予兆 崎田
山岡文芸社のビルの三階にある、月刊オーパの編集室の中で、﨑田一はフリーライター三島から渡された内間敦史の手紙を読んでいた。
内間敦史という、以前テレビに出ていた若者が書き残した遺書めいた手紙だということだった。
しかし、読み進めるうちに、崎田は不安を感じ始めていた。
内間敦史が本物の霊能力を持っていて、この手紙が事実を物語っているのなら、これを月刊オーパに載せるのは危険だと思ったからだ。
内間敦史が、自死していることが、この手紙に信憑性を持たせている。記事にするなら興味深い内容だ。
オーパの読者であるなら、ここに書かれている内容を信じたとしても、一方で単なる空想上のものだと理解するかもしれない。加えて、発行部数が少ないオーパであるから、世間に広まる可能性も少ない。
しかし、と崎田は思う。もし、万が一、この内容を信じた読者がいて、それをネット上で広めたりしたら、今、世界各国で起こっている霊能力をもった者の無差別殺人に関連づけて考える者も出てくるだろう。
全世界で、時期を同じくして多発している無差別殺人の動機が見えてくるのだ。
それはまさに、この手紙に書かれていることが真実に思える証拠になる。現に、自分も、この手紙に書かれていることを信じかけているではないか。霊界の存在については、確かにあると思える。
ふーと、崎田はため息をついた。
背もたれ付きの椅子に深く腰掛けているのだが、そこから立ち上がれないほど、自分の身体を重たく感じた。
「どうしたんですか、レイさん? 大きなため息なんかついちゃって」
それまで原稿の校正を行っていた、同じオーパ編集員で坊主頭の岩隈が、机を挟んだ向こうから顔を上げた。
「いや、何でもないよ」
そう答えてから、崎田は、ふと思い立って岩隈に質問してみることにした。
「ちょっと変な質問になるんだが、答えてくれないかな? 」
「え、何ですか? お金を貸してくれないかとかの質問だったら、僕も持ってませんよ。給料日前ですし」
岩隈が笑いながら言った。
「違うよ。そんなんじゃない。まじめに考えて答えてくれないか」
「わかりました」
岩隈が正面に向き直った。
「岩さんは、霊を信じるかい? 」
「霊ですか? 一応信じてます。信じてないと、オーパで取り上げたりする心霊関係の記事集めもいい加減なものになってしまうと思いますから」
「いや、仕事を抜きにして考えてほしいんだ。岩さんの本心では霊を信じてるのかい? 」
岩隈が、うーんと頭をひねった。
「半々ぐらいですかね。実際に、この眼で見たことがあるなら信じますけれど、残念ながらというか、幸いにもと言うべきか、僕は見たことはないし。それに、送られてくる心霊写真や心霊動画も大半はうさんくさい物ばかりだし」
「じゃあ、霊界というものはあると思うかい? 俗に言う死後の世界は? 」
崎田の質問に、再び岩隈が考え込んだ。さすがに、思慮深い性格で評判の男だけはある。ややあって、岩隈が顔を上げた。
「信じる信じないじゃなくて、あって欲しいですよね。だって、死後の世界があると考えることで、死への不安が少しは解消されますから。死んだら、そこで、はい終わりと言うんじゃ救われませんよ。特に、僕みたいな、もてない、金無い、見込み無いみたいな三無いの男にとっては。これから先も、生きてる間に何もいいことが無いかもしれませんからね」
「つまり、岩さんは、この世で満足できなかった不満を、来世で晴らせるかもしれないと考えるわけだね」
「そうですよ。三大宗教だって同じでしょう。死後の世界で、神様が自分を救ってくれると期待するから、信じるんでしょう。それがなければ、ほとんどの宗教は成り立ちませんよ」
岩隈の何気ない言葉に、崎田はハッとした。確かに岩隈の言うとおりだった。宗教の成り立ちを考えてみても、死後の世界の幸せを、神をはじめとした超越的な存在が約束してくれていると信じることで、遅かれ早かれ、誰しもに平等に訪れる死というものの恐怖を和らげてくれている。
(もし、それが無くなったら…)
崎田は、そう考えてゾッとした。
世界は、ある意味、良くも悪くも宗教があることで成り立っている。時には、考え方の違いによって、宗教間のトラブルや紛争が起きているが、その宗教の教えを信じる者にとっては、心のよりどころになっている。神が自分を見守ってくれている。そして、自分に死が訪れたとき、自分を救ってくれる。そう思いこむことで、生きていけるのだ。その宗教の教えが全く意味を成さなくなったとき、人は、どのように考え、どのように生きるのであろうか。
「レイさん、どうしたんですか? やけに深刻な顔しちゃって」
岩隈がのぞき込むようにして、自分の顔を見ているのに気付いた崎田は、「いや、何でもない」と、慌てて言った。
「すまなかったね。もういいから、岩さんは自分の仕事を続けてくれ」
崎田が、そうつけ加えると、「何か役に立ちました? 」と、岩隈が応えた。
崎田は、深く肯首すると「ああ、助かったよ」と、笑顔で応えた。しかし、崎田はその自分の笑顔が、無理につくったものだと、もしかすると岩隈には分かったかもしれないと思った。
崎田は、もう一度、内間の手紙の後半部分を読み返した。内間の手紙に書いてあるタイムリミットの日は、もうすぐだった。その日を過ぎたら、本当に手紙に書かれているようなことが起こるのだろうか。
崎田は、それが起こった後の世界を考えてみた。だが、予想もつかなかった。二つの考え方で、まるで違ってくるのだ。
もし、人間が自分の死が訪れるまでの間、これまで通りの暮らしができることを幸せと感じる人々が多いならば、世界はこれまで同様、何も変わらないかもしれない。
しかし、この世に生きている間の快楽のみを追求し、それを幸せと思う者が増えたなら、この世界は大変な事態になってしまう。そして自分の欲求を満たす行動は、今が良ければそれでいいという自己中心的な考え方によって動かされていく。
欲求を満たすための殺人事件も増えるだろう。自分の死は怖いが、他人の死は怖くなくなるのだ。殺人を犯したからといって、殺した者からの恨みをかうことは一切無いのだから。殺した相手が化けて出てくるということなど、あり得なくなるのだから。
夜道で自分の後ろを歩いてくる人が、いつ自分の欲求を満たすためだけの獣になるかもしれない。そんな猜疑心の渦巻く中で、人々は暮らさなければならなくなる。そうなると、世界は疑心暗鬼で満ちてしまうであろう。自分の周りが全て敵だと考えるのが当たり前になるかもしれない。
若干のメリットはある。
宗教の崩壊は、宗教のために殉死するという、例えば自爆テロのような行為を無くすであろう。来世の幸せが約束されていると思うから、自分の信じる宗教のために殉死する者がいる。しかし、その後ろ盾が無くなれば、殉死など無意味な行為になる。
そこまで考えを巡らせてから、崎田はふと思った。
(もしかすると宗教の崩壊によって、国の存在意義そのものが危うくなるかもしれない…)
価値観が大きく変化した未来においては、有り得ないことではなかった。
(そんな世の中になったら、果たして自分は生きていけるだろうか? 愛する家族を守ることが出来るだろうか? )
崎田は自問自答した。しかし、答えを見出すことができなかった。来世が約束されている今のうちに、自ら命を絶った方がいいのか。
(しかし、残された家族はどうなる…)
まだ三歳の娘の愛らしい笑顔が、脳裏に浮かんだ。
(まてよ、私は今、不幸せか? それに、本当に来世には幸福が用意されているのか? )
先ほど考えた、暗い未来像も、杞憂に過ぎないかもしれない。
第一、内間の手紙が全て真実だと断言するには根拠は乏しい。仮に、内間の手紙の内容が全て真実としても、死後の世界が無くなったとは、誰も気付かないだろう。誰も気付かなければ、宗教の崩壊もないし、社会の秩序も乱れないだろう。
(やはり、この手紙をオーパに載せるのはやめた方がいい)
崎田は、内間の手紙をデスクの引き出しにしまった。そして、代わりの原稿を頼むために、数人のライターに電話をかけ始めた。