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第二章 再会

 翌日の朝、栄盛は直垂(ひたたれ)烏帽子(えぼし)で正装して、主家(しゅけ)の公家春波(はるなみ)家の屋敷へ出かけた。昨夜、大社に寄進の品を収め、法要と納骨を終えて屋敷へ帰ってくると、春波(はるなみ)家から明朝来てほしいと連絡が届いていたのだ。

 武家の棟梁(とうりょう)である守京(しゅきょう)五家には、それぞれ主家と仰ぐ公家がある。始祖(しそ)の公家と呼ばれる五本家(ごほんけ)だ。

 武家が力を付けて台頭(たいとう)してきた時、公家勢力の頂点に立つ始祖の五家は有力な武家をそれぞれ一つずつ家臣に迎え、特権を与えて保護した。かわりに守京五家は武家をまとめて公家たちの治天府(ちてんふ)に従わせ、武力を提供している。


 春波家には使いを送って、基龍の捕縛(ほばく)成功と高桐軍の後退を伝えてあった。恐らく、呼び出されたのは、彼等と交わした約束について尋ねるつもりなのだろう。

 ならば丁度よいと栄盛は思った。春波家の当主名重(なしげ)は現在治天(ちてん)最上(さいじょう)大臣(だいじん)の職にあり、吼狼国の(まつりごと)の最高責任者だ。戦の詳細を報告し、基龍の助命と武家の地位向上を願おう。

 基龍の挙兵はこれまでの小規模な地方反乱とはわけが違った。守京五家の一つが配下のほぼ全軍を率いて反旗をひるがえしたのだ。公家たちも相当焦ったはずだった。

 共に大将を務めた瓜棚(うりだな)敏雅(としまさ)蒲火(がまひ)氏猛(うじたけ)には承諾を取ってある。都を守った栄盛たち三家も改革を望むことを伝えれば、公家たちも真剣に受け止めざるを得ないだろう。

 なんとしても説得しようと、意気込んで都の南にある広大な屋敷に足を踏み入れたが、話は栄盛の予想に反してうまく進んだ。


「なるほど。そちの要望はよく分かった」


 栄盛の進言を聞いて、春波重材(しげき)は大きく頷いた。


「今は国難の時。武家には力を尽くして戦ってもらわねばならぬ。味方同士で争っている場合ではない。公家も身を引き締め、武家が納得して戦うような条件を治天府(ちてんふ)から示す必要があるだろう。父上も同じお考えだ」


 重材(しげき)が背後の上座に座る父を振り返ると、現大臣の名重(なしげ)も言った。


「春波家は栄盛殿の提案に賛成だ。基龍の助命はかなり難しかろうが、武家を刺激せぬためという主張はもっともだ。他家を説得してみよう」

「ありがとうございます」


 栄盛は平伏しながら内心驚いていた。

 公家たちは地位と利権にしがみ付き、古臭い権威を振りかざして改革を拒んできた。春波名重はそういう公家たちを三十年余りに渡って率いてきた人物で、守旧派(しゅきゅうは)の代表格と(もく)されていた。この半年、栄盛が父を通したり手紙を送ったりして繰り返し陳情しても全く相手にされなかったので、改革に賛成するのは実に意外だった。

 恐らく、恵国との戦いの厳しい状況と武家の不満を、さすがにもう放ってはおけないと考えたのだろう。叔父の都への進軍は無駄ではなかったと栄盛は思い、助命をなんとしても実現しようと心に誓った。


