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第三章 祭りの前夜

 翌日、栄盛は再び春波家の屋敷を訪れた。

 現れた重材は上機嫌だった。


「よくやってくれた。さすがは栄盛殿だ」


 瓜棚敏雅の説得に成功したことは、昨日姫の護衛に行く前に人を送って伝えてあった。春波家はすぐに冬鼓(ふゆつづみ)家と交渉し、重材の大臣継承を承認するという返事を得たそうだ。

 冬鼓高兄(たかえ)は、武家がそろって支持するなら、国のために受け入れようと言ったらしい。栄盛の近衛上狼将就任も認め、かわりに敏雅を次官の中狼将に任じることで話がまとまったという。


「これでわしの大臣位はほぼ固まった。秋影(あきかげ)視頼(みより)の悔しがる顔が目に浮かぶぞ。全てそちのおかげだ」


 重材は自ら(しゃく)をして栄盛に酒を与え、感謝の言葉を述べた。


「では、叔父の助命と武家の地位向上の件、よろしくお願いいたします」

「うむ。約束は守る。安心せい」


 栄盛は桜姫のことを思って素直に喜べなかったが、国を救うことはできそうだと安堵(あんど)した。

 帰ろうと玄関へ向かう途中、廊下で弟の行盛(ゆきもり)とすれ違った。


「お前も来ていたのか」


 声をかけたが、一つ年下の弟は栄盛を見て露骨に嫌な顔をし、会釈(えしゃく)すらせずに奥へ向かった。

 恐らく重材か名重に会って、自分を舞木家の当主に指名してくれと懇願するつもりなのだろう。


「国難の時にも勢力争いを止めぬとは、行盛は視野が狭すぎる」


 栄盛は溜め息を吐きたくなった。

 狼の形をしている吼狼国は九つの州からなるが、舞木家はそのうち二つを勢力圏にしている。父興盛(おきもり)の最初の妻、つまり栄盛の母は、狼の腰から尾に当たる()(くに)地方の有力な家の出だ。一方、行盛の母である後妻は、胸に当たる(なか)(くに)の筆頭家老の娘だった。

 両地方は都の東と西で反対方向にあり、距離も遠く、交流は少ない。舞木家内の主導権を(めぐ)って対立は根深かった。栄盛と共に恵国軍と戦ったのも、尾の国衆だけだった。だからこそ、栄盛は家中をまとめるため、春波家に当主就任を認めてもらおうとしたのだ。


「行盛は戦場に出たことがない。上狼将になっても武家の支持を得られず、恵国との戦に勝つのは難しかろうに」


 栄盛が高桐軍の迎撃で都にいなかった三日間も、行盛は毎日この屋敷に通っていたらしい。だが、栄盛には瓜棚家を口説いた功績があるので、その工作は無駄に終わるだろう。

 春波邸を出ると、栄盛は自家の屋敷へ戻った。今日から始まっている民の桜祭の警備は近衛上狼将の仕事で、亡き父の代理として栄盛が取り仕切る。実務は尾の国衆の筆頭家老肩上(かたうえ)宗延(むねのぶ)に任せてあるが、状況は把握しておかねばならない。しかも、明日は桜月一日の春始節(しゅんしせつ)、一年が始まる日だ。様々な行事の準備があった。

 まず、朝は暗いうちから真澄大社に行き、宗皇と皇家の人々と公家によって、大神様(おおかみさま)を祭る年頭祭儀が行われる。これが昼前まで続き、食事と休憩の時間があって、巫女の舞が奉納される。そのあと、重材の大臣継承と桜姫との結婚が発表され、婚儀がある。年頭祭儀も婚儀も、警備は近衛上狼将で春波家の家臣である栄盛が務めることになる。


 それが終わって春波親子を屋敷へ送り届けたら、舞木家の家臣たちと新年の(うたげ)だ。大広間の祭壇に供え物をして大神様と先祖を祭り、光園(こうえん)に昇った亡き父に当主就任を報告するのだ。それから、皆が一つ年を取る日を祝って乾杯し、新当主に挨拶に来る家臣たちと酒を()み交わす。

 今日、中つ国の軍勢三万が到着するので、長い行軍をしてきた彼等を迎えてねぎらう意味もある。武家の地位向上の改革のためにも、中つ国衆に当主就任を承認させ、尾の国の者たちと酒の席で友好的な関係を作らせたかった。

 そういった準備で、屋敷の中は戦の前のように慌ただしかった。年頭祭儀と桜祭の警備だけでも大変なのに、夜の宴と当主就任式には代々続くしきたりがあって特別な道具や料理が必要になる。屋敷に普段勤める者に手伝いに来た者たちが加わってどの部屋もいっぱいで、普段は(しと)やかな女たちまで廊下を小走りに行き交っていた。

 戦場向きの栄盛は、武芸と勇気と知略にはそれなりに自信があったが、細かなことに気を配るのは実は苦手だった。困っていると、三男の季盛(すえもり)が宴会場の準備を引き受けてくれた。


「兄上は皇女殿下の警護があるのでしょう。急ぐのではありませんか。ここはお任せください」


 末の弟は笑って胸を叩いた。


「そうか。ありがたい。お前はこういうことが得意だものな」


 季盛(すえもり)はやや線が細いが、昔から知恵が回る子供だった。彼の母親も尾の国の出身で、尾の国衆の四分の一の五千は実質的に季盛の派閥だが、うまくまとめていると聞く。明日には十五になるのだし、お付きの家老もいるから、任せて大丈夫だろうと栄盛は思った。


「兄上はご当主様でいらっしゃいます。お助けするのは家臣の務めです。ご自分の準備をなさってください」

「お前はよい弟だよ」


 栄盛は感謝し、家臣たちに季盛の指示に従うように命じて自室へ下がった。

 部屋では身のまわりの世話をする婆やと侍女たちが待ち構えていて、早速新しい直垂の試着をさせられた。大社での警護は近衛上狼将の正装をするし、屋敷での当主就任式はまた着物が違う。儀式での作法や慣例の言葉も覚えなければならない。初めて習うわけではないが、失敗したら家の恥になるし家臣に(あなど)られかねない。入念な復習が必要だった。

 栄盛は気持ちの半分が姫の最後の警護に向いていたので随分と間違えてしまい、厳しく指導されたが、やがて相手の方が諦めた。


「栄盛様は気もそぞろのご様子。今やっても無駄でございますね」


 仲綱や典昭から警護の様子を聞いたと言って、婆やは溜め息を吐いた。


「今夜、寝る前にもう一度おさらいを致しましょう。その時までにお気持ちの整理をなさってください。皇女殿下のお伴にふさわしいお召し物をご用意しました。最後に楽しい思い出を作って差し上げてください」


 婆やは栄盛と桜姫に同情しているらしく、昨日より見栄えのする立派な直垂を着せて送り出してくれた。栄盛は留守中のことを季盛と筆頭家老の肩上(かたうえ)宗延(むねのぶ)(ゆだ)ねると、仲綱と典昭を連れて再び葵御前の隠宅へ向かった。



 桜姫は今日も門の前に迎えに出ていた。

 姫は何やら眉を寄せて考え込んでいたが、栄盛たちが近付いていくと、ぱっと顔を明るくして駆け寄ってきた。姫の胸からももんがが飛んできて、馬から下りた栄盛は慌てて受け止めた。


