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啓示・終末へのカウントダウン  作者: 合沢 時
1/12

予兆 さやか 1

「あーあ、イヤだなあ…」


 牧野さやかは、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「何が嫌なの、さやちゃん? 」


 グループの仲間である市ノ瀬杏里が、さやかの呟きを聞きつけて尋ねてきた。


「ありちゃんは、イヤじゃないの? 今度のお仕事」


 タメで口をきいているが、さやかは高校一年、杏里はさやかより2つ年上で高校三年である。本来ならば先輩にあたるのだが、同時期にこの世界に入ったので、年が違っていてもタメで話している。


 二人の他に後五人の仲間がいる。そのうちの三人は、さやかよりも年下の中学生なのだが、その子たちともタメだ。


「今度のお仕事って? 」

「テレビのお仕事のこと。廃屋探検とかいうロケのこと」

「ああ、今から打ち合わせがあるやつね。心霊特集の番組でしょ」


 さやかは、半年前に結成されたジューシーラブ×2というアイドルグループの一員である。しかし、まだ全国的な知名度は低く、所属事務所は彼女たちを売り出すために、積極的にメディア戦略を行ってきた。テレビ出演もそのうちの一つであった。とは言っても、知名度の低い彼女たちに、歌番組のオファーが来ることは少なく、大半はバラエティ番組への出演であった。

 今日は、今度出演する番組の打ち合わせのために、さやかと杏里の二人は東亜テレビの会議室にいた。


「ありちゃんは怖くないの? 」

「全然、私、幽霊とか信じてないから」

「でもぅ、前にもテレビに出た時、怖い映像とか見て一番悲鳴上げていたの、ありちゃんじゃなかった? 」

「あれは、営業用。怖がって見せた方が可愛く見えるでしょ」


 そう言って杏里がニコリと笑う。両頬にえくぼができた。


「でもなぜ、廃屋探検のロケに行くの私とありちゃんだけなのかな? 他の子でもいいのに…」


 そう言いながら、さやかは目の前にある、飲みかけのオレンジジュースが半分ほど入ったコップを手に取った。出された時には冷たかったジュースが、もう既にぬるくなっていた。この部屋に入ってから、随分長く待たされていることになる。マネージャーとテレビ局のディレクターとの、ロケ中の安全管理の打ち合わせが長引いているのかも知れなかった。


「私はリアクションが大きいから選ばれたんだと思う。さやちゃんは霊感が強いからじゃないかな」


 テーブルの上に大きめの白い皿が置いてある。その中に山盛りになっている小さな袋菓子の一つに、杏里が手を伸ばしながら言った。


「えぇー、わたし霊感なんてないよ。生まれてから今まで幽霊なんて見たこと無いし」

「だって、さやちゃん、不思議なことできるじゃない」


 杏里が言う不思議なこととは、さやかのカード当てのことである。相手が引いたトランプのマークと数字が分かるのだ。さやかが小学生の時から出来ていたことで、相手が自分が引いたトランプを確認した瞬間、そのトランプのマークと数字がまるで耳元で囁かれたように分かるのだ。


 この特技は最初仲間内で評判になり、テレビ番組でも披露する機会があったが、同じような現象はギミックを使ったマジック用のトランプでできるのですぐに飽きられた。テレビ局側は、さやかの能力を上手なマジックだと思っていたようだった。本当はトランプ当ての他にも出来たのだが、さやかは自分をアイドルとして売り出したかったので、他のことを他人に見せるのは自重した。