「では、早速、煙野国(けぶりののくに)へ人をやって、高桐軍へ知らせましょう」


 主張がすんなりと受け入れられたことに拍子抜けしつつ、ほっとして栄盛が言うと、重材は急に声を落とした。


「それはまだ早い」

「なぜでございましょうか」


 栄盛が顔を上げて尋ねると、重材は難しい表情で腕を組んでいた。


「春波家はそちの提案を支持するが、多くの公家は反対しよう。恐らく、現状で賛成に回るのは五家だけだ」


 公家は二十五家あるが、うち五家が始祖の本家で、残りは分家が四家ずつだ。つまり、春波家の一門以外は反対するだろうというのだ。


「ですが、名重様は大臣でいらっしゃいます。説得は不可能ではないと存じますが……」


 と言いかけて、栄盛ははっとした。春波名重が大臣を引退するという噂を聞いていたのだ。

 まさか、と思って見上げると、重材は頷いた。


「実は、父上は体調がおよろしくない。もうお年も六十を超えられた。次の桜祭で引退をお考えなのだ」


 祭りは明後日だ。


「では、次の大臣は夏雲(なつくも)外朝(ととも)様でしょうか」

「それが決まらず、もめておる」


 重材は言った。


夏雲(なつくも)家は高桐家の主家だ。家臣の基龍が都へ向かって進軍し、(おそ)れ多くも宗皇陛下に(やいば)を向けようとした。その罪を問う声が上がっておるのだよ」

「では、秋影(あきかげ)視頼(みより)様が就任なさるのですか」


 栄盛が尋ねると、重材はまじめくさった表情で告げた。


「そういう話も出ておるが、父上はわしに継いでほしいとおっしゃっておられる」


 そういうことか。栄盛は事態を理解した。

 始祖の公家は、春波家、夏雲家、秋影(あきかげ)家、冬鼓(ふゆつづみ)家、常葉木(ときわぎ)家の五家だ。慣例では、この順番で治天最上大臣を務めることになっている。だが、夏雲外朝(ととも)の継承に秋影視頼(みより)が反対して、自分が継ぐべきだと主張した。激論が交わされたが、結局夏雲家は継承を断念し、秋影家に譲ることで話がまとまりかけた。ところが、そこへ、春波名重が、それならば自分の息子に継がせる方がよいと言い出したのだ。


 名重の言い分はこうだ。大臣交代時には、旧大臣の家に連なる公家や武家は官を辞し、新大臣の縁者や家臣がかわって就任することになっている。だから、次に継ぐはずだった夏雲家にはいつでも継承できるように覚悟と用意があったはずだ。しかし、秋影家は準備不足で、治天府がうまく機能し始めるまでしばらくかかり、この国難の時に大きな停滞が避けられない。その点、息子の重材に継がせれば、多くの役人はその地位にとどまることになるし、政策も継承できる。名重が後見すればまだ三十二歳と若い重材の経験不足も補えるというのだ。

 この提案に、常葉木(ときわぎ)井浄(いきよ)が賛成した。このままでは自家に大臣の座が回ってくるまで五十年以上かかるので、順番を固定しない方が得だからだ。重材ははっきりとは口にしないが、どうやら彼の次は常葉木家に回すという密約があるようだった。


「もし秋影家が継げば、蕪割(かぶらわり)家が近衛上狼将(じょうろうしょう)になる。だが、今、蕪割(かぶらわり)家は勢力圏の足の国を守るために恵国軍と戦っていて、当主も現地にいる。とても役目を果たせる状況にない。それよりも、武名の高い栄盛殿を任命して都の守備を任せ、恵国との戦の総指揮をとらせる方が現実的だ。反乱を起こした基龍を上狼将にするのは難しいが、栄盛殿が相談役にするのは問題ないはずだ」


 やはり、これは権力を失いたくない春波家が起こした騒動なのだと栄盛は悟った。今、都にいる兵力は舞木家の二万と常葉木家に仕える蒲火(がまひ)家の一万、それに瓜棚家の一万で、高桐家と蕪割家の武者はいない。夏雲家や秋影家に動かせる兵力がない隙をついて、春波家は前例のない息子への継承を強引に行おうとしているのだ。

 舞木家は名重に命じられて、(なか)(くに)からさらに三万を都へ呼び寄せているところだ。蒲火家も二万が勢力圏の(くび)(くに)から都へ向かっている。どちらも明日到着するはずなので、その兵力を背景に権力の移譲を認めさせるつもりに違いない。


「どうだ。そちにも悪くない話だろう。そのかわり、瓜棚(うりだな)家の説得を頼みたい。主家の冬

(ふゆつづみ)家は中立を保ってどちらにも加担せずにいるが、それでは混乱が長引き、国にとってよいことではない。そちは瓜棚敏雅(としまさ)と親しいそうだな。彼を口説いて、主家を説得するように頼んでくれ」


 重材は年齢が半分の栄盛をあやすような口ぶりだった。


「もちろん、我々も冬鼓(ふゆつづみ)高兄(たかえ)殿と交渉はするが、彼は賛成の多い方に味方すると言っておるので、瓜棚家がわしを支持すれば、恐らく頷くだろう」


 栄盛はなるほどと思ったが、まだ疑問があった。


「ですが、失礼ながら重材様はまだお若くていらっしゃいます。皆が大臣就任を納得するでしょうか。名重様の後見があるとはいえ、難しい(かじ)取りを迫られるこの時勢には、もっと年が上で経験豊富な方がふさわしいと、反対なさる方がいらっしゃると存じますが」