「すっかり気に入られましたね」


 桜姫は笑った。


「わらわには懐かぬのにのう」


 葵御前が珍しげな顔をしていた。

 姫は昨日とは違う着物だが、やはり桜色だった。きっと名前の色が好きなのだろう。

 印象がどことなく華やかだと思ったら、薄化粧をしているらしい。着物の柄も、控えめだが姫の美しさを引き立てるもので、目立たぬように精一杯おめかしをしているようだった。

 姫の新しい魅力を発見したような気がして、ちらちらと顔や着物を見ていると、栄盛の視線に気が付いて姫が尋ねた。


「伯母様が着物を選ぶのを手伝ってくれたのです。どうですか?」

「その……、とても素敵なお着物ですね」


 栄盛は恥ずかしかったがほめた。当たり障りのない言葉を選んだつもりだったが、姫は栄盛が照れていることに気が付いて、うれしそうににっこりした。栄盛は顔が熱くなるのを感じた。

 後ろで仲綱や典昭がにやにやしているので、栄盛は咳払いして言った。


「本日は桜祭をご案内いたします」


 栄盛たちはここへ来る途中で会場の様子をざっと見てきた。


「屋台は開いていましたか」

「もうたくさん立ち並んで営業を始めておりました」

「それは楽しみです!」


 きっと食べ物のことを考えているのだろうと栄盛はおかしかった。


「では、早速参りましょう」

「はい」


 姫は元気に返事をしたが、急に真面目な顔になった。


「でも、その前に寄るところがあります」

「どちらでございますか」


 尋ねると、姫は答えた。


「お墓です。母の墓参りをしたいのです」


 六人は真澄池の南へ向かった。桜の林の先に広大な霊園がある。都に住んだ人々が眠る場所で、舞木一族も立派な石の墓を持っている。明日の春始節を迎える前に墓掃除に来ている人が大勢いて、墓地は静かににぎわっていた。

 皇家の墓は墓地の最も北にある。表面を石で覆った丸い小山のようなもので、てっぺんで樹齢数千年と思われる桜の巨木が満開だった。周囲を瓦屋根の塀が巡り、祭壇のある大きな建物の前に警備の天衛兵(てんえいへい)が二名立っていた。桜姫が名乗ると門を開けてくれて、中に入ることを許された。護衛の三人と小太郎は遠慮したので、どうしてもと()われた栄盛だけが一緒に入った。


 中を初めて見たが、小山の(ふもと)に石の扉があり、遺骨はその奥に納められているらしい。入口の左右には人の背丈ほどの石の塔が塚を取り巻くように並んでいて、死者の名前が刻まれていた。最初の宗皇である初大皇(しょたいおう)と妻の始女皇(しじょおう)以来数万人の皇家の人々がここに眠っている。

 桜姫は一番新しい石塔の前で立ち止まった。根元に葵御前に渡された花束を置いてしゃがみ、両手を合わせた。栄盛も隣に並んで同じことをした。ももんがは姫の肩の上で大人しくしていた。

 しばらく目をつむっていた桜姫は、顔を上げると口を開いた。


「ご存知かも知れませんが、母は陛下の従妹(いとこ)でした」


 返事を待たずに、姫は語り続けた。


「皇家の者同士、それも血が近かったため、周囲は反対したそうです。ですが、母は諦めず、結婚を許してくれないなら駆け落ちするとまで言って、祖父母たちを説得しました。そうして、皇太子(おうたいし)殿下と私が生まれたのです」


 栄盛は知らない話だった。皇家内のもめ事など、天宮の外には聞こえてこない。


「陛下と母の結婚を、葵伯母様は強く支持しました。その時もう二十九歳でしたが、かわいい従妹のために結婚を諦めて舞巫女を続けると言ったそうです。それで、祖父母も結婚を認めました。伯母様がいなければ、私は生まれませんでした」


 葵御前はもう五十四歳だが、若い頃は美貌を(うた)われたと聞く。そんな乙女にとって、どれほど大きな決断だったろうか。桜姫に厳しいことも言うが、とてもかわいがっている様子だったのは、そんな事情があったのだ。


「母は私が五歳の時に亡くなりました。私はすぐに仰雲大社へ行くことになり、陛下は再婚されました」


 宗皇は基本的に独身は許されない。聖なる血筋を後世に残すためだ。特に、男性の宗皇は伴侶(はんりょ)を亡くすとすぐに再婚させられるし、数人の副妃(ふくひ)を持つのが普通だった。


「十日前、舞巫女を務めることになって天宮へ来た時、陛下は成長した私を見ておっしゃいました。『お前はあれに生き写しだ』と。そして、私にだけささやかれました。『今の妻も愛しておる。だが、お前の母は、他の誰とも違っていた』と。その時は違っていたという言葉の意味が分かりませんでしたが、今は理解できる気がします」


 桜姫は栄盛に首を向けて、顔をじっと見つめた。


「あなたを母に紹介したかったのです。あることについて応援してくださいとお願いしました」


 姫はももんがを抱いて立ち上がった。


「さあ、行きましょう」


 栄盛は姫が何について前皇妃(おうひ)に頼んだのか尋ねなかった。聞いてはいけない気がしたのだ。

 門を出て護衛たちと合流すると、桜姫は言った。


「最初に舞台の下見をしたいです」


 明日、桜姫は多くの民の前で舞を披露する。栄盛は何度も葵御前の舞を見ているので、場所はもちろん知っていた。すぐに案内した。

 大社の本殿手前の舞台は、修繕と清掃、畳の張替えが終わって、準備は完了していた。

 舞台は四角く、二十畳ほどだ。大人の腰くらいの高さで、周囲を低い柵に囲まれている。大社の本殿の屋根の下が皇家の人々と公家たちの観覧席で、そこからすのこの道が伸びて舞台へ続き、短い階段で登る。庶民は柵の外側に座って見物する。


 舞台には瓦をふいた屋根があり、四本の柱で支えられている。大社は真澄池のほとりの小山の上にあり、霊峰と海が見渡せる。神々は天界ではなく御島にいるため、雲が空を覆っても見えるからと、天候に関わりなく舞は行われる。雨が降っても民は敬意を示すため傘を差さないしきたりだが、天文方の遠上(とおがみ)知理(ともまさ)は、明日は間違いなく晴れると言っていた。

 舞の際は七人の楽団が音楽を鳴らして神に儀式の開始を告げ、九人の歌い手の古謡(こよう)に合わせて巫女が舞い、最後に終了を伝える音楽が(かな)でられる。古謡は十番まであり、それぞれ振り付けが違っている。

 桜姫は仰雲大社から都に来てすぐにこの舞台を一度訪れていた。大社にはそっくりの練習用の舞台があるそうだが、ここに上がれるのは本番だけなので、もう一度見ておきたかったようだ。

 柵の内側に入れてもらって周囲を歩きながら、桜姫は真剣な様子で、舞の動きを確認していた。


「この隅では、こう。あちらへ行ってこうして、次は……」


 栄盛たちは邪魔にならないように柵の外で待っていた。

 広場の周囲には桜幕(さくらまく)と呼ばれる桜色の幕がぐるりと張られている。めでたい時に場を飾るものだ。

 大社の二階には、それぞれ神雲山、桜、狼、(からす)を縫い取った四つの旗が(かか)げられていた。この山花獣鳥(さんかじゅうちょう)は吼狼国を象徴するものとされ、民に愛されている。どれか一つを描いた旗は寺院や都の町中でよく見かけるし、舞木家の家紋は桜だ。