 その代わり、霊感が強い少女という触れ込みで、今回のような企画ものへのオファーが来るようになった。


「あーあ、イヤだなあ…」


 さやかは、先程言った台詞を繰り返した。


「ま、ともかく頑張りましょ。私たちのグループが有名になるためには沢山テレビに映ることが必要なんだから」


 杏里が明るく笑う。


「でも、今度行く廃屋って、使われなくなった山の中の病院だよ。ネットで調べたら、幽霊が出るって有名な所らしいし…」

「大丈夫、大丈夫。幽霊なんていやしないんだから。でも、見えたふりして適当な場所でキャーとか叫んだりするのは忘れないようにしなくちゃね」

「ありちゃん、スゴイね」

「私は、幽霊何かよりも生きている人間の方がよっぽど怖いわ…」


 さやかは、杏里の目が少し潤んでいるのに気がついた。しかし、その理由を訊くのはためらわれた。なぜなら、耳元で、『泣いている理由を尋ねたらだめだよ』という囁き声を聞いたような気がしたからだ。


「仕方ない、お仕事だもんね」


 さやかは明るさを装ってそう言った。




 廃院に向かうロケバスの中で、さやかはハート型のロケットペンダントを開き、中の写真を見つめていた。写真には、さやかが小さい時に亡くなった父親と、その父親に抱かれた幼い自分が写っている。

母親が暮らしている故郷の祖父の家の仏壇にも、同じ写真が飾られている。ロケットの中の写真は、東京に出てくる前に、その写真を複写して、ロケットの中に納まるように小さく加工した物だ。

 以来、さやかはそのペンダントをお守りのように大切にしてきた。

 

 さやかが三歳の時に、父親は亡くなった。交通事故であった。さやか達家族が乗ったバスが、赤信号で交差点に入ってきたトラックに衝突されたのだ。トラックの運転手の飲酒による事故だった。バスの右側面が大破した。その事故で父親は死んだが、幸いにも母親とさやかは軽傷で済んだのだった。軽傷で済んだことは奇跡的だった。

 

 さやかは当時の事故のことをよく覚えていない。まだ人の死についても理解できていなかった。ただ、大好きだった父親が自分の前から突然姿を消したことは覚えている。高い高いもしてもらえなくなったし、一緒にお風呂に入って黄色いアヒルさんの人形で遊んでもらえることもなくなった。

 

 さやかは、写真を見ながら幼い頃のことを思い出していた。父親に遊んでもらった思い出が蘇る。

 ところがここ最近、その思いでの中に奇妙な映像として思い出されることがある。父親と手をつないで歩いている自分を客観的に見ている映像だ。目の前に父親と手をつなぎ、仲良く歩いている自分がいる。ふと見上げると、そこには母親の姿がある。いつの間にか母親と手をつないでいるのだ。そこで視線が前に移り、そこには先程のように父親と手をつないで歩いている自分がいるのだ。今もそのような映像が浮かんできていた。

 写真の中の幼い自分が微笑んだような気がした。

 一瞬悪寒が走り、さやかは慌ててロケットの蓋を閉じた。


(これから怖い場所に行くと思うから、何でも怖く見えてしまうのかな? )


 恐怖心を押さえるために理性的に考えようとした。

 ロケバスの中には、さやかの他に杏里と事務所のマネージャーの三谷圭介、それからさやかと杏里のメイクアップを担当しているメイクの赤座佐知子が、思い思いの場所に座っていた。さやかは、車に酔いやすいたちなのでロケバスの前方に座っていた。


「壬生さん、まだ遠いの? 」


 ロケットの写真を見ていたことで少し車酔いを感じたさやかは、ロケバスを運転している東亜テレビの壬生貴之に話しかけた。このテレビ局のロケバスに乗る時には、いつもADの壬生が運転手を務めていて、さやかは壬生によく話しかけるので、彼が壬生という名前だということを知っていた。そして壬生の最近の仕事が、ロケバスの運転が主になっているらしいことも。


「うーん、後一〇分くらいかな。実は、僕も現場に行くのは初めてなんですよ」


 三十代前半の壬生だが、誰に対しても、いつも丁寧な言葉遣いである。もちろん、年下のさやかに対してもそれは同じで、そのことでさやかは壬生に好感をもっていた。そればかりでなく、壬生は博識であり、あらゆることを知っていた。今流行りのファッションや芸能界関係の情報、かと思えば、難しい科学知識や政治経済のことなどありとあらゆることに精通していた。さやかが何か尋ねたら、どんなことでも即座にその答えを出してくれる。そんなことから、さやかは、壬生とロケバスの中で話すことが楽しかった。