「かも知れぬな」


 主家の跡継ぎの能力を疑っていると受け取られかねない思い切った指摘だったが、重材は否定しなかった。権力に目がくらんで現実を見失うほど愚かではないようだ。


「その批判は父上もわしも予想しておる。よって、お墨付きをもらうことにした」

「と、申されますと」


 尋ねると、重材はにやりとした。


皇家(おうけ)の姫と結婚する。宗皇陛下の御長女で舞巫女の桜姫殿下だ。春始節の桜祭で、姫の舞が終わった直後に発表し、そのまま夕刻に婚儀を挙げる。既に、当家に味方する家々には内々に伝えてあり、花嫁衣装などの準備も整っておる」

「なっ……」


 昨日あの少女が見せた(うれ)いの表情が目に浮かび、栄盛は蒼白(そうはく)になったが、重材は気付かぬ様子で得意げに語った。


「皇家に認められたとあっては反対できまい。父上が何度も天宮に足を運んで陛下と皇太子殿下を説得申し上げ、民のためならばと、遂にご承諾いただいた。ところが、昨日の襲撃だ。婚約の使者が聞いてきたが、そちが姫をお守りしたそうだな」


 重材はいまいましそうな表情になった。


「結婚の話は秘密()に進めておったのだが、どこからか()ぎ付けたらしくてな。恐らく秋影家の差し金だろう。姫を誘拐して結婚を阻止し、自分の妻にでもするつもりかも知れぬ」


 桜姫がそんな陰謀に巻き込まれていると知って、栄盛は激しい怒りを覚えた。あの純真な乙女には、好きな舞の稽古に打ち込み、伯母や家臣たちと笑い合っているような平和でおだやかな暮らしが似合う。政治の道具として利用され、愛情を欠片(かけら)も持たない男の妻にされて、まっすぐな瞳と無邪気な笑みが曇り濁っていくのは、あまりにも哀れではないか。

 しかも、この男が夫になるのか。

 栄盛は奥歯を噛み締めて胸に広がる悲しみをこらえた。

 重材は前妻を亡くしているので正室はいない。しかし、側室が十人もいる。他にも、宮中の女官複数と浮名(うきな)を流している。女好きの遊び人なのだ。

 栄盛の見るところ、重材は女という美しい生き物を崇拝し()でているのではない。征服し、蹂躙(じゅうりん)し、服従させることで、自分の権力と優位を確認して満足感に(ひた)っているのだ。重材には、そういう嗜虐的(しぎゃくてき)で自己陶酔的なところがあった。

 こんな男に、あの姫が……。

 栄盛は両のこぶしを強く握り締めた。重材は結婚の話に驚いていると思ったらしく、言葉が栄盛の頭に()み込むように、語る速度を落とした。


「実はな、そちにはもう一つ頼みたいことがある」


 重材は断られることなど全く考えていないような気軽さで言った。


「桜姫との結婚と大臣就任は明後日の桜祭だ。それまでに各所への根回しは終わるはずだが、あと二日の間に姫の身に何かあれば、全てが駄目になる。しかし、姫に天宮に籠もって外出しないでいただきたいとお願いしたら断られた。葵姫殿下の屋敷で舞の稽古をせねばならないし、都を見物なさりたいのだそうだ。姫は都を歩かれたことがないそうでな」


 重材は姫のわがままが気に入らないらしかった。


「何でも、五歳の時に雲居国(くもいのくに)へ連れて行かれて、ずっとそちらで過ごされていたらしい。桜祭も初めてだそうだ。世間知らずを少しでも改善するため、都を(めぐ)って祭りを楽しみたいとおっしゃるのだ。結婚したら滅多に外に出られなくなるゆえ、せめてこの二日は自由を許してほしいとな。では、警護の武者をお付けしましょうとご提案したが、目立たぬようにお忍びでの見物をご希望でな」