 ただし、この四つを一枚の旗の中に一緒に(えが)いてはならない。四尊合一(しそんごういつ)大御旗(おおみはた)は宗皇を表すものなのだ。その旗は銀地で、真ん中に大神様(おおかみさま)を暗示する空間を敢えて作り、上に桜、下に神雲山、左に狼、右に鴉を細部まで丁寧に()い取ってあって、かなり大きい。明日の儀式では、宗皇と共にこの場所に現れるだろう。

 やがて、桜姫は納得したのか、栄盛たちの方へ戻ってきた。


「さあ、お祭りに行きましょう!」


 姫は元気に言った。気持ちを遊びに切り替えたらしい。


「目標は、名物全制覇です!」


 小太郎がからかった。


「それって、食べ物のことですか」

「もちろんです!」


 姫は意気込んで答えたが、急に気になったらしく、栄盛に尋ねた。


「全部のお店が出ていますよね?」

「ええ。お祭りの本番は明日の夜ですが、屋台は今日からですよ」

「ようし! 頑張ります!」


 小太郎が笑い出した。


「頑張るのは舞でしょう?」

「両方、いえ、三つのことですよ!」


 桜姫は栄盛を見て言った。一瞬表情が曇ったが、すぐに明るい声で言った。


「では、何から食べますか? やっぱり桜のふわふわ焼きですか?」


 姫は小太郎と前を歩き出した。


「姫様、名物を全部食べるのは無理ですよ。そんなに入るんですか。お腹が痛くなって、明日舞えなくなったら困るでしょう」

「大丈夫です! 食欲と胃の丈夫さには自信があります!」

「ははは、お姫様が威張って言うことではないですよ」

「あっ、あそこに烏賊墨(いかすみ)饅頭の旗がありますよ。売り切れる前に急いで行きましょう!」

「まだお祭りはこれからですよ。慌てなくても大丈夫ですって」


 二人の笑い声が聞こえてくる。が、栄盛は姫の笑い方が昨日と少し違うことに気が付いた。どこか無理をして明るく振る舞っている感じがした。本当は自分と同じように、胸が張り裂けそうな悲しみに耐えているのかも知れない。


「若殿。出番です」


 背後で仲綱の声がした。護衛役の三人は若者を見守る年長者の表情で付いてきていた。


「しっかりしてください。ここは男の戦場ですよ」


 栄盛は姫を喜ばせるため、仲綱たちと祭りの情報を集めて準備していたのだ。二人は愛のない結婚をしなければならない姫君に同情し、せめてよい思い出を作って差し上げようと、栄盛に協力してくれた。

 典昭が勇気付けるようにささやいた。


「戦いだと思って本気で(のぞ)んでください。お泣かせしたら負けですよ」


 西門吉房まで頭を下げた。


「今日は殿下の一番幸せな日にして差し上げてください。これは栄盛様にしかできません」


 栄盛は三人に分かっていると頷いた。昨夜、仲綱と典昭に脅されて、覚悟は決まっていた。

 今日は楽しい日にするぞ! 姫のためにも、自分のためにも!

 栄盛は「よし!」と気合を入れると、笑顔を作って前を歩く二人に追い付いた。


「桜姫様。食べ物の場所は私が全て心得ております。ご案内いたしましょう。お気に召しそうな出し物も調べてございますよ」

「えっ、もしかして、お祭りを回る計画を立ててあるのですか?」


 姫は驚いた。 


「はい。この祭りは毎年来ておりますから詳しいのです。その経験から申し上げますと、烏賊(いか)(すみ)饅頭はかなり甘く、先に食べると他のものが入らなくなりますので、最後になさるのをお勧めします。まずは桜のふわふわ焼きと魚の甘辛揚げを手に入れましょう。その二つを食べながら、気になった露店や出し物をのぞいていかれるのがよろしいと思います。食べ歩きはお行儀が悪いですが、かまいませんか?」


 姫はさらに目を見張って、栄盛をまじまじと見た。一瞬泣きそうな表情になったが、すぐにとてもうれしそうに笑った。


「侍女が聞いたら絶対反対します。でも、初めてなので、やってみたいです!」


 満開の桜のような笑顔で、姫は言った。


「全てお任せします。今日はあなたに付いていきます!」

「任されました」


 栄盛も笑って姫に並んだ。

 それから二人と小太郎と護衛たちは祭りを堪能(たんのう)した。

 まず、宣言通り食べ物の屋台に案内した。姫はこのために昼食をとらずに待っていたのだ。既に大社周辺は随分な人出だったが、屋台はとても多かったので行列は短かった。

 栄盛や護衛たちは我々が買って参りましょうと言ったが姫は首を振り、西門吉房からお金を受け取ると、栄盛と小太郎を連れて桜のふわふわ焼きの列に並んだ。

 姫がそわそわしてしきりに前の人の様子を観察しているので、まさかと思って尋ねると白状した。


「実はお店で買い物をしたことがないのです。お金も初めて実物を見ました」

「さすがはお姫様ですね!」


 十歳の小太郎に呆れられたが、どうしても自分で買いたいと言うので、少年が先に自分の分を買って手本を見せることになった。


「いいですか。『五つください』と言ってお金を渡して品物を受け取るんですよ。最後に『ありがとう』とお礼を言うのを忘れないようにしてください」


 小太郎は年長者のような口調で威張って教えたが、姫は真剣に聞き、ぶつぶつと手順を口の中で繰り返して確認していた。

 栄盛は桜のふわふわ焼きが先でよかったと思った。魚の甘辛揚げは、たれが三種類あるのだ。

 姫は緊張していたが、どうにか煎餅を買うことができた。もっとも、お釣りをもらうのを忘れて、四人分を両手に持った栄盛が受け取る羽目になり、姫は小太郎に「そんなこと聞いていませんよ!」と抗議していた。

 桜の花の色と形をしたやわらかい煎餅は、ほんのりと甘かった。


「なぜこんな色なのですか」


 姫が不思議そうだったので、栄盛は説明した。


桜粉(さくらこ)という粉を使うのです。細かく砕いた米や小麦に、花や草から採った紅い染料で着色したもので、桜色をしています。桜粉を使った食べ物はたくさんあります。大福や饅頭や甘い餅の他、飴玉や綿飴(わたあめ)にもふりかけます。桜祭は食べ物も桜色なんです」

「桜色のお餅ですか! 絶対食べます!」


 姫は期待でとろけそうな表情だった。


「でも、その前に、甘辛揚げです!」


 魚の甘辛揚げは全員に希望のたれを聞いて、栄盛を運び役に、姫一人で買うことができた。

 たったそれだけのことで、姫は随分と興奮していた。栄盛も上流武家の御曹司(おんぞうし)なので自分で店に入って物を買うことは多くないが、桜姫の世間知らずは並はずれていた。確かに都見物は必要で、自分で言い出した姫は偉いと栄盛は思った。

 姫は桜のふわふわ焼きと魚の甘辛揚げが大層気に入って、「もっと食べたいけれど、他のものにも興味があるし……」と悩むくらいだった。買い物に自信を持った姫は、桜の間を抜ける広い中央参道を歩きながら、おいしそうな匂いを嗅ぎ付けると栄盛にあれは何かと尋ね、欲しがった。