 

 山の中にある病院跡ということで、さやかは勝手に、くねくねと続く道を上り詰めた山の奥にそれがあると思い込んでいた。車窓から見える周りの景色は寂しい田舎の風景ではある。ロケバスが走っている農道の左右には田んぼや畑が広がっていて、遠くに点在する家々の明かりが見えていた。まだ太陽が西の空に沈んで間がないので、薄ぼんやりと遠くの山々まで見えていた。


「山の中の廃院ということだったから、僕は山奥まで行くのかと想像していたけど、違っていました。山の麓にある廃院らしいですよ。よく考えたらすぐに分かりそうなものですよね。山奥に病院造っても、患者さんがそんな不便なところに行くはずがないですからね」 


 壬生がそう言って笑った。


 さやかはそれを聞いて恥ずかしくなった。ついさっきまで、山奥にある病院跡を想像しては、心の中でため息をついていたからだ。


「山の中じゃなくて良かった。だって、山の中にあったら逃げるのに不便だし」


 さやかは、恥ずかしさを隠すように明るく応じた。


「でも、気をつけて下さいよ。同じテレビ局に勤めている自分が言うのもなんですけど、加賀ディレクターっていう人は、自分の思い通りの画が撮れるまでは何度もリテイクしますから。へたすりゃ何度も廃院の中に入ることになりますよ」


 壬生が前方を見たまま言った。辺りの暗さが増してきたので、運転に集中しているようであった。


「えー、それはイヤだなぁ」


 と言ってから、ふと思いついたようにさやかは付け加えた。


「ねえ、そんなことになったら壬生さん、私の代わりに行って」

「ダメですよ。どこの馬の骨とも分からない僕なんかが、さやかさんの代わりになるわけが無いじゃないですか…。そうだ、良い方法がありますよ。適当な場所で、キャーとか悲鳴をあげてみせればいいんです。何か見えたふりをしてね」


 壬生が、昨日杏里が言ってたようなことを言ってきた。


「そんなんでいいんですか? 」


 さやかは可笑しくなって笑った。


「いいんですよ。心霊特番なんて、視聴者も興味半分で見ているんであって、誰もまじめに見ていませんから。それより、現場が見えてきましたよ」


 さやかは前方を注視した。暗闇の中に灰色の建物が見えてきた。




 目の前にある五階建てのコンクリートの建物は、見るからに不気味だった。画を撮るために下からライトアップされているので、その様子がよく分かった。下から見える窓の窓ガラスのほとんどは割れて無くなっており、その窓の一部に破れたカーテンがぶら下がっていた。元は白いカーテンだったのかもしれないが、今は雨風にさらされて薄茶色に変色していた。

 

 建物のそのような有様を見ては、陽光の降り注ぐ真っ昼間であっても、自ら進んでその中に入ろうという輩はいないと思われた。いるとしたら、よっぽど物好きの心霊マニアか、馬鹿な度胸試しに興じる若者だけだろう。その廃院は、中に入ったら呪われるかもしれないと思わせるような雰囲気を漂わせていた。


「ねえ、さやちゃん。虫除けスプレー貸してくれない? ここやたらと蚊が多いし」


 杏里に頼まれて、さやかは自分のバッグから虫除けスプレーを出した。確かに杏里が言うように蚊をはじめとする色々な小さな虫が周りを飛んでいる。さやかはロケバスが到着してすぐに、虫除けスプレーをその日の衣装として着ていたピンク色の上下のジャージの上からまんべんなくふりかけていた。


「はい、これ」


 杏里に手渡す。


 先に現場に来ていた撮影スタッフが建てたテントの中で、さやかと杏里は出番を待っていた。さやか達が現場についてから三〇分近く待たされている。それは、最終点検に時間がかかっているかららしかった。さやか達が通るルートを決め、昼頃からそこの安全点検を行っていたらしいが、結構割れたガラスの破片が廊下にも散乱していたりして、片付けるのに手間取ったらしい。また、スプレーで書かれた落書きも多く、その中には放送コードに触れるような卑猥なものもあったので、それが映り込まないように入念なカメラ割りが行われていた。