 まさか、と思って見上げると、重材は頷いた。


「せめて腕の立つ者をおそばにお置きくださいと申し上げたら、姫はそちの名を挙げた。昨日浪人を追い払った時に腕前は確かめたし、人柄も信用できるとおっしゃったそうだ。伯母の葵姫殿下は始め反対されたが、最後にはあの方ならと賛成なさった。そういうわけで、そちに姫の警護を頼みたい。今日と明日、都を見て回る姫に付き添って差し上げてくれ」


 栄盛は言葉が出なかった。それを嫌がっていると受け取ったのか、重材はなだめるような口調になった。


「面倒な仕事で気が進まないのは分かるがやってもらいたい。姫を守ることは我々にとって絶対条件なのだ」


 栄盛は迷った。警護が嫌なのではない。傷付けようとする者たちからあの姫を守るためなら何でもしたいし、また会えると思うと体がうずうずするほど喜びがこみ上げてくる。

 その一方で、やめておいた方がよいのではないかという声も胸のうちにあった。

 昨日、あの姫のことは思い切ろうと決めた。桜の下の出会いは春の一時(いっとき)の夢、早く忘れようと自分を説得したはずだった。

 だが、また会ってしまえば、期待してしまう。姫が自分を指名したと聞いてひどくうれしかったが、同時に恐ろしかった。姫を前にして、胸の高鳴りを抑えられるのか。かえって姫も自分も傷付き、苦しむことになるのではないか。

 栄盛が黙り込んでいるので、重材はいらだって言った。


「姫に何かあればそちを近衛上狼将にするという話は消えるのだぞ。武家の地位向上もできなくなる。あくまで拒否するのならば、舞木家の家督は弟に継がせてもよいのだからな」


 栄盛には母の違う弟が二人いる。栄盛は最初の正室の子で、後妻の子の行盛(ゆきもり)が十五歳、側室の子の季盛(すえもり)が十四歳だ。季盛(すえもり)は家督を始めから諦めているようで栄盛と仲良くやっているが、行盛(ゆきもり)は次期当主に指名してくれと父興盛(おきもり)に母と共に働きかけていた。家督継承は主家である春波家の承認が必要なので、重材は栄盛が反抗するようなら家督継承に口を出すと(おど)しているのだ。


「わしは恵国との戦いで勇名を()せた栄盛殿に近衛上狼将を任せたい。姫の警護、引き受けてくれるな?」


 そうだ。一番の目的を忘れるな。

 栄盛は自分に言い聞かせた。

 桜姫殿下をお守りすることは、叔父上のため、全国の武家のため、ひいては国のためだ。これは必要なことなのだ。個人的な感情など問題ではない。

 自分を誤魔化して都合のよい結論を出したような気がしたが、栄盛は承諾の返事をした。


「分かりました。姫殿下の警護を務めます」


 そう口にすると、不本意なことに胸がわくわくした。今すぐにでも姫のもとに駆け付けたかった。

 だが、その前にすることがある。


「瓜棚家の説得もお任せください。これから訪問し、必ず味方に引き込みます。ですので、武家の地位向上の件、是非ともよろしくお願い申し上げます」


 重材はほっとした顔になった。


「ありがたい。その労には必ず報いよう。約束は間違いなく実行する」


 大臣になった自分を想像しているのか、頬が緩んでいた。

 こんな男に姫を……。

 嫌悪感といらだちが再び心の底から湧き上がってきたので、栄盛は顔を伏せ、深々とお辞儀をして屋敷をあとにした。



 栄盛は春波邸を出ると馬にまたがり、瓜棚家の屋敷へ向かった。先に家臣を派遣しておいたので、門前に立つとすぐに中へ通された。

 当主の敏雅はにこにこ顔で栄盛を迎えた。


「昨日、帰京後に冬鼓(ふゆつづみ)邸に行って高兄(たかえ)様に戦いの様子をご報告したのですが、よくぞ都を守ってくれたと大層ほめられました。私は大したことはしていないのですが」


 敏雅は(たまわ)ったものだと干し柿を出してくれた。


「あれは栄盛殿の手柄ですから、君にも届けたいと思っていたところだったのですよ」


 栄盛は白く()がふいた甘い柿をありがたく一口かじったが、すぐに表情を引き締めて用件を話した。


「なるほど……。つまり、重材公の大臣就任に賛成するように、高兄(たかえ)様に働きかけてほしいのですね」


 敏雅は考える顔になった。


「そうだ。君から申し上げてもらいたい。基龍公を助命し、国を救うには他に方法がないのだ。頼む」


 栄盛は頭を下げた。敏雅は手に干し柿を持ったまま沈黙し、しばらくして言った。


「依頼の内容は分かりました。ですが、重材公はあまり評判のよろしいお方ではありません。今まで名重公の陰に隠れていて政治手腕が定かではないですし、国を率いていけるのでしょうか」


