよ。あんたが驚くのも無理はない。しかしだ。俺の話にいちいち驚いていたら、これから俺様が話すことを最後まで聞いてられないぜ」


 パオロはロザリオをぎゅっと握りしめ、自分の心を落ち着かせようと努力した。

 パオロが落ち着くのをアスラフィルは待っているのか、しばらく部屋の中に静寂があった。

 パオロはその静寂な空間に、なぜか息苦しさを感じた。再びロザリオを強く握った。


「いいか、よく聴けよ。俺は子種を宿らせるためだったと言ったんだ。過去形だろ」

「まさか、もう…」


 パオロは狼狽した。


「ケケッ、安心しな。お嬢ちゃんは妊娠してないよ。俺の計画では、このお嬢ちゃんが俺の子種を宿すのは、まだ先のことだった。人間の子を産むのなら今でも十分可能だろうが、俺を産むためには、このお嬢ちゃんの身体はまだ未熟すぎるからな」

「俺を産む? どういう意味だ」

「いいか、教えてやろう。俺たち悪魔と呼ばれているものが実体化するためには、人間の女の卵子に俺の遺伝子を植え込む必要がある。俺たちは、生き残る手段として、あらゆる生命体と融合して弱さを補っていくキメラという生命体になってしまったことで、輪廻の枠から強制的に排除された生き物だからな。実体化できたキメラの中には、人間にその存在を知られているものもいるから、あんたも知っているだろう。ドラゴンもそうだ。ところで輪廻という言葉は知ってるか? 東洋にある思想で、何度もこの世に生まれ変わるというものだ。もっとも遺伝子を植え込むと言っても、人間のオスがやるような、獣のようなセックスは必要ない。もっともキメラの俺たちには、生殖機能がないからな。そんな、俺たちが、どうやってメスを孕ませるか知ってるか? なあに簡単だ。女の卵子の遺伝子情報を書き換えてやるだけだ。どうだ、セックスが必要ないなんてスマートな方法だろ」

「馬鹿な。性への冒涜だ」


 パオロは吐き捨てるように呟いた。


「そうかな。あんたが信じている者も、そのような方法で生まれてきたんじゃなかったのかい? 」


 パオロは一瞬驚き、それから怒りで顔を赤らめた。


「黙れ、黙れ! そのような暴言許さんぞ! 」

「興奮しなさんなって。俺の話の続きを聴きなよ」


 パオロは、自分の呼吸が荒くなっているのに気付いていた。

 そんなパオロが落ち着くのを待っているかのように、アスラフィルが話すのをしばらく止めた。

 再び静寂が部屋を支配した。パオロは、また息苦しさを感じ始めていた。


「俺様がアリアンナに取り憑いたのは、この娘が俺の子種を宿らせるのに最高な素材だったからだ。遺伝子を書き換えるといっても、全てを書き換えることは不可能だ。だから、書き換えが極力少なくてすむ、そんな素材が必要だった。でも、そんな素材はめったにない。このことは、俺たち同族にとっては同じ条件だ。だから、早いうちからこのアリアンナに取り憑いて、他の者たちのこの娘への干渉を阻止してきたんだ」


 パオロはアスラフィルの話を聞きながら、息苦しさが少しずつ強くなってきているのを感じた。


「しかしだ。もう俺様が実体化する必要は無くなったんだ。この意味、あんたには理解不可能だろうな。もう少し、説明してやろう。特別大サービスだ。近いうちに、俺たち、悪魔と呼ばれている精神世界の生き物も救われるんだ」

「救われる? どういう事だ? 」

「言い方が間違っていた。精神世界の生き物も救われるんじゃなくて、精神世界の生き物が救われるんだ。輪廻の途中で他の生命体との複合体のキメラになってしまったことで、悪魔と呼ばれ、輪廻の輪っかから強制的にはじき飛ばされた俺たちも一緒にな」

「なんのことだ。おまえが言っている意味が私には理解できない」

「よし、これが最後のサービスだ。もうすぐあんたともお別れだからな。このヒントで分からなかったら、もう駄目だ。あんたはミロクっていう言葉を知っているかい? 」


 アスラフィルがニヤニヤ笑いながら言った。

 パオロは、『ミロク』という言葉を自分の記憶の中から思い起こそうとした。しかし、東洋の思想的な言葉だったということは思い出すのだが、それ以上のことは思い浮かばなかった。


「何のことだ、ミロクとは? 」


 パオロは呟くように問うた。ますます息苦しさが強くなってきていた。


「ダメダメダメ、いくら俺様が機嫌が良くてもそれ以上のことは教えられない。神父さんよ、あんたが自分で調べるんだな。もっとも調べたことで俺様が話した意味が分かったとしても、あんたがそれを実行する事なんて出来ないし、他の奴らにそれを勧める事なんて出来っこないがな。あんたがカトリックの神父である限りはな」