「まだまだ屋台はあります。少しずつにされた方がよろしいですよ」


 お金は葵御前からたくさん預かっているが、このままではすぐに満腹になってしまう。栄盛は一人分をみんなで分けようと言った。

 姫は残念がったが頷き、買ってきたものを千切って小さな欠片をゆっくりと味わうと、残りを光盛たちにくれた。小太郎はとうに腹いっぱいになっていてもう入らないと言うので、皇女様の残り物とは(おそ)れ多いと思いつつも、男四人で頂いた。


 腹ごしらえが済むと、栄盛は姫を芝居小屋へ連れて行った。吼狼国(くろうこく)の建国神話を題材にした出し物を毎年かけていて、大層な人気だ。なんと、役者たちが顔だけ円く抜いた動物の衣装に全身を包んで演じるのだ。

 吼狼国神話には動物が多数登場する。

 伝説では、三千三百年前に初代の宗皇(そうおう)初大皇(しょたいおう)と妻の始女皇(しじょおう)神雲(しんうん)に乗って天から降りてきた時、青い狼百頭と赤い(からす)千羽を引き連れてきたとされる。最も大きく全身が銀色だった一頭と一羽が海に横たわって主な二つの島になり、飛び散った泥で周囲の小島ができた。体毛や羽毛は木々に変わって森をなし、目や胃などのくぼみに水が溜まって湖となった。狼の心臓は胸から転がり落ちて活火山の神雲山を作り、神雲は山にかかって天界と地界(ちかい)を区切った。

 初大皇(しょたいおう)が火口から金色の光の玉を取り出して狼たちに与えると、次に大きな緑の背中の五頭が公家になって宗皇に仕え、他は茶色く変わった二頭を残して民になった。続いて、始女皇(しじょおう)が光の玉を鴉たちに(さず)けると、様々な鳥や(けもの)のつがいに変化し、全身が黒くなった二羽と共に吼狼国各地に散らばって()み付いたという。


 この神話を役者たちが演じるのだが、格好がかわいいだけにどこか滑稽(こっけい)で笑いを誘う。その上、光の玉をもらった狼たちが衣装を脱いで人に変身すると、派手な着物を着た色っぽい美女だったり、(ひげ)の濃い熊のような大男の木こりだったり、武装した凛々しい女武者だったりして、予想が付かない。

 動物たちへ変身する際の早変わりも見物(みもの)だ。太鼓が激しく連打される中、ぱっと鴉の衣装を脱ぐのだが、角がある動物だと引っかかってしまったり、脚を抜く時よろけて転んでしまったり、大きな鴉の中に二人が隠れていて牛や馬になったりする。


「さあさあ、次は何の動物に変わるかな? これはかなり大きそうだぞ!」


 語り役も心得ていて、期待をあおるような言い方をする。役者たちは毎年奇抜な衣装や職業を用意して、観客を楽しませていた。

 物語の流れは当然桜姫も知っていたが、いい年の男たちが仮装して舞台の上をよろよろしながら、鳥や動物の鳴き声の物まねを披露すると、手を叩いて喜んだ。狼が法衣(ほうえ)をまとった祭官に変身した時には、役者のかつらが落ちて禿げ頭が見え、慌てて拾ってかぶる様に声を上げて笑っていた。


「次は、象を見に行きましょう」


 都の北にある隠湖国(こもりうみのくに)()(うみ)周辺には千頭ほどの象がいる。伝説では、初代宗皇夫妻を助けて町や大社の建設に大いに働いたそうだ。今でも労働力や見世物として、一部が飼育されている。


「大きいですね! 本当に鼻が長いです! 気を抜くと地面をこすってしまいそうです!」


 姫は象を見て感動していた。話には聞いていたが、実物の巨大さにびっくりしたらしい。


「大丈夫です。象の皮膚は厚いですから、地面の方がえぐれます」

「まあ!」


 冗談半分に言ったのだが、姫は本気で信じたらしかった。


「鼻で頭のてっぺんを撫でられそうですね。背中も広くて上に乗れそうです」


 感心したように言うので提案した。


「お乗りになりますか。昔は移動手段として利用したそうです」

「えっ、乗れるんですか?」

「ええ、子供がよく乗せてもらっています。ほら」


 向こうから歩いて戻ってきた一頭の背中に、小太郎くらいの男の子が乗っていた。


「栄盛様も乗ったことがあるのですか」

「あります」

「どうでした?」

「楽しかったですよ」


 答えると、仲綱が小声で指摘した。


「子供の時に度胸(どきょう)試しで乗せられて、泣いてしまったのはどなたでしょうね」

「余計なことは言わなくていい」


 にらむと、姫が噴き出した。栄盛と象を見比べてしばらく笑っていた。相当面白かったらしい。

 やがて姫は目に浮かんだ涙をぬぐって謝った。


「笑ってすみません。では、私も乗りたいです」


 栄盛は別に怒っていなかったが、少し仕返しをしてやろうと考え、象使いの老人に耳打ちした。


「では、桜姫様、こちらへおいでください」


 栄盛は姫を一番大きな一頭の横に立たせた。


「どうやって上がるのですか」


 姫は期待と不安の入り交じった顔をしている。


「えっ! きゃあ!」


 そっと後ろから忍び寄った別な一頭が、姫の体に鼻を巻き付けた。そのまま、鼻の先に坐らせて持ち上げ、最大の象の背中に運んだ。象の鼻にしがみ付いていた姫は、鼻が離れていくと、広い背中の上で大きく息を吐いた。


「びっくりしました」

「人のことは笑えませんね」


 栄盛が言うと、姫は誰がやらせたのか気付いたらしい。


「ああっ、私を驚かそうとしましたね!」

「人のことをあんなに笑うお姫様にはお仕置きが必要ですので」


 栄盛は言って、自分ははしごで姫の後ろに上がった。


「そこのひもにつかまってください。あまり動くと落ちますよ」


 後ろから手を伸ばして、象の背中に渡してある藁縄(わらなわ)をつかんだ。丁度両腕の間に、横向きに座った桜姫が入ることになる。姫は振り返って栄盛の顔を間近に見ると、頬を染めて前を向き、そっと胸に寄り添って体重を預けてきた。


「よろしいですか、動きますよ」


 姫が頷くのを確認して、前に乗っている象使いに言った。


「やってくれ」


 象使いの合図を受けて象が歩き出した。綱を引いて象を導く役目が一人いて、小太郎と護衛たちもそばを付いてくる。


「三人乗せても平気なのですね。本当に力が強いのですね」


 言いながら、姫は耳まで真っ赤だった。今回は昨日馬に乗った時よりさらに密着していて、ほとんど抱きかかえている。相手の息遣いが聞こえ、着物を通して温もりが伝わってくる。相手の心臓の音さえ聞こえそうだった。象使いの背中は「何を話しても私は気にしません」と語っていたが、二人は互いの存在を体で感じるだけで幸せで、黙っていた。

 象の通る道は決まっていて、人の少ない場所を短く一周するだけだ。それでも、普段は見上げる花が真横にあって、辺り一面に桜色の雲海が広がっている。通りの先に多くの屋台が立ち並び、着飾った人々が途切れることなく行き交っている。