 さやか達はそのようなことを、現場に着いた時に、番組ディレクターの加賀から聞かされた。つまり待ちが長くなっても、君たちの安全確保のためには仕方がないことなのだということを暗に匂わせているような物言いだった。


「それにしても気味悪い建物よね。はい、これ返す。ありがと」


 水色のジャージの上から自分の身体にスプレーをかけ終わった杏里が、さやかに虫除けスプレーを手渡しながら言った。


「ふーん。やっぱり、ありちゃんでもそう思うんだ」


 さやかは手渡された虫除けスプレーをちょっと振ってみて、随分中身が少なくなったと分かる虫除けスプレーをバッグの中にしまった。


「あら、誤解しないでよ。私は霊なんか信じてないわよ。でも気味の悪さは感じるわ。あの殺人犯なんかがあの建物の中に隠れていてとか考えたら怖いじゃない」

「それは大丈夫なんじゃない。スタッフさん達が建物の中を点検してまわっているし、あの殺人犯もあの建物の中に隠れようとは思わないよ」


 さやかが言うと、「じゃ、安心」と杏里が笑った。


 さやかは、杏里が言った『あの殺人犯』という意味がすぐに分かった。

 その殺人犯というのは、つい一週間前に東京の杉並区で起こった連続殺人事件の犯人である。その犯人は、柿田善然(かきたぜんぜん)という人物で、巷で有名な占い師だった。

 さやかたちジューシーラブ×2のメンバーは、柿田とテレビ番組で共演したことがあった。

 やはり企画物のバラエティ番組で、デビューして間もない新人アイドル達の行く末を占うコーナーに、占い師の一人として招かれていたのだ。

 ただ、柿田善然の占いは辛辣をきわめていた。その中でも、あるアイドル歌手、たしか名前は美優といったが、その美優というアイドルに、近いうちに秘密が暴露され大変な結果になるだろうという占いをしたのだ。

 大変な結果とはどういう事ですかと、その時MCを務めていたお笑い芸人が尋ねたが、柿田は言葉を濁した。

 その大変な結果というのは、今ではもう分かっている。ネット上で飛び交った有名な噂として、さやかは知った。美優というアイドルは、過去に中絶経験があり、その秘密が分かったことで所属事務所からクビにされたのだという噂話だった。実際に美優という娘は芸能界を引退したので、その噂は本当のことだったと思われた。

 

 それよりも、さやかにとって衝撃的だったのは、その柿田善然が今、連続殺人犯として全国に指名手配されていることだ。


 善然という名前で紹介されると男性と思われがちだが、彼女の本名は柿田善子といい歴とした女性だ。

 その彼女がまず寝静まった自分の家族を包丁で刺して惨殺し、そして隣の家にも押し入って、そこの家族も次々に刺したという惨たらしい事件を起こした。

 

 ニュースでも繰り返し放送されたので、さやかもそのことは良く知っている。

 かろうじて生き残った隣の家の者によると、柿田善子は『これでみんな幸せになれるのよ』とブツブツと繰り返し呟いていたそうで、返り血を浴びて真っ赤に染まったその姿は般若のようだったと証言していた。

 その柿田善子は、事件が発覚した時には、所在が分からなくなっていた。今もどこかに潜んで、次の被害者になる者を捜しているのかも知れないという。

 

 そういう事もあるから、杏里が『生きている人間のほうがよっぽど怖い』と昨日言ったのかなと、さやかはふと思った。そういえば、杏里が持っているバッグに、警棒のような物が入っているのを見たことがあった。「何、それ? 」と尋ねると杏里は「護身用よ」と言っていた。


(でも、それじゃ、ありちゃんが泣いてた意味が分かんないし…)