 敏雅はずばりと尋ねてきた。


高兄(たかえ)様も当家も政争に巻き込まれたくないので中立を保っていますが、次の権力者に(うと)まれたくはありません。重材公が継ぐと確定しているのなら、反対しても無益ですから、無論賛成に回ります。しかし、すぐに失策を犯して失脚しそうな方に味方は致しかねます」


 栄盛は遠慮のない言葉に苦笑したが、他言無用と前置きして、桜姫との結婚の話を打ち明けた。


「皇家の姫とですか!」


 敏雅は目を見張り、腕組みをして(うな)った。


「では、ほぼ確定なのですね。地位も安泰でしょう。しかし、よく陛下が承知されましたね」

「俺も驚いた」


 皇家は(まつりごと)に関わらないのが伝統だ。大昔は宗皇が直接国を統治していたが、のちに徳の高い皇家の遠縁の賢者を治天最上大臣に任じて(まつりごと)を任せた。やがて公家が大臣位に就くようになり、以来八百年が流れている。


「名重様は、『この国難の時に政争などしておられませぬ。強力な指導者を中心に治天府がまとまる必要がございます』と粘り強く説得申し上げたのだそうだ」


 陛下が承知されたのでは、あの姫も拒否できなかったのだろう。つい溜め息が出た。


「どうしたのですか」


 顔を上げると、敏雅が心配そうな表情をしていた。


「何か大きな悩み事がある様子ですね」

「いや、大したことでは……」

「君が以前継母(ままはは)に邪険にされることに苦しんでいた時もそういう顔でしたよ」


 誤魔化そうとしたが、結局白状させられた。


「桜姫殿下を不憫(ふびん)に思うだけだよ。どうしようもないことなのにな。これからお訪ねすることになっているのでね」

「皇家の姫を? どういう状況ですか?」


 驚いて尋ねられ、昨日の経験を詳しく話すことになった。


「なるほど。それで姫に情が移ったと。確かに、重材公は行状(ぎょうじょう)があまりよろしくないですからね」


 敏雅は察した顔をした。


「変な誤解はするなよ。あの無垢(むく)な姫君には(こく)なことだと思っただけだ」


 慌ててそう言って、栄盛は話題を戻した。


「それで、瓜棚家の返事を聞かせてもらいたい」


 敏雅は少し考えたが、すぐに顔を上げた。


「そこまで話が進んでいる状況で無理に中立を保とうとするのは、国のためにも、当家や冬鼓家のためにもなりません。瓜棚家は重材公を支持します。高兄様の説得も引き受けましょう」

「ありがたい。君ならそう言ってくれると思っていた」


 栄盛が喜ぶと、敏雅は首を振った。


「他にしようがないだけです。御存じの通り、当家の動かせる兵力は、今都にいる一万だけです。一方、舞木家と蒲火家には明日援軍が到着すると聞いています。合計八万に対抗するには兵力が少なすぎますから、流れに乗るより仕方がないのですよ」


 瓜棚家は水軍衆に強く、武者の数は多くない。恵国軍への備えを考えると、これ以上の兵力を都へ呼べないのだ。反対しても滅ぼされるだけだと判断したらしい。

 栄盛は同じ守京五家として、配下の武家を守らなければならない敏雅の立場はよく分かるので、こう言って(なぐさ)めた。


「名重様や重材様はきっとお喜びになる。高兄(たかえ)公の説得に成功すれば、明後日から君は近衛中狼将(ちゅうろうしょう)だ。頼りにしている」


 栄盛は重材に、蒲火(がまひ)氏猛(うじたけ)と敏雅を副将に当たる中狼将に任じてほしいと頼んでいた。その方が説得しやすいし、三家が力を合わせることが必要だと思ったからだ。基龍を相談役にすれば、高桐家の協力も得られるだろう。