 ケタケタケタとアスラフィルが笑った。


「ただ、俺様の心残りはこのアリアンナのことだ。俺様が取り憑いたばかりに、この四年間、他の娘ができたような楽しい時間をこの娘から奪ってしまった」

「あ、悪魔が…ざ、懺悔するというのか」


 パオロを襲う息苦しさは、吐き気まで伴い始めていた。


「そうだな。アリアンナは、本来ならば俺様の生みの親になるはずだった娘だ。悪魔にも少しは憐憫の情があるんだぜ」


 パオロは、なぜかアスラフィルの話す声が、自分の頭の中で聞こえているような気がした。それに伴い、自分の身体が獣じみた体臭を放っていることに気がついた。


「せめてもの慰めに、この娘をこっちの世界に招いてやろうと思ってな」

「こ、こっちの世界とは? 」


(精神世界だよ。ま、分かりやすく言うと、この娘をそっちの世界で殺してあげようと思ったんだ。しかし、俺様は実体ではないから、物理的にこの娘を殺すことは出来ない。かと言って、この娘の母親に取り憑いてみても母親の娘を思う心が強すぎてうまく操れない。だから、あんたの力を借りようと思ってな)


 今や完全に、アスラフィルの言葉はパオロの頭の中で響いていた。


(わ、私を操ろうというのか… )

(ご名答、ケタケタケタ)


 自分の意思と関係なくパオロの脚は、アリアンナに向かって一歩を踏み出した。両腕がゆっくりと前方に伸び、両手がバスケットボールを持つような形になる。右手と左手の間隔は、ベッドの上で放心したように座り込んでいるアリアンナの細い首の大きさとほぼ一緒だった。

 パオロは、アスラフィルが自分に何をさせようとしているのかに気がついた。


(神父である私に、人を殺させようとするのか)

(そうだ)


 パオロの心の中での抗いが、身体が完全にアスラフィルの支配下に置かれることを拒んでいた。そのせいか、一歩を踏み出すごとにパオロの身体が奇妙に揺れた。そのギクシャクとした動きは、まるでパオロという操り人形を、不器用な演者が操っているように見えた。


(あんた、自分の本心を隠すのをやめなよ。この娘が好きなんだろ? 恋してるんだろ?)


 パオロはアスラフィルの問いかけにぎくりとなった。

 齢六十に届く年齢であり、尚かつ、神父という厳粛な立場に身を置く者として、自分の庇護する対象としてのアリアンナを女として見ることは以ての外であった。


 しかし、最初は悪魔に取り憑かれた哀れな少女として守ってきたアリアンナが、美しく成長していくうちに、自分の心の中に別の感情も生まれてきていたのも事実だった。パオロは、自分のその感情に気付く度に、そんな感情を自分がもつはずはないと否定してきた。 いくら自分がイタリアンだとしても、神父である以上それはないと。だからこそ、あからさまにアスラフィルに指摘されると動揺を隠せなかった。

 パオロの身体の動きが、先程より少しスムーズになった。パオロはそれに気付いた。


(しまった! )


 アスラフィルはパオロの心に動揺を与え、その隙にパオロへの支配を強めたに違いなかった。

 アリアンナとの距離が縮まっていく。前に伸ばされた自分の手が、アリアンナの細い首を掴むのも時間の問題だった。


 パオロは、解決策を必死に考えた。何かこの状況を良い方向に導くものは無いかと、室内を目で追った。しかし、事態の解決に役立ちそうなものは何もなかった。


 せめて、この異変に気付いて、部屋の中に母親のベネデッタが入ってきてくれたらと願った.しかし、エクソシストの儀式の最中、いつもベネデッタは部屋から少し離れたリビングで、じっと儀式が終わるのを待っているのでそれも無理であった。


 後二、三歩でアリアンナの首に手がかかるという時、パオロはその解決策を思いついた。

もはや、躊躇などしている場合ではなかった。操られた自分の右足が一歩を踏み出そうとして床から離れた瞬間、もてる意識を総動員して左足を宙に上げた。パオロの身体は、バランスを失って後ろ向きに倒れていった。

 両腕は前方に伸ばされたままなので、受け身をとることも出来ないパオロの身体は、ドーンという音を伴い、床に激しく叩きつけられた。


 全身が痺れていた。仰向けの状態のまま、げふっとパオロは咳き込んだ。口の中に鉄を舐めたような血の味が広がった。もしかすると倒れた時に肋骨が折れ、それが内臓を傷つけているのかもしれなかった。


「神父様、どうしたのですか! 」


 大きな音がしたので、異変を感じたベネデッタが部屋に入ってきた。


(助かった…)


 パオロは安堵した。それからまた、げふっと咳き込んだ。口の端からどろっとした液体が流れ出たのを感じた。


「きゃあー、神父様ぁ」


 ベネデッタが遠くで悲鳴をあげていた。


 パオロは薄れゆく意識の中で、(この馬鹿野郎。アリアンナにとっては、死んだ方が幸せだったんだぞ。それを台無しにしやがって…)というアスラフィルの呟きを聞いた気がした。



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