 確かに昨日話をした時、杏里の目には涙が溜まっていた。見間違いではない。


「ねえ、さやちゃん、 」


 杏里に話しかけられて、さやかは我に返った。


「え、何? 」


 慌てて返事を返す。


「悲鳴をあげるタイミングだけどさあ、先ず私が、ある方向を見て悲鳴をあげるから、そしたらさやちゃんも私が見ている方向を見て悲鳴をあげてね」


 囁くように杏里が話した。確かに撮影スタッフに聞かれたらまずい話しだ。やらせの打ち合わせを当事者で行っているのだから。


「うん、いいよ」


 杏里の提案にさやかは即決で同意した。なぜなら、画的におもしろくない場合、加賀ディレクターに取り直しをさせられる可能性が大だということを壬生から訊かされたからだ。。

 それに、こういうロケには、もしもの時を考えて、お祓いができる霊能者を同行させるのが基本と思われるのだが、それもない。


 そのことは、加賀という男が、視聴者を震え上がらせるようとする心霊番組を企画しながら、加賀本人は霊というものを信じていないということが見て取れた。裏を返せば、画的におもしろければ視聴者を騙してもいいと言うことになる。


 自分たちが、さもそこに幽霊を見たかのように悲鳴をあげても、誰にも迷惑がかかるわけがないとさやかは思っていた。画は加賀の狙いどおりのものが撮れるし、自分たちは気乗りのしないこのロケを早めに終わらせることができる。撮影スタッフにしてもそうだ。彼らも早く帰れるから、文句は無いだろう。

 唯一、迷惑をかけるとしたら番組を見た心霊マニアたち。彼らは、やはりこの廃院には霊が出るということで、怖いもの見たさの期待をもって、この廃院を訪れるかも知れない。そのことを考えると、さやかは少しだけ胸が痛んだ。


「そろそろ本番でーす」


 スタッフの一人がそう告げに来た。

 さやかと杏里は椅子から立ち上がった。




 廊下を照らしている明かりは、さやかと杏里の被っているヘルメットに付いているヘッドランプの光のみなので、随分暗い。二人の後ろから三人の撮影クルーがついてきているが、赤外線カメラで撮っているので、二人が点けているヘッドランプ以外は余分な光源はなかった。


 自分たちの背後に撮影クルーがついてきているという心強さはあるが、目の前に広がる殺伐とした廃院の様子はやはり気味が悪かった。


 さやかと杏里は互いに寄り添いながら歩いていた。杏里は腰が引けたようにおそるおそる脚を前に踏み出しており、さやかには、杏里の歩き方が本当に怖がっているのか、それとも彼女の演技なのか分からなかった。

 さやか自身は、やはり恐怖心が先に立っていた。ちょっとした物音で身体がビクッと震える。仕事じゃなければ、絶対にこんな所に入らないと思った。

 

 さやかと杏里が目指す所は決まっていた。一階の奥にある、手術室があった場所だ。そこが選ばれたのは、そこに霊が出てくる確率が高いというわけではなく、手術室という特別な印象を視聴者に与えるためだった。番組の中で色々説明しなくても、視聴者は手術室というイメージから、もしかして手術中に亡くなった人の霊が出るのか云々、視聴者自身が勝手な憶測をしてくれる。

 

 本当のところは、この病院で手術中に亡くなった患者は一人もいない。さやかは、そのことを壬生から聞いて知っていた。いくらバラエティ番組の企画ものであっても、嘘の情報を流すことは許されないわけだが、視聴者が勝手に思い込むことは仕方がないことだ。

 

 企画の当初には、目指す場所に霊安室も候補に挙がっていたようだが、現在そこは何もないただの部屋になっており、画的にはおもしろくないので候補から外されたようだった。

 

 さやかは、そのことを知った時、心の底から良かったと思った。なぜなら、手術室と違い、霊安室は確実に死体があった場所だからだ。今そこに死体があるわけではないが、やはり死体があった場所というだけで気味が悪い。

 