 あちらこちらに張られた無数の桜幕。狼や桜や神雲山を描いた多くの大社の御旗(みはた)。飾られた数え切れない桜色の提灯(ちょうちん)と御神風を待つ風車の群れ。

 日常が少しだけ遠ざかって、他の人のいない姫と二人だけの世界にいるような錯覚を、栄盛は覚えていた。

 象から下りると、姫はお礼の芋を象にあげて、鼻や脇腹をやさしく撫でていた。

 やがて、姫は名残惜しそうに何度も振り返りながら歩き出した。

 が、すぐに立ち止まった。


「この方は何をなさっているのですか」


 道の脇で紙や道具を広げている人物が気になったようだ。


「似顔絵ですよ。絵が上手なんです」


 栄盛は説明した。


「今この場で注文した人の顔を()いてくれます。基本は墨ですが、お金を追加すれば、三色だけ色も付けられます」


 姫は真剣に見本の絵を見ていた。絵に描かれた人はここにいないので、どれほど似ているか確かめようがないが、かなりの腕前らしかった。


()いてもらいたいです」


 姫は絵師に言った。


「私と栄盛様を一緒に色付きで()いてください」

「いいですよ。でも、料金は二人分になります」

「かまいません」


 姫は栄盛の袖をつかむと隣に引き寄せ、肩と肩をくっ付けた。


「では、お願いします」

「桜姫様、もう少し離れた方が……」

「このまま描いてください。さあ、笑顔ですよ。一番いい顔で描いてもらいましょう」


 栄盛の抗議は聞き流された。絵師はおかしそうな顔をしたが何も言わず、真面目な表情になって二人を模写し始めた。

 いきなりたっぷりの墨で描き出したので大丈夫かと思ったが、絵はとてもよく姫の特徴をとらえていた。姫は興味と感嘆の交じり合った視線で、絵ができ上がっていく様子を眺めていた。


「よい思い出の品ができましたね」


 金を払って栄盛が言った。


「はい」


 姫は完成した絵を受け取ってしばらくじっと見つめていたが、少し悲しそうに微笑むと、丁寧に折りたたんで帯の間に仕舞った。


「一生大切にします。ありがとうございました」


 姫は絵師に深々と頭を下げて、歩き出した。


「次はどこですか?」


 やや無理をした笑顔を向けられて、姫を心配していた栄盛は慌てて答えた。


「大社の大絹絵(おおきぬえ)を見に行きましょう」


 栄盛は大社の建物の一つへ案内した。そこでは毎年、宝物(ほうもつ)の大きな織物を展示している。

 題材は様々で、四季の都の姿に花を組み合わせたものや、吼狼国の九つの州を大きな町や山や川、高名な産物で紹介したもの、海の向こうの恵国の街並みを描いたものなどがあった。

 桜姫が特に興味を持ったのは、吼狼国の歴史を扱った連作だった。

 芝居で見た建国神話。人口が少なかった頃の一つの村のような暮らし。宗皇が直接(まつりごと)を行っていた平和でおだやかな時代の祭りの様子。皇家の賢人が統治を任され、国が大きく発展した頃の町の風景。公家たちが協力して国を導き、大陸との交流が活発になった時代の玉都港と神雲山。

 どれも色鮮やかで細部まで丁寧に描かれていて、すぐれた技術が感じられた。


「これは俺たち武家の始まりですね」


 五百年前に大陸から新しい耕作法が伝わり、開墾が進んで商工業が発達すると、吼狼国各地に大地主や大商人が生まれた。領地や輸送する荷を守るために武装した彼等は、やがて武家と呼ばれるようになった。


「栄盛様は、どうして皇家が(まつりごと)に関わらないか、ご存知ですか」


 桜姫が尋ねた。常識だったので、栄盛は頷いた。


「はい。千百年前に当時の宗皇様がお決めになったそうですね」


 初代宗皇初大皇(しょたいおう)と妻の始女皇(しじょおう)は、天から降臨後共同で国をまとめていたが、亡くなる時、その仕事を二人の子供に分けて継がせた。姉の空雲皇女(そらくものみこ)に神を祭る役目を、弟の森原皇子(もりはらのみこ)に民と大地を治める役目を与え、互いにそれに専念して相手に干渉しないことを誓わせたのだ。

 皇家(おうけ)(そら)()の二家に分かれて千二百年が過ぎた頃、森原皇子の系統が争いと混乱の末に絶えた。だが、時の空の宗皇は政争に巻き込まれることを恐れ、初大皇への誓いを持ち出して自分の子を養子に出すことを拒み、地の皇家の遠縁の賢者を治天最上大臣に任じて民を治めさせた。以後、皇家は一系統となり、政権の最上位者が交代する時は、真澄大社の最高官である宗皇と見守る公家たちや民の前で、神と民と国のために(まつりごと)を行い私利私欲に走らないことを誓うのが慣例になっている。


「それ以来、皇家は(まつりごと)に関わってきませんでした。なのに、なぜ巻き込まれてしまったのでしょうか」


 栄盛は答えられなかった。姫の気持ちを思うと胸が痛んだ。桜姫は自分の結婚に納得していないのだ。

 当然だろう。姫は数年舞巫女を務めたあと、どこかの公家に嫁入りして静かに暮らすことになると思っていたはずだ。皇家はこれまで、子女が政治に利用されるのを避けようと、降嫁(こうか)させる相手は慎重に選んできた。なのに、いきなり治天最上大臣という最高権力者の妻にされてしまうのだ。

 桜姫は若く美しい。重材は姫の美貌と舞を民に披露した上で、自分の妻になることを公表するつもりだ。高貴な血筋の美女を得ることで、民を従えようとしているのだ。

 実に効果的なやり方だ。皇家の公認と民の支持を得た重材に対しては、不満があっても、公家も武家もしばらくは黙らざるを得ない。改革を推進し、国を救うためには必要なことだろう。

 だが、桜姫は不幸になる。批判を逸らす盾として利用されるだけで、夫婦とは名ばかりの寂しい一生を送ることになってしまう。


 姫は悲しそうにじっと絹絵を見つめていた。

 建物を出るともう夕方で、周囲につるされた多数の提灯が中央参道を桜色に照らしていた。

 予定ではこのあと夕食にして、屋敷へ戻るつもりだった。そろそろ暗くなるし、混雑も一層ひどくなってきた。このまま祭りは一晩中続くが、栄盛も姫も明日の支度があるのであまり遅くまで遊んではいられない。

 とても残念だったが、栄盛は護衛たちと目配せを交わして、魚ときのこが入った味噌味の煮込み麺の屋台に向かおうとした。

 ところが、横を歩いていた桜姫が急に立ち止まって言った。


「迷路に行きたいです」


 毎年この時期になると、大社前の広場の隅に大きな迷路が作られる。木製の雨戸のような板をつなげて先を見えなくしたもので、道は毎回変えてあり、祭りの名物になっている。姫は誰かに聞いて知っていたらしい。


「迷路はあまりお勧めできません」


 栄盛は渋った。警護しにくいからだ。二人一組で入ることになるし、うっかり離れてしまったらすぐには互いを見付けられない。護衛三人もやめた方がよいと言った。

 だが、姫は行きたいと言い張り、結局栄盛は折れた。大絹絵のあと、姫の表情が暗い。連れて行った栄盛には罪悪感があったし、最後を悲しい気持ちで終わりたくなかったので、楽しんでくれるならと思ったのだ。それに、姫と別れたらもう二度と会うことはない。もう少しだけ、あと一つくらいはよいだろうと、栄盛は自分に言い聞かせた。