「ようやく希望が見えてきた。これで国が救えるかも知れない」


 栄盛は自分に聞かせるように言葉に力を込めた。全てはうまく行っている。そう思うことで、桜姫の運命を肯定したかったのかも知れない。

 敏雅は辞去する栄盛に門まで付いてきて、自分もすぐに冬鼓邸へ行くと言って、手を振って見送ってくれた。



 栄盛は屋敷に戻って昼食を済ませると、馬で葵御前の隠宅へ向かった。

 着物は迷って、地味な薄青色の直垂(ひたたれ)にした。桜姫はお忍びでの都見物をご希望だが、平服では礼を欠く。かといって、正装では目立ちすぎる。

 着る物にこんなに悩んだのは初めてだった。いつもは身のまわりの世話をする婆やがその日の着物を用意しておいてくれる。今回は急な依頼で、帰ったら婆やが出かけていたので自分で選んだのだが、時間がかかりすぎて危うく昼食を食べ損なうところだった。


 気持ちが浮付(うわつ)いているぞ。顔を引き締めろ。

 栄盛は自分に言い聞かせた。

 余計な期待をしてはいけない。自分はただの護衛だ。皇女の気まぐれに付き合わされるだけなんだ。いつ賊に襲われるかも分からない危険な任務で、国の運命までかかっている。油断するな。戦場に向かうと思え。

 栄盛は自分を叱り付けたが、桜林園(おうりんえん)に入ると胸が高鳴るのを抑えられなかった。

 桜姫は胸に白いももんがを抱いて屋敷の門の前をうろうろしていた。栄盛が近付いていくと顔を明るくして、大きく手を振った。


「お待ちしていました!」


 桜姫のうれしそうな顔を見た瞬間、栄盛の覚悟は春の陽光を浴びた淡雪(あわゆき)のように簡単に崩れ去った。むしろ、顔がにやつくのを我慢するので必死の有様だった。好意を感じている相手に笑顔を向けられることはこれほど心地よいのだと、栄盛は初めて知った。


「お待たせして申し訳ございません」


 それでも、馬を下りると精一杯しかつめらしい表情を作って、桜姫と声を聞き付けて出てきた葵御前にお辞儀をした。


「今日と明日、殿下の護衛を務めさせていただきます」

「はい、頼みます。ずっと一緒にいてくださいね」

「もちろんです。あなたをおそばでお守りします。悪者は絶対に近付けません」

「信じています!」


 少女は栄盛の顔をじっと見つめ、言葉に力を入れて返事をした。自分の顔はそんなに魅力があるのかと思うほど、栄盛を見るのがうれしいらしい。


「いい思い出をいっぱい作りたいです! 二日間、楽しみましょうね!」


 姫はにっこりと笑った。


「なるほど、これは勝てませんね。若殿が浮付くわけです」


 後ろでつぶやきが聞こえた。少し低い声が応じた。


「納得だな」


 一緒に連れてきた二人の家臣だった。

 浮付いてなどいない、と思ってにらむと、桜姫が尋ねた。


「この方々は?」


 栄盛は気が付いて彼等を紹介した。


「舞木家の留坂(とめさか)典昭(のりあき)鎌原(かまはら)仲綱(なかつな)です。腕は保証いたします」


 二十三歳の仲綱(なかつな)近習頭(きんじゅうがしら)で栄盛の護衛も兼ねている。三十歳の典昭(のりあき)は家老なのに、栄盛の様子から何かを感じたらしく、姫に興味を持って自らこの役目を買って出た。

 桜姫は二人に頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

「護衛を務めることができまして、大変光栄です」


 二人はかしこまってお辞儀をしたが、桜姫に好意を持ったらしかった。

 同行する天衛兵(てんえいへい)西門(にしかど)吉房(よしふさ)と小太郎とも挨拶を交わすと、栄盛は桜姫に尋ねた。


「殿下は本日、どこへいらっしゃるおつもりですか」


 護衛のためにも予定を聞いておきたかった。


「お祭りの屋台のお店を見たいです! 小太郎ちゃんや吉房に、たくさん出ると聞きました!」


 桜姫は楽しそうに言って、指を折った。


「桜のふわふわ焼き、烏賊(いか)(すみ)饅頭、魚の甘辛揚げ、この三つは絶対行きます!」

「食べ物ばかりですね……」


 ちなみに、桜の花の形のやわらかい煎餅(せんべい)と、烏賊墨で真っ黒な甘いまんじゅうと、魚肉のすり身を魚の形にして油で揚げ、甘辛い垂れを塗ったものだ。どれも玉都の名物で、栄盛も毎年食べている。