 長い廊下を少しずつ前に進み、十分近くかけて、ようやく手術室の前に着いた。手術室と廊下を隔てるドアは開け放されたままになっていた。

 

 ヘッドランプの明かりは頼りなく、手術室の奥はどうなっているか分からなかった。手術室も事前の下調べで撮影スタッフが点検しているはずなので、大丈夫だと分かってはいるのだが、やはり内部に脚を進めることはためらいがあった。


「行くよ、さやちゃん」


 杏里が言った。寄り添いながら中に歩を進める。一歩二歩と手術室の中央の方に進んでいった。ヘッドランプの明かりに照らされて、手術台らしきものが見えた。他にもよく分からないが、手術の時に使っていたのだろうと思われる機材がそのまま残っていた。そのまま残っていると言っても、一部配線がむき出しになっており、破損していることが容易に分かった。


 さやかの脇腹を杏里がツンツンと二度ほどつついた。さやかが杏里の方を見ると、杏里が目配せした。さやかは杏里の意図するところが分かった。


「きゃー」


 杏里がある方向を見て叫んだ。先程、打ち合わせしたとおりに、さやかも杏里が見ている方向を見て叫ぼうとした。

 しかし、杏里の目線の方に自分の顔を向けた瞬間、さやかは身体が凍り付いたように硬直し、一言も発せなくなってしまった。

 さやかは自分の視線の先に、少女が立っているのを見た。

 少女は自分と同じピンクのジャージを着ていた。そして、ぼんやりと見えたその顔は、自分と瓜二つだった。

 さやかは悲鳴を発することもなく、その場に崩れ落ちた。


「やっぱり、何も映ってないよ。さやかくんの見間違いじゃないかな」

 

 モニター画面で、先程撮ったビデオカメラの映像をチェックしていた加賀ディレクターが顔を上げて残念そうに言った。

 

 手術室の場所で気絶してしまったさやかは、同行していた撮影クルーによってテントまで運びだされた。さやかが気絶したことによって、現場は相当混乱したらしい。そんな中、加賀だけは、もしかしたら衝撃の映像が撮れているかもしれないと、ついさっきまで、喜々として撮ったばかりの映像をチェックしていた。しかし、ビデオ映像には加賀が望んでいるような画は何も映っていなかった。


「さやかくんは、一体何を見たのかな? 」


 加賀が尋ねた。だが尋ねられても、丸椅子に身体を折り曲げるように座っているさやかは、ブルブルと身体を震わせるばかりだった。


「はい、さやか。これ飲んで落ち着いて」


 杏里が、紙コップにポットのコーヒーを注いで渡してくれた。さやかは、杏里を見上げ、それから震える手で紙コップを受け取った。


「杏里くんも何か見たの? 」


 加賀が尋ねた。


「いえ、私は見てません」

「えー、でも君が最初に悲鳴をあげたじゃない」

「何かぁ見えたような気がしただけです。実際には見えてません」


 そう言って杏里がペロッと舌を出した。


「じゃあ、見えたのはさやかくんだけか。まあ、さやかくんの気絶する様子と、さやかくんがうちのスタッフに運び出される様子は画的にグッドだけど。これで何か映っていればもっとベストだったんだけどな」


 加賀の発言は、こんな状態になったさやかのことを全く気遣っていないと周囲に分からせるものだった。


「し、手術室に…、鏡ありましたか? 」


 さやかは、やっとの思いで口を開いた。自分の声が震えているのが分かった。しかし、その疑問は、さやかの中でどうしても解消しておかなければならない疑問だった。


「いや、そんな物は無かったすよ」


 一人のスタッフが即座に否定した。さやかの僅かな望みは一瞬にして消え去った。



 

「ドッペルゲンガーですか? さやかさん、若いのによくそんな言葉知ってますねえ」


 帰りのロケバスの中で、壬生が感心したように言った。

 ようやく落ち着きを取り戻したさやかが、壬生に、ドッペルゲンガーとそれが起こる原因について尋ねたのだ。行きの車中では後部座席に座っていた杏里も、さやかのことを心配してか、さやかの席の近くに座っていた。