「小太郎ちゃんと吉房さんは外で待っていてください」


 四十一歳の天衛兵(てんえいへい)は最後まで反対したが、姫は押し切った。吉房はやむなく「我々は出口にいます」と言って、絹絵を見ている間に小太郎に買ってこさせた烏賊墨饅頭を渡した。売り切れる寸前だったそうなので、もし買えなかったら栄盛は姫に恨まれるところだった。


「さあ、行きましょう」


 桜姫は饅頭を左手の巾着(きんちゃく)袋に入れると、先に入っていった若い男女の二人連れをまねて栄盛の手首を握り、引っ張っていく。


「ありがとう。ごめんなさい」


 迷路の入口の暖簾(のれん)をくぐる時、姫は吉房と小太郎を振り返ってつぶやいた。

 迷路は二人がやっと肩を並べることができるくらいの幅で、十歩も歩かぬ長さで道が曲がったり二つに分かれたりしていた。迷路の敷地は大社の本殿くらいあるので、出口までかなり歩かされる。既に空が暗く、ところどころの桜色の提灯だけでは先の様子が分かりづらかった。

 姫は腕を引いてぐんぐん進んでいく。早足で片っ(ぱし)から角を曲がるが、迷路は初めてらしく、同じ行き止まりに何度も入ったりして、なかなか先へ進まなかった。

 これでは疲れてしまうだろうと思ったが、姫が栄盛の方を見ないので、何も言わずに好きにさせた。

 散々さまよった末、とうとう姫は立ち止まった。


「一休みされますか」


 栄盛は声をかけた。迷路の途中に茶屋があって、背もたれのない長い腰掛がいくつか置いてある。場所が迷路の外周の壁の前で物品の搬入口があり、疲れたり諦めたりした人は外に出ることもできた。

 茶屋は先程通り過ぎたばかりだったので、栄盛は道を覚えていた。その時も声をかけたが、姫は首を振ったのだ。


「あの茶屋では甘い団子を売っています。桜粉を使っていて、なかなかおいしいですよ。それとも、お茶だけ頼んで烏賊墨饅頭を食べましょうか」


 姫は返事をせず、背を向けたまま動かなかった。桜色の提灯のほのかな明かりが二人を照らしていた。

 どうしたのかと思い、再度話しかけようとした時、姫は急に振り返った。


「春波重材様と約束なさったそうですね。私を護衛して無事に結婚させれば改革をすると」


 まっすぐなまなざしに、栄盛は思わず目を逸らしてしまった。


「お聞きになったのですか」


 頷いた姫の目には涙が浮かんでいた。


「はい、葵伯母様が教えてくれました。昨日栄盛様の様子がおかしかったので、重材様はどのようなお方なのか、栄盛様はなぜ私の結婚に賛成なさるのかと、しつこく尋ねたのです。それで、陛下にお会いして、栄盛様の主張なさる通りに改革を実行せよと、公家たちにお命じになることはできないのですかと申し上げました。ですが、(まつりごと)には口を出さぬ決まりだと、陛下はお断りになりました」

大権(たいけん)をお使いになっていただきたいとお願いされたのですか!」


 栄盛は顔色を変えた。

 宗皇大権。天から降臨した時に狼神(ろうしん)に吼狼国を任されたことを根拠とする、宗皇の絶対的な命令権。

 正直、栄盛も陛下に大権を使っていただけたらと思わぬではなかった。だが、皇家は吼狼国の民に絶大な支持を得ているので、命令されたら誰も拒否できない。それゆえに、滅多なことで使ってはならない力だった。


「今は国難の時ではありませんか、と申し上げたのですが、娘のわがままを実現するために使うことなどできぬと」

「わがままですか……。まことに陛下のおっしゃる通りです」


 宗皇の言葉が胸に突き刺さって、栄盛はうなだれた。

 (はた)から見れば、栄盛の恋など一時(いっとき)の病のようなものだ。しばらくは姫のことで胸が苦しくても、数年もすれば気持ちの整理が付くだろう。周囲の大人や世間は、もっとふさわしい結婚相手が他にいくらでもいると考えるに違いないし、それは恐らく正しいのだ。

 だが、納得できるかと言えば、無理だった。自分一人のことなら諦めて悲しみに耐えればよい。だが、この可憐な姫が犠牲になってあんな男の妻になるのかと思うと、胸が張り裂けそうになるのだ。

 栄盛は大声で叫びたい気分だったが、奥歯を噛みしめてこらえ、抑えた低い声で言った。


「重材公と結婚なさるのが国のためだと陛下はご判断されました。私は吼狼国の民として、治天府に仕える武家の一人として、それに従います」


 栄盛は皇女殿下に(こうべ)を垂れ、礼をとった。


「殿下のご結婚を決して無駄には致しません。民のため、武家のために全力で働き、この国を救って見せます」

「聞きたいのはそんな言葉ではありません!」


 姫は叫んだ。


「私は栄盛様が好きなのです!」


 言うなり、姫は抱き付いてきた。


「私を連れて逃げてください!」


 姫は決して離さないというように、栄盛の胴をきつく抱き締めた。


「今なら私たちだけです。こっそりとここを出ましょう。二人でどこか遠くへ行って、身分を隠して暮らしましょう」


 栄盛は姫に抱き付かれて呼吸が止まった。姫を全身に感じて抱き締めたい衝動に襲われた。だが、その勇気が出なかった。思わず上げた両腕を、姫の背に回したものか、そのまま下ろしたものか、決断できず、我ながら無様な格好だと思いながら動けなかった。

 姫は栄盛の肩に顔をうずめて言った。


「葵伯母様に事情を聞いて、一晩考えて、今朝決めました。実は、伯母様にはもう栄盛様とは会わない方がよいと言われたのです。ですが、どうしてもまた会いたくて、断られるとしても私の気持ちを伝えたくて、ここへ来ました」


 栄盛は全身が震えそうなほどうれしかった。同時に、胸を引き裂かれるように悲しかった。


「なぜ俺なのですか」

「栄盛様を好きなことに理屈なんてありません。はっきりした理由など始めからないのです。ただ好きです。どうしようもなく好きなのです。ずっとそばにいて、寄り添って笑い合っていたいのです。こんな気持ちは生まれて初めてです」


 姫は涙を流していた。


「あなたを好きなことがとても苦しいのに、これほど幸せです。一人の娘が、好きな相手のそばにいたい、結ばれたいと望むのはおかしなことですか。あなたも侍従長や伯母様たちと同じように、身分や役目を言い訳にして、私に想いを諦めろとおっしゃるのですか」


 姫は悲しみに耐えるように抱き付く腕に力を入れた。


「自分の心を押し込めて犠牲になることが、本当に国のため、民のためなのですか。私の先祖たちは皆このような苦しい思いをしてきたのですか。この国では誰もが自由には生きられないのですか。母は間違っていたのですか。これはわがままです。それは分かっています。でも、止められないんです」