 姫と一緒なら二倍も三倍もおいしく感じられそうだったが、残念なことを告げなくてはならなかった。


「殿下、屋台はまだ準備中です。今日は店を開いていません」

「そうなのですか?」


 視線を向けられて皆が頷くと、桜姫は本当に悲しそうに言った。


「がっかりです」

「明日は開店するでしょう。きっと召し上がれますよ」


 栄盛は慰めた。


「でしたら明日一緒に行きましょう。約束ですよ」

「はい」


 栄盛が頷くと、桜姫は笑った。約束を交わせたことがうれしいらしい。


「楽しみです。お腹を空かせておきますね!」

「屋台の場所を調べておいて、殿下をご案内いたしましょう」


 うやうやしくお辞儀をすると、姫は不満そうな顔をした。


「殿下という呼び方はやめてください。身分が分かってしまいます。民に騒がれたくないのです」

「そう申されましても……」


 姫は民のように小袖を着ているが、桜色の布地は見るからに上等だし、雰囲気や身のこなしから高貴な身分であることが丸分かりだ。かといって、粗末な着物を着ろとは言えない。

 栄盛が困っていると、小太郎少年が言った。


「お姫様だってことは隠しても分かっちゃうと思いますよ」

「そうなのですか? 頑張って着物を選んだのですよ!」


 皇女は自信があるようだったが、葵御前が指摘した。


「とても民には見えぬな。こんな武者を何人も引き連れておってはのう」


 西門吉房たちも目立たぬように地味な着物を着ているが、立派な体格や腰の刀から護衛と一目で分かる。多くの侍女にかしずかれているのが当たり前だったためか、姫は言われて初めて気が付いたらしい。


「分かりました。民に溶け込むのは諦めます。でも、皇女と知られるのは嫌です」


 姫は栄盛に言った。


「ですから、殿下は禁止です。いいですね」

「では、どうお呼びすればよろしいですか」


 桜姫は真剣な顔つきで考えた。


「そうですね……、桜さん、でお願いします」


 ちょっと眉を寄せたところがかわいいなと思っていた栄盛は、驚いて首を振った。


「とても無理です。対等な呼び方などできません」

「どうしても?」

「どうしてもです」


 断ったが、姫は諦めなかった。


「でしたら、桜姫、でどうですか」

「私の身分では許されません」

「他の呼び方では返事をしませんよ」

「では、桜姫様、でよろしいでしょうか」


 姫は不満そうだったが頷いた。


「では、私も栄盛様とお呼びしますね。拒否は許しません」


 きっぱりと言われて、とんでもない、と言おうとしていた栄盛は受け入れざるを得なかった。


「かしこまりました」

「その堅苦しい話し方もやめてほしいです。友達みたいにできませんか」

「努力いたします」


 そう答えて、栄盛は話題を戻した。


「それで、これからどちらへおいでになりますか」


 栄盛が口調を変えなかったので桜姫は頬をふくらませたが、問いに答えた。


「屋台が無理なら、今日は別なところに行きたいです」

「どこですか」


 尋ねると、姫は言った。


「海です」


 どんな場所を希望するか心配だったので、栄盛はほっとした。真澄池を回っていけば、さほどかからず海岸に出られる。

 だが、今は春の始めだ。まだ海風が寒いだろう。そう言ったが、姫の気持ちは変わらなかった。


「お山をこちら側から見たいのです」


 神雲山は背が高い島が陸地にくっついたような形状をしているので、大部分が海に突き出ている。桜姫のいた仰雲(あおぐも)大社は山の(ふもと)で、海越しに眺めたことがなかったらしい。


「かしこまりました。ご案内いたします」


 栄盛は先頭に立って歩き出した。隣に桜姫が並び、その向こうに小太郎がいる。護衛三人はすぐ後ろを付いてきた。

 水の澄んだ大きな池のほとりを歩いていると、満開の桜からひらりひらりと花びらが落ちてくる。まるで同名の姫の歩く場所を飾るように、桜の雨が降り注いでいた。

 時々花を眺めに来ている人々とすれ違う。子供を連れた家族、友人同士と思われる一団、若い男女の組み合わせなどだ。皆着飾って幸福そうで、親しげに話をしたり寄り添ったりしながら歩いている。