「ドッペルなんとかって何なの? 」


 杏里が尋ねた。杏里はドッペルゲンガーという言葉さえ知らないようであった。


 加賀が以前企画した番組で、ドッペルゲンガーについて取り上げていたことがあった。

 さやかは、たまたまその番組を見ていた。番組の基軸としては、今回の心霊特集のようなおどろおどろしさを基軸にしたものではなく、不思議な現象を科学的見地から解明するというものだった。その中で、神秘的な自然現象、オーロラやブロッケン現象などとともに、ドッペルゲンガーのことも紹介されていた。

 

 そのテレビ番組をたまたま目にした時、さやかは友人とラインでをやりとりしていた最中だったので、真剣には見ていなかった。ただ、その時、もう一人の自分が見えるというドッペルゲンガーという現象に、何となく怖いというイメージをもち、ドッペルゲンガーという言葉を覚えた。

 

 その時は、なんとなく怖いというイメージしかなかったが、今回自分の身に起きた途端、恐怖は一気に増大した。さやかは、うろ覚えでしかないドッペルゲンガーについて詳しく知り、壬生の科学的な見解を聞いて安心したいと思っていた。


「じゃあ、説明しますよ。と言っても、僕も番組に関わったときに調べた程度なので、詳しくはないのですが」


 そう前置きして壬生は続けた。


「そもそもドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分を誰かが見たり、自分が見たりする現象です。昔は、ドッペルゲンガーを見たら死期が近いと思われていて、人々から怖がられていたそうです。ただ、このドッペルゲンガーは、科学的に説明が出来ます。もう一人の自分を誰かが見る。これは単なる他人のそら似だと思われます。現代では、ものまねなどの番組があって、その中で芸能人に似た素人さんが出てきますから、世の中にはよく似た人がいるんだという認識はみなさん持っていると思います。ですが、テレビなど無かった昔には、人々にその認識はなかったでしょうからね」

「自分で自分を見るのは? 」


 さやかが尋ねようとしたことを先に杏里が尋ねた。


「これは、色々原因が考えられます。まず脳にはボディイメージを司るところがあるんですが、これが何らかの刺激によって機能が麻痺し、もう一人の自分がいるというような錯覚が起きることが考えられます。ボディイメージというのは、自分の身体がどうなっているかを無意識のうちに理解していることです。もし、このボディイメージが正確に認識できなくなると、拒食症のような摂食障害を起こすことがあります。第三者から見ると充分痩せているのに、本人はまだ自分は太っていると思ったりしてね」


 壬生が側にあった缶コーヒーに手を伸ばし、それを一口飲んでから、また話を続けた。


「次は、鏡のような姿が映るものがあって、それに映っていた。しかし、本人はそこにそんなものがあるとは気がつかなかった。鏡以外にも人の姿を映すものは沢山ありますからね。磨き上げられた金属とかね」


 さやかは、壬生が今言ったことに少し安堵した。スタッフに尋ねた時、鏡の有無だけを尋ねた。手術室という特別な空間である。姿が映るような鏡ではない他の何かがあってもおかしくはない。もしかしたらそういう類のものがあそこにあったのかも知れなかった。


「あと一つ、これは極めて特殊な例ですが、」


 そう前置きして、壬生が続けた。


「ある事情で幼少の頃に生き別れになっていた双子がいて、自分が双子であるということを知らなかった人が、偶然双子のかたわれと出会ってしまった。これなんかも実際にあり得る話ですが、奇跡に近い確率ですね」


(双子…)