 姫はかすれた声でささやいた。


「私が皇女でさえなければ……」

「それはおっしゃってはなりません!」


 栄盛は我慢できなくなってさえぎった。


「あなたはそれだけはおっしゃってはならないのです」

「では、どうすればよいのですか! 二十近くも年上で、側女(そばめ)が十人もいて会ったこともない人と、愛のない結婚をしろとおっしゃるのですか!」


 姫は叫んだ。


「あなたはどうやって納得しているのですか。教えてください。私はもう限界です。いっそ死んでしまいたいくらいです」


 姫は栄盛の肩に顔をこすりつけていやいやをした。


「栄盛様と結ばれるのは難しいと頭では分かります。でも、この胸が栄盛様を求め続けるのです。ですから、理屈では納得できません。想いには想いで答えてください」


 桜姫は涙に濡れた目で栄盛を見上げた。


「栄盛様のお気持ちをお聞かせください。私を愛してくださっているのですね。一緒に逃げてくださいますか。もし、好きではないとおっしゃるのでしたら、私は我慢して、あなたをあきら……」


 姫はそれ以上言えず、唇を固く結んで嗚咽(おえつ)をこらえた。

 栄盛は泣きたかった。これほど心の底からそう感じたことはなかった。じわじわと目が潤んできた。

 言いたかった。私も桜姫様が好きです、と。あなたのお気持ちがうれしい、あなたと結ばれたい、一緒に逃げましょう、と。

 だが、無理だった。叔父を、戦場で戦っている仲間たちを、裏切ることはできない。自分一人の幸せのために、多くの人々を不幸にすることは許されなかった。

 ためらった末、栄盛は上げたままだった腕を下ろした。

 それを体の動きで知って、姫は栄盛の返事を悟ったらしかった。姫はもはや泣き声を抑えようとせず、しゃくり上げ始めた。


「どうして、どうしてですか!」


 姫は胸に抱き付いたまま泣いた。栄盛は姫が哀れで、この上なく(いと)しく、自分はこの人をこれほど好きなのだと思った。

 同時に、これはまずいと感じた。もう自分を抑えるのは限界だった。これ以上姫のそばにいたら、一緒に逃げましょうという言葉が口から飛び出してしまいそうだった。

 栄盛は姫の両肩に手をのせ、ゆっくりと引きはがした。

 顔を上げた姫を見ずに、栄盛は言った。


「のどが渇いておいででしょう。茶を買ってきます」


 あからさまな言い訳だった。自分は逃げ出そうとしている。だが、そうしなくてはいけないと思った。


「すぐに戻ってきます」


 突き放すように姫から離れて、栄盛は駆け出した。引き止める姫の声が聞こえたが、振り返らなかった。

 茶屋は反対方向だったがかまわず一気に走って角を曲がり、適当に右折左折を繰り返して、息が苦しくなったところでようやく止まった。

 木の壁に手を付いて荒い息をして、数度咳き込んで、つばを飲み込むと、ようやく顔を上げた。

 そのまま数回深呼吸した。胸の悲しみを息と共に追い出すように。

 やがて、少し気持ちが落ち着いてきた。姫に引っ張られた着物を直し、肩を三度回して呼吸を整えると、栄盛は辺りを見回して、気が付いた。

 栄盛は一人だった。つまり、桜姫も一人になっている。

 栄盛は青ざめた。自分は姫の警護のために祭りに来たのではなかったか。

 慌てて戻ろうとしたが、無茶苦茶に走ったので迷ってしまった。ようやくこの辺りだったと思うところまでくると、地面に紙が落ちていた。先程描いてもらった似顔絵だった。

 嫌な予感がした。茶屋へ走っていって尋ねると、そこの主人と給仕の娘が顔を見合わせて言った。


「先程、桜色の着物の上品な娘さんが、怪しい浪人風の男五人に囲まれてそこの戸口から外へ出て行きました。無理矢理引っ張っていくので声をかけようとしたのですが、刀を向けて、黙っていろと脅されまして。今、警備のお武家様に通報しようと相談していたところだったのですよ……」


 最後まで聞かずに栄盛は走り出した。戸口を飛び出して辺りを見回したが、姫もその連中も見当たらなかった。


「しまった」


 栄盛は大きく指笛を三回鳴らした。決めておいた緊急時の集合の合図だ。すぐに三人の護衛と小太郎が駆け付けてきた。二人ずつに分かれて入口と出口を見張っていたのだが、茶屋用の搬入口のことは忘れていたらしかった。

 話を聞いて西門吉房は顔色を変えたが、栄盛に文句を言って時間を無駄にするようなことはしなかった。


「すぐに手分けして探しましょう。刀で脅しながらでは目立つでしょうから、人の多い方には行っていません。恐らく、桜の中へ逃げ込んだのでしょう。栄盛様は仲綱殿と東側の林を探してください。私と典昭殿は南の墓地の方へ向かいます。小太郎殿は急いで警備の武者に知らせてください」

「祭りの警備は舞木家の担当だ。肩上(かたうえ)宗延(むねのぶ)が大社本殿に詰めている。俺と姫の名前を出せばすぐに動いてくれるはずだ」

「分かりました」


 少年は全速力で駆け去っていった。


「では、参りましょう」


 吉房たちと別れると、栄盛は仲綱と共に暗い林の奥へ入っていった。

 互いの声が聞こえる程度に離れて走りながら周囲を見回したが、皇女の姿は見付けられなかった。耳を澄ましても若い女の声は聞こえない。

 もしかしたら口を手で塞がれているのかも知れないな。

 そう思って、栄盛は怒りで体が震えそうになった。

 姫のあの赤い唇に他の男の指が触れているなんて。

 想像するだけで殺意が湧いた。

 今すぐに姫を取り戻したかったが、賊の居場所はなかなか分からなかった。夕闇が濃く、満開の桜が立ち並ぶ林はひどく視界が悪い。連中がたいまつでも持っていれば目立つのだが。

 別な方向へ逃げたのだろうか。見晴らしのよい墓地より桜に紛れてしまえるこちらだと思ったが、違ったか。

 栄盛は必死で頭を巡らせた。

 何か手掛かりはないか。きっとあるはずだ。

 そう思って、ふと上を見上げると、前方の木の間を何か白いものが飛び回っているのが見えた。きらり、きらりと光って動いている。


 白いももんがだ。

 栄盛は気が付いた。空の月はごく細いが、小山の上の大社で多数のかがり火がたかれていて満月の夜のように明るい。それを反射しているのだ。恐らく、姫が捕まった時に逃げ出し、木の間を滑空しながら主人を追いかけているのだろう。

 距離は思ったよりも近そうだった。嫌がる姫を無理矢理連れて行こうとしているから、歩く速度が遅いのだ。

 栄盛は仲綱に近付いて無言で上を指差した。仲綱は首を傾げたが飛び回る光に気が付き、頷いて足を速めた。先回りするのだ。栄盛は(はや)る心を抑え、足音を殺して駆けていった。

 いた。賊が五人と桜姫だ。一昨日姫を襲った連中だった。姫は抵抗しているが、二人に腕を引っ張られて歩かされている。その頭上をももんがが警戒の声を立てながら飛び回っていた。

 姫の白い肌にあざでも残してみろ。生かしておかないぞ!