 平和だな、と栄盛は思った。いかにも吼狼国の春らしい、美しい光景だ。だが、今も足の国では恵国軍と数万の武家がにらみ合っている。それを忘れているような、(うれ)いのなさそうな人々の笑みに、複雑な気持ちがした。


 だが、栄盛はすぐ、これでよいのだ、と思った。この笑顔を失ってはいけない。戦いを早く終わらせて、万が一にも都を戦場にしてはならない。平和であってこそ、花を()でることができる。姫が祭りで舞えるのも、人々がそれを静かな心で眺められるのも、平穏な日々があってこそだ。

 この光景を守るためにも、武家の地位向上と改革を実現しなければ。

 自分の目的の正しさを再確認したが、隣を歩く美しい少女を犠牲にするのかと思うと、決意が鈍りそうになる。

 桜姫は感嘆のまなざしで満開の木々を見上げ、降りかかる花びらを浴びながら楽しそうに歩いている。まさに平和の象徴のような人だと栄盛は思った。

 横顔を盗み見ていると、姫が顔を向けてにっこりした。栄盛は慌てて話題を探し、平凡極まる言葉を口にした。


「桜が随分舞っていますね」

「そうですね。こんなにたくさんの桜は初めて見ました。仰雲大社にも桜は多いですが、ここほどではありません」


 姫は桜色の林を見回し、栄盛を見上げた。


「桜はもともと好きですが、こんなに美しいと思ったのは初めてです」


 あなたと一緒だからと言われたような気がして、栄盛は胸が高鳴り、急いで言葉を続けた。


初太皇(しょたいおう)ご夫妻が天からご降臨なさった時、大神様(おおかみさま)は桜の枝を渡しておっしゃったそうです。この花を見て私を思い出しなさいと」

「有名なお話ですね」


 姫は大社の巫女なので当然知っていた。


「もうすぐ御神風(みかみかぜ)が吹きます」

「はい。とても素敵な光景と聞いています。楽しみです」


 そうか、姫は見たことがないんだ、と栄盛は気が付いた。

 御神風(みかみかぜ)とは春に吹く強い西風のことだ。吼狼国では、季節によって風が吹いてくる方向が決まっている。春は東、夏は南、秋は西、冬は北だ。しかし、都周辺では、春先の丁度今頃に数日だけ、真東から吹くはずの風が西から吹くことがある。


「煙が御島(みしま)へ伸びるのですよね。見てみたいです」


 神雲山へ下りてきた神々は、その煙を伝って雲見湾の小島へ移動し、一年の吉凶(きっきょう)を定める。御神風は神が海を渡るために起こす奇跡とされている。


「ぜひ、ご覧になるとよろしいですよ。空が桜色に染まりますから」


 神雲山の対岸には真澄池と桜林園(おうりんえん)がある。桜の散る時期に強い風が雲見湾を越えて吹き付けてくると、数十億枚の花びらが一斉に散って舞い上がり、辺りを覆い尽くす。その光景はまるで桜色の雲が桜林園から湧き起こって広がっていくようで、春の名物となっている。都の人々はもちろん周辺の国々からも見物人が集まって、眺めながら酒や甘酒を飲んだり、雲の中へ入って桜の滝を全身に浴びたりしたりして楽しむのだ。

 御神風がいつ吹くかは分からず、方角的に都へは降り注がない。都の人々は見逃すまいと、小さな風車(かざぐるま)を町のあちらこちらに飾って、いつも風向きを気にしている。


「一緒に見られるでしょうか」

「そうですね。明日までに風が吹けば可能でしょう」


 答えて、この護衛が二日だけだということを思い出し、栄盛は悲しくなった。

 黙っていると、桜姫が見上げて尋ねてきた。


「あの、栄盛様。お聞きしたいことがあるのですが」

「何でございますか」


 姫は珍しくためらった。


「春波重材様のことを教えてください。お人柄などを」


 その瞬間、栄盛は急に体温が下がった気がした。


「陛下や兄には、結婚相手を決めたから嫁ぐようにとだけ言われました。民のためなら仕方ないと思います。ですが、どういうお方かは知りたいのです」


 栄盛は答えられなかった。言いたいことはたくさんある。女性関係が派手なこと、桜姫を政略の道具としか見ていないこと、愛情や心の通った夫婦関係は期待しても無駄なこと。

 だが、口にできなかった。重材には治天最上大臣になってもらう必要