 さやかは、なぜか壬生が言った双子という言葉が気になった。しかし、どうして自分がその言葉が気になるのか分からなかった。


「もしかして、さやちゃんがあの時気絶したのは、もう一人の自分を見たせい? 」


 杏里がさやかの顔をのぞき込む。


「うん、暗闇の中に私が立ってた…」

「さやちゃんが見たっていうもう一人の自分の服装は、どんなんだったの? 」

「ピンクのジャージ」


 さやかが答えると、杏里がぷっと吹き出した。


「なぁんだ。それじゃ決まりじゃん。さやちゃんは何かに映った自分の姿を見たんだよ。ねっ、壬生さんもそう思うでしょ? 」

「そうですね。僕もそう思います。人間、怖い怖いと思っていると、どんなものでも怖く思えてしまうものなんです。さやかさんが驚いたのも仕方がないことだと思います」


 そう答えた壬生の声は優しかった。さやかは壬生が自分のことを気遣ってくれていることが分かって嬉しかった。


「でも、さやちゃんがあの時驚いてくれたおかげで、ロケが早めに終わって良かったわ。後からスタッフさんから聞いた話なんだけど、加賀ディレクターは、やっぱり地下の霊安室の方も押さえておこうとしてたんだって。いくら私が幽霊とか信じない人でも、死体が置かれていた場所とかには行きたくないわ。そんな意味で、さやちゃん、ありがと」


 杏里がニコリと笑った。


 ロケバスは都心に近づきつつあった。




 壬生の運転するロケバスで、さやかと杏里はジューシーラブ×2のメンバーが生活している寮に直接送ってもらった。

 この寮は所属事務所が所有しているもので、ジューシーラブ×2のメンバーだけでなく、他の若手アイドルタレントも住んでいた。事務所の方針が恋愛禁止なので、悪い虫がつかないようにするには、寮生活をさせた方がベストな方法だと考えたのだろう。そのかわり、全員に個室が与えられ、それぞれの部屋にバストイレと本格的ではないにしても小さなキッチンが付いているという贅沢な造りだった。

 

 二人が寮に帰り着いた時、時刻は午前0時を少し回っていたが、寮の半分以上の窓にまだ明かりが点いていた。まだ、若い年頃である。仕事から帰ってきてすぐに寝るというわけにもいかない。仲の良い者同士話し込んだり、録画したテレビ番組を見たりしているのだろう。中には律儀に学校の課題をしている者もいるはずだ。

 

 しかし、今日、さやかはすごく疲れていた。シャワーを浴びて、すぐにベッドに潜り込みたいと思った。だから、杏里のお茶とケーキの誘いも丁重に断った。杏里は「そう、残念。じゃあ、また今度ね」と明るく応じてくれた。

 

 自分の部屋に入ると、さやかはすぐに着ていたジャージを脱ぎ、それを手近なバッグに詰め込んでからバスルームに入った。

 

 ジャージは今回のロケのために局のスタイリストが用意した物なので、今度テレビ局に行った時に返さなければならない。今度行くのはスタジオ収録がある日だ。その時には、番組の中でロケの最中気絶した理由を問われるかもしれない。放送作家がそれなりの答えを用意してくれているかもしれないが、そのことを考えると、さやかは気が滅入った。

 

 シャワーのお湯は気持ちよかった。いつもならバスタブにお湯を半分ほど入れて、長めの半身浴を楽しむのだが、今日は早くお風呂を切り上げてベッドに潜り込もうと思っていた。

 

 ふと、さやかは自分が誰かに見られているような気がした。ゾクリと悪寒が走った。

 

 自分の背後からの視線を感じる。背後には小さな洗面台がある。そこには鏡も付いている。背後にある鏡を見ることが怖かった。


「怖い怖いと思っていると、どんなものでも怖く思えてしまうのよね」


 壬生が言っていたことを、自分を鼓舞するようにわざと大きな声で言ってみた。そして恐る恐る振り返った。鏡にはこわごわと振り返っている自分の顔が映った。


「ほらね、何にもなかったわ」


 さやかは、再び大きな声で言った。鏡の前でニコリと笑った。当然、鏡の中の自分もニコリと笑う。

 さやかはバスルームを出た。しかし、その時さやかは気付きもしなかったが、鏡にはニコリと笑ったさやかの顔がそのまま映り続けていた。

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