予兆 さやか 2
芸能人という仕事上、鏡と向き合う時間は多くなる。しかし、ロケの日以来、さやかは鏡を見ることに少し抵抗を感じていた。
鏡に映った自分が自分ではないような気がすることがあるのだ。そんなことはないと自分でいくら否定してみても、そう感じてしまうのだから仕方がなかった。
杏里に相談してみたが、「あれから三日も経ってるのにまだ怖がってるの? 気のせい気のせい」と一笑に付されてしまった。
こんな時は壬生に相談したかったが、壬生にはロケバスで移動するような仕事がない限り会うことも出来ない。しかし、今日は壬生がいる東亜テレビでの仕事。あの心霊番組のスタジオ収録の日で、もしかすると壬生に会えるのではないかとさやかは期待していた。だが、大勢のスタッフが働いている大きなテレビ局の建物の中では、その淡い願いは叶わなかった。
なぜ、ロケの最中に気絶したのかという質問に、放送作家が用意したさやかの答えは、暗闇の中に何か人の形が見えたからというものであった。ビデオ映像には人影らしいものは何も映ってないので、視聴者を納得させるに第三者の補足をいれることになっていた。
ビデオにはオーブと呼ばれる白く丸い発光体が多数映っていたらしく、確かにそこに霊がいたのですという霊能力者の解説を入れることになっていた。
オーブと呼ばれるものは霊魂が映ったものだと一部心霊マニアに思われているが、実際は小さな虫や浮遊しているほこりなどがぼやけて映っているものが大半で、霊的な現象ではない。あの時、小さな虫が多数飛び交っていたから、それが映っていたのだろう。それでも、霊能力者という肩書の者が補足説明すると本物らしくなる。
スタジオ収録では、ビデオを見終わった後にMCが台本どおりの質問をさやかにして、さやかがそれに答える段取りになっていた。その台本では、何も見てなかったはずの杏里もそれを見たという設定になっていた。
局の会議室でスタジオ収録の打ち合わせをしながら、さやかは少し憂鬱になった。視聴者をだますことに罪悪感をもった。もしかして、その中には自分たちのファンになってくれる人もいるかもしれない。そう思うと気が滅入った。
『助けてあげる』
耳元で囁かれたような気がした。さやかはビクッと身体を震わせ、背後を振り返った。
「どうしたの、さやちゃん? 」
さやかの行動に違和感をもったのか、横に座っていた杏里が尋ねてきた。
「えっ、ううん。何でもない」
さやかは無理に笑顔をつくった。
今まで、耳元で囁くような声を何度も聞いた。
初めて聞いたのは、中学生の期末テストで、英語のある問題が解けなくて泣きそうな気分になっていた時、耳元で囁く声が聞こえた。その囁く声は答えを教えてくれていた。それから、色々な場面で囁く声はさやかを助けてくれた。テストの成績は囁く声のおかげもあって学年で上位であった。また、事務所のオーディションの時も、質問に対するユーモアに富んだ答えを囁いてくれた。その答えを言ったことで、機転が利く娘ということでジューシーラブ×2のメンバーに選ばれたりもした。そういう意味で囁く声はさやかの味方だった。
さやかは、その囁く声はあくまでも自分の能力だと思っていた。本当に困った時、自分の脳細胞がフル活動して、答えを導き出しているのだと。
しかし、今回の囁き声のニュアンスは従来の囁き声と違っていた。『助けてあげる』という言葉は、さやかの意思とは別の何者かが言ったような言葉だった。
スタジオでの収録が始まる前に、さやかは杏里に「ちょっとアフレコに行ってくるね」と告げ、トイレに向かった。一応マネージャーの三谷にも「アフレコに行ってきます」と断りをいれた。『アフレコ』とは『音入れ』からトイレを意味するちょっとした隠語として仲間内で使ってきた。打ち合わせの最中、出されたジュースを飲み過ぎたのか尿意を感じていた。
用を済ませ個室から出てくると、さやかは洗面台の前に立った。本当は鏡など見たくはないが、今からスタジオ収録が始まるので仕方がない。さやかは、自分の姿をチェックするために鏡を見た。
鏡にはいつもと変わらぬ自分が映っていた。しかし、違和感があった。さやかはすぐにその違和感を与えているものに気がついた。自分の今の心境では決して有り得ない表情が、鏡に映し出されていた。鏡の中の自分はうっすらと微笑んでいた。
恐怖で身体がブルブルと小刻みに震えだした。ハアハアと吐く息が早くなった。しかし、鏡に映し出された自分は微動だにせず微笑み続けていた。そして、さやかが見ている前でゆっくり口を開いた。
「私は、あなた。あなたは、私…」
鏡の中の自分が喋る声は、囁く声と同じ声だった。
さやかは恐怖のあまり気を失った。
さやかが目を開けた時、目の前に見知らぬ天井があった。どうやら自分はベッドの上に寝かされているらしいと分かった。首を横にして辺りの様子を見る。さやかに背を向けた状態で、机に向かって何か書いている白衣を着た女性が見えた。頭の後ろでお団子結びをしているその髪の毛には白いものが混じっており、その女性がそう若くないことをものがたっていた。
「あのぅ・・・」
さやかは声をかけた。その女性がふり返った。
「あら、気がついた? 」
年の頃は四〇代半ばであろうか、ほとんど化粧をしていない、その優しそうな笑顔は、さやかを安心させてくれた。
「わたし、どうしたんですか? 」
「あなたは、トイレで倒れてたのよ。ここは局の医務室なの。私はここに勤務している名波という者よ。一応、医師の資格も持ってるわ。私が診たところ、過呼吸を起こしかけていたようだけど、脈も正常だったし、救急搬送の必要はないと判断して、ここに連れてきたの」
「いけない! スタジオ収録が…、」
さやかは、ベッドから半身を起こした。
「大丈夫よ。加賀さんには、私から連絡しておいたから。あなたが倒れているのを発見した子、なんていう子だったかしら、あなたのお仲間の…」
「ありちゃん。あ、いえ、杏里ですか? 」
「そうそう、その杏里ちゃんていう子が、うまくやっておくから心配しないでと、あなたに伝えてほしいと言っていたわよ。さあ、安心して、もう少し横になってなさい。あなたは、少し疲れているのかもしれないわ」
名波という女医がそう言いながら、さやかに薄手の毛布をかけてくれた。
「最近、体調に異変を感じたことがあった? 」
上から、さやかの顔をのぞき込みながら女医が尋ねた。
「あの…、あ、いえ別に」
さやかは先程の出来事を話すのをためらった。そんなことを言ったら、過労のせいだろうと一笑に付されるに違いない。
女医は一瞬怪訝な表情を見せたが、「そう、じゃあ、もう少し休んでいなさい」と優しく微笑んだ。
さやかは目を閉じた。
父親の後ろ姿が見えた。さやかは走って追いかけた。追いかけながら、さやかはこれは夢なんだと思った。なぜなら、大好きだった父親は幼い時に亡くなっている。
「パパ、パパ」と呼びかけた。でも、その呼びかけている声は、あの囁き声と同じ声だった。自分の声とよく似ているが自分とは違う声、鏡に映ったもう一人の自分が喋っていた声。その声が段々幼い声に変化していく。
さやかは辺りを見回した。いつの間にか椅子に座っていた。椅子と言っても、それはバスの座席だった。横に母親が座っていた。
後ろの方でで、「パパ、パパ」と言う声が聞こえた。
「なんだい、あやか? 」父親の声が聞こえてきた。
あやか? あやかって誰?
忘れていた遠い記憶。さやかは、少しずつ思い出した。
今、乗っているバスはあの事故を起こしたバスだ。毎日仕事で忙しかった父親が、久しぶりに続きの休みがとれ、家族サービスとして家族旅行を計画した。そして、一泊二日のバスツアーに参加したのだ。
その事故は二日目に起きた。
前の日に、さやかはバス酔いを起こし、バスの中で吐いてしまった。エチケット袋を隣に座っていた父親が用意するのも間に合わず、さやかの吐瀉物はバスの床にまき散らされた。吐瀉物の酸っぱい臭いが辺りに漂い、父親とガイドがその吐瀉物を拭き取った。
父親が「すいません。娘が迷惑をおかけして」と、ガイドにしきりに詫びていた。
バスツアーの二日目、前日さやかがバスに酔ったことを気遣ってくれたのか、バスに乗る前に老夫婦が座席の交換を申し出てくれた。老夫婦の席はバスの前方だったので、前の方にいたら、バス酔いが少しは緩和されるかもしれないからとのことだった。
両親はその老夫婦の親切な申し出を受け、母親とさやかがその席に座った。大好きな父親と、席が遠く離れるのは寂しかった。その間に、あやちゃんにパパをひとりじめされる…。
あやちゃん?
今ふと思ったことによって、凍り付いていた記憶が、端の方から少しずつ溶け出していた。
幼い頃、さやかはいつも誰かと一緒だった。そう、自分と瓜二つの誰か。
あやちゃん!
さやかは思い出した。自分が双子として生まれてきたことを。
名前はあやかと言い、あやちゃんと呼んでいた。あやかとは、大好きな父親を取り合っていた。高い高いは、交代でしかやってもらえないし、当時住んでいたアパートでは、風呂場が狭くて三人一緒にお風呂に入ることなど無理だった。その上、仕事で忙しかった父親は、二人が起きている時間に帰ってくることは稀だったからだ。
でも、父親にかまってもらえることを取り合っていたとはいえ、あやかのことを嫌っていたわけではない。二人でよく遊んだし、好きな食べ物や好きなアニメや好きな絵本など、好きなことのほとんどが同じだった。あやかのことも大好きだった。そんな大好きだった二人が座っていた場所に、あの暴走トラックが突っ込んできたのだ。
あやちゃん! パパ! そこに座ってたらだめぇー!
さやかは、後ろの座席に仲良く並んで座っている二人に向かって叫んだ。その瞬間、ドーンという激しい衝撃音と共にバスの車体が大きく揺れた。
誰かに身体を揺すられていた。
「さやちゃん、さやちゃん」
さやかが目を開けると、目の前に杏里の顔があった。
「あ、ありちゃん…」
「大丈夫、さやちゃん。随分うなされていたよ」
「わたし、何か言ってた? 」
「うん、あやちゃん。あやちゃんって大きな声で言ってた」
さやかは、ベッドの上に半身を起こした。
「収録終わったの? 」
「うん、たった今。さやちゃんが倒れたから、ちょっと混乱して時間が押したけど、うまく行ったわ」
「ありがと、ありちゃん」
「それより、ひどいのよ、あの加賀っていうディレクター。さやちゃんが倒れたことを何かに取り憑かれたから、みたいなことにしてMCに話させたのよ。今、三谷さんがそのことについて抗議してるところ」
杏里が腕組みをして言った。
「ちょっといいかしら。脈拍計るから」
「あ、すいません」
女医が杏里の背後から声をかけ、杏里が脇にどいた。
「大丈夫みたいね。どう、何かおかしいところある? 」
さやかの脈拍を計っていた女医が問いかけた。
「ありがとうございます。大丈夫です」
さやかは頭を下げた。
「じゃあ、もう帰っても大丈夫ですか? 」
さやかの代わりに杏里が尋ねた。
女医の承諾した返事を聞いて、「それじゃ、三谷さんにさやかが無事だってこと伝えてくるね。すみません、戻ってくるまで、さやかをもう少しここにいさせて下さい」と言って医務室を出て行った。
さやかは、首にかけているハート型のロケットペンダントを取り出した。蓋を開く。中にある写真を見
た。
「ごめんね、あやちゃん。ずっと忘れていて…」
今まで、父親に抱かれて写真に写っているのは自分だと思っていた。でも、それは違っていた。あの時、父親と一緒に死んだあやかの姿だったのだ。
(いいのよ、あやちゃん。あなたが私を忘れたように、私も死んだことが分からなかった。そこにあなたがいたの。最初、私はあなたのことを自分だと思った。そして、あなたの側で私も成長していった…)
囁く声が聞こえた。でも、もう怖くはなかった。自分の眼の端から、一筋涙が流れたのをさやかは気付かなかった。
「失礼します」
医務室のドアの外でマネージャーの三谷の声がして、ドアが開いた。囁く声が途切れた。
さやかは寮に帰り着くと自分の部屋の鏡台の前に座った。
「あやちゃん…」
鏡に映っている自分に呼びかけた。
「ごめんね、さやちゃん。怖い思いをさせて。でも、さやちゃんに私のことを思い出してもらうには、こうするしかなかったの」
今、鏡に映っているのはあやかだった。異常な現象が目の前で起きているのに、さやかは少しも恐怖を感じなかった。むしろ幸せだった。
「自分がもう死んでいるんだと気付いたのは、随分後だった。そのことに気がついた時、私はショックを受けた。でも、こっちの世界でもあなたと一緒に成長することができていた。あなたたち生きている者からすれば、おかしな話しでしょ。霊が成長するなんて」
さやかは頭を振った。
「ううん、分かるような気がする」
「ありがとう、やっぱり優しいね、さやちゃんは。自分がそっちの世界で生きていないと分かった時から、私はさやちゃんの事を見守ってきた。さやちゃんが幸せになることが、私の幸せだったから。でも、私も考えが幼かった時もあるから、テストの答えを教えたりして。今思うと、悪いことをしたわ」
「私は、それで助かったよ」
鏡に向かって、にっこり微笑む。
「これからも、ずっとさやちゃんのことを見守っていこうと考えてた。だけど、それができなくなったの」
「出来なくなった? 」
「ううん、言い方を間違えたわ。近い将来出来なくなるの」
「どういうこと? 」
「そのことの説明は難しいわ。こちらの世界、つまり霊界に住むものにとっては理解しやすいことなんだけど…」
鏡に映ったあやかの表情は悲しそうであった。
「私は、あやちゃんにずっと側にいてほしい」
さやかは鏡の中のあやかに言った。
「さやちゃんは、本当にそう思う? 」
あやかに問われて、さやかはうなずいた。
「じゃあ、私と入れ替わって」
「えっ? 」
あやかの言った意味が分からなかった。
「さやちゃんがこっちの世界に来るの。その間、私はあなたになる。こっちの世界に来たら、私が言った意味がすぐに分かる。もちろん、さやちゃんの身体を乗っ取るつもりなんてないわ。それは信じて」
さやかは、しばらく考えて「分かった」とうなずいた。あやかのことを無条件に信じることができた。
「でも、どうするの? 」
「大丈夫、私にまかせて。私たちは双子だから、さやちゃんがその気になったらすぐに意識をシンクロできる。さあ、さやちゃん、眼を閉じて」
キーンという耳鳴りがした。さやかは自分の身体がふわっと浮いたような感じがした。
さやかが閉じていた眼を開けた時、そこは優しい色彩に彩られた空間だった。そこが先程まで、あやかがいた場所なんだとすぐに分かった。霊の世界ということで、勝手に薄暗い場所を想像していた。でも実際のそこは、明るい色彩の光に満ちた世界だった。
そしてさやかはその場所で、あやかが何故あんなことを言っていたのか、瞬時に理解できた。
「ありがとう、あやちゃん」
さやかは、向こうの世界からこちらを見つめているあやかに向かって微笑んだ。
翌日、さやかはキャリーバッグを持って部屋を出た。
「えっ、どこか行くの、さやちゃん? 」
偶然、廊下で会った杏里に見咎められた。
「ごめんなさい。お母さんの身体の具合が悪いから、すぐに帰ってくるように連絡があったの」
「それは大変ね。三谷さんには連絡した? 」
杏里が心配そうな顔をした。
「ううん、まだ」
「じゃあ、私から連絡しておくね。明後日まではオフだから大丈夫だとは思うよ」
「ありがとう、あんりちゃん」
そう言って、さやかは寮の玄関を出て行った。
杏里は、さやかが、いつものさやかじゃなかったような気がした。いつもは、自分のことを『ありちゃん』と呼ぶさやかが、さっきは『あんりちゃん』と呼んだ。微妙な違いだったが、なぜかそれが気になった。
胸騒ぎがして、杏里は玄関から外に出た。さやかの姿を探した。しかし、もうさやかの姿はどこにもなかった。