予兆 合沢
夢の中で、私は車を運転している。
その私が運転している車を、もう一人の私が俯瞰して見ている。
もう一人の私が見ている車は、本来左に曲がらなければならない分岐点を曲がらずに、そのまま走っていく。
やがて、車は小さな入江に囲まれた海岸へと到着する。
私は車を降りる。すると、その海岸には奇妙な岩がある。それは、2メートルを超すような平たるい皿のような岩で、それが20センチ間隔で並んで立っている。平たい皿のような岩が数十枚集まって、大きな一塊りの岩を形成している。平たい岩はペンキで塗られたかのように極彩色であり、色とりどりである。形容すると、趣味の悪い色の皿が食器立てに並んでたっているような感じである。そんな岩々が小さな入江の至る所にある。
その入江には一軒の古びた家屋がある。外観から察するに3階建てのようだ。
私は入り口らしき所から中に入る。
するとそこには、その家の主らしき者がいる。歳は幾つなのか想像もつかない。なぜならば主らしき者には実体がないからだ。おぼろげな人型がそこにあるだけなのである。
主は私に向かって問う。
「おまえさんは、どこから来たんだね? 」
私はどこから来たんだろう?
私が考えあぐねていると、更に主が問う。
「おまえさんは、まだ生きているのかね? 」
私は、生きているのか死んでいるのか。
私の脳裏に、シェイクスピアのハムレットの台詞が甦る。
『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』
そう、それが私に与えられた命題なのだ。
私は主に向かって言う。
「私は、おそらくまだ生きています」
すると主はうっすらと笑いを浮かべる。実体が無いのに、笑ったということだけは不思議にも分かった。
「そちらの世界で生きているということは、こちらの世界の住人ではないということだ。それが重大な意味をもつことを、おまえさんは気付いていないらしい」
「どういうことなんですか? 」
不安になった私が問う。
「超越者によってもたらされる救いは、もうじき訪れる。しかし、次元が異なるそちらの世界には、その力は及ぶことはない。つまり、今そちらの世界にいる者は、見捨てられる運命にある」
「救いとは何なのですか? 」
私は夢の中で主に向かって叫んでいる。
「救いとは、至福のやすらぎだ。しかし、それを言葉で形容することはできない。私を含め、それを経験した者がいないのだから」
「それだったら、それが真実だと誰が保証するのですか? 」
「信じることが出来ない者は、いつの時も疑うことしか出来ない。違うかね? 」
主が、また笑った。
「この匂いを嗅いでごらん」
主は、蓋を開けた小さな薬瓶を私の鼻先にもってくる。
小さな薬瓶からは、甘美な匂いが漂ってくる。
「良い匂いがするだろう? これが君を安らかにしてくれる死の匂いだ」
そこで、私は目が覚める。
枕元に、何度も夢の中で現れた小さな薬瓶がある。
あの日。そう私が駅のホームの階段でつまずき、そして倒れて気を失ったあの日。
気を失った私は、それから幾度も見るようになった夢と同じ場所にいた。そして、そこで啓示を知った。
気を失ったことで、一時的な仮死状態になっていたのかもしれない。
本来ならば、霊界にいるものしか感じ取ることが出来ない啓示を、私は偶然にも知ってしまった。
救急搬送された病院のベッドの上で目が覚めてからも、その啓示はリアリティを維持し続けた。
退院してから、私はパニック状態のまま、非合法な手段を使って、ある物を手に入れた。
それが私の枕元にある小さな薬瓶だ。その中には、私を死に誘ってくれる毒薬が入っている。
しかし、私はそれを飲むことを躊躇っている。それは、私の意識のどこかに、啓示を素直に信じていいものかどうか迷いがあるからだ。
あれは、単なる夢だったのか、それとも本当のことなのか。
私が夢の中で毎回出会う実体の無い主は、しきりに私にあちらの世界に来るように誘ってくる。
私は、夢から覚めると毒の入った薬瓶を眺め、そして逡巡するのだ。
テレビをつけると、今日も殺人事件が報道されていた。霊能力者としてテレビで名を馳せていた柿田善然は、まだ捕まっていない。
もしかしたら、あの女が殺人鬼になったのは、彼女も啓示を受けたからではないからか?
ふっと、そんな疑問が頭をよぎったが、そんなことはどうでも良い。
問題は、私自身がどうするかだ。
啓示で聞いた審判の日はすぐ近くまで来ているのだから。