 細い手首をつかんでいる男たちの腕を、今すぐに斬り落としてやりたかった。

 見付からぬよう、花の陰に隠れて賊に接近すると、走るのをやめて呼吸を整え、腰の刀の具合を確かめた。

 前方で口笛が響き、仲綱が刀を手に飛び出してきた。


「待て! そのお方をどこに連れて行く!」


 叫びながら仲綱は先頭の一人に斬りかかった。「追手だ! 気を付けろ!」

 姫の手をつかんだまま頭が叫んだ。が、先頭を歩く手下は不意をつかれて対応が遅れた。仲綱はその隙を見逃さず、相手が慌てて短刀を構える間に急迫し、数合の末に斬って倒した。近習頭として栄盛と共に戦場で戦った猛者(もさ)だ。浪人ごときがかなう相手ではない。

 敵は仲綱に気を取られている。栄盛は桜の陰を走り出た。


「桜姫様、ご無事ですか!」


 目の前の一人に背後から一気に迫った。


「邪魔だ! どけ!」


 驚いて振り向いた敵の短刀を、栄盛は一刀で弾き飛ばした。自分でも驚くほど全身に闘志がみなぎっていた。


「栄盛様!」


 気が付いて姫がうれしげに叫んだ。

 あっという間に仲間二人が戦闘不能になって賊は動揺した。栄盛と仲綱は他の三人も勢いに乗って片付けようとしたが、頭が怒鳴った。


「てめえら、この姫がどうなってもいいのか! 今回の依頼は、連れてくるのが無理なら殺してもかまわねえと言われてるんだ!」


 頭は仲間を叱り付けた。


「しっかりしろ! こっちには人質がいるんだ。さっさとやっちまえ!」


 手下たちは頷き、桜姫を頭にまかせて、短刀を抜いて迫ってきた。仲綱にも一人が向かっていく。こちらが攻撃できないのをよいことに無茶苦茶に斬り付けてくるが、栄盛は余裕を持ってよけた。まるで負ける気がしなかった。姫を救うためだと思うと、こんな敵は何でもなかった。

 相手が息切れして足を止めると、栄盛は(ふところ)の烏賊墨饅頭を取り出して左手に握った。


「桜姫様、饅頭をどうぞ!」


 姫は首を傾げたが、信じ切った様子で頭に見付からぬように左腕の巾着のひもを緩めた。

 栄盛は饅頭を高く掲げると、手下に投げ付けた。


「これでも食らえ!」

「何だ?」


 手下は大きな身振りでそれをよけた。饅頭と言って本当は石だったらまずいからだ。辺りが暗いので、黒いものはよく見えないのだ。

 丸い饅頭は闇の中に飛んで行ってしまった。


「てめえ、あんなもので何がしたいんだ?」


 本当に饅頭だったらしいと知って、頭はばかにした口調で言った。その瞬間、姫は自分の饅頭を頭の顔に思い切り叩き付けた。


「えいっ!」

「おわっ!」


 饅頭だから痛くはない。だが、頭は驚いた。崩れた饅頭の欠片と白い豆の餡子(あんこ)が目に入り、一瞬視界が濁った。その隙に、姫は腕を振り払って頭から離れた。


「栄盛様、逃げました!」

「お見事です! 今参ります!」


 栄盛は叫びながら、前に大きく踏み込んで手下に刀を振るった。手下は栄盛と姫の饅頭攻撃に呆気に取られていたので、慌てて飛び下がってよけた。それを無視して栄盛は一気に頭に迫り、片手で顔をぬぐっている相手と姫の間に割り込んだ。


「桜姫様は返してもらうぞ!」

「お二人ともさすがです! さあ、形勢逆転したぞ! 観念しろ!」


 栄盛が動くと同時に仲綱も目の前の相手に襲いかかり、相手の右腕を使えなくしていた。


「畜生め! て、撤退だ!」


 頭は一瞬迷ったが、身をひるがえして逃げ出した。腕の立つ武家二人を倒して姫を奪うのは不可能と悟ったのだ。手下たちも怪我を負った仲間を助けながら続いた。


「追いかけましょうか」


 仲綱が尋ねた。


「いや、やめておこう」


 賊を捕らえれば秋影家が皇女を誘拐しようとしたことを証明できるかも知れない。だが、栄盛は姫を無事に取り戻せたことに心底ほっとしていたので、これ以上戦う気持ちはなかった。それよりも二人で姫の安全を確保するべきだった。


「栄盛様!」


 刀を鞘に納めると、姫が抱き付いてきた。


「必ず来てくださると信じていました!」

「お怪我はありませんか」


 栄盛はやさしく言い、謝った。


「お一人で置き去りにして、申し訳ございませんでした」

「いいのです。助けにきてくださったのですから」


 姫は首を振った。


「他の方のことは考えませんでした。きっと栄盛様が助けてくださると思っていました」


 姫は涙ぐんでいた。

 栄盛は感動した。やはりこの姫が愛しいと心の底から強く思った。

 姫は栄盛の肩に頭を寄せた。


「そばにいてください」

「桜姫様……」

「栄盛様のお返事が変わらないのは分かっています。ですが、もう少しだけ、こうしていたいのです」

「分かりました」


 栄盛は答え、少しためらって、自分も姫の体を抱き締めた。


「饅頭が駄目になってしまいましたね」

「一緒に食べたかったです」

「私もです。もう売り切れていますが、明日、届けさせます。きっとこれから、私は饅頭を見るたびに桜姫様を思い出すでしょう」

「栄盛様……」


 姫が悲鳴のような声で名を呼び、栄盛の体をぎゅっと抱き締めた。栄盛も腕に力を入れた。

 もうすぐ姫とはお別れだ。明日には重材との婚儀がある。

 でも、今だけは素直になろう。口にはできない想いを全身で伝えよう。

 栄盛の目に涙があふれてきた。姫も声を殺して泣いていた。仲綱は溜め息を吐いたが、何も言わず、よそを向いて見ないふりをした。白いももんがが飛んできて姫の背中に貼り付き、肩に駆け上がった。

 そうして、二人はしばらく抱き合っていた。何もかも忘れて、幸福と悲しみにひたっていた。最後の思い出のつもりだった。

 が、その甘く温かな気持ちを、突然甲高(かんだか)い笑い声が破った。


「見たぞ! 栄盛、この目で見たぞ!」

「その声は、まさか、行盛(ゆきもり)!」


 栄盛は慌てて周囲を見回した。いつの間にか、三十名ほどの武装した武者に取り囲まれていた。


「若殿、これは一体……!」


 筆頭家老の肩上(かたうえ)宗延(むねのぶ)はあごがはずれそうな顔だった。

 一歳下の弟は、自分の勝利と優位を確信した声で言った。


「桜姫様は春波重材公とご結婚なさるご予定だ。そのお方をお前ごときが奪おうというのか! 殿下の危機と聞いて駆け付けてくれば、まさしくこれは一大事だ。重材公と名重公にすぐにご報告せねばならぬ。大方、お前が無垢(むく)で世間知らずな殿下に懸想(けそう)し、たぶらかしたのだろう。そんな男に舞木家の当主は任せられぬ。春波家も陛下や皇太子殿下も激怒なさるだろうな」

「栄盛様……」


 桜姫は青ざめて体を離そうとしたが、栄盛は逆に姫をきつく抱き締めた。

 いまさら誤魔化そうとしても無駄だと分かっていたからだった。

 遠くからかすかに祭りの喧騒(けんそう)が聞こえていた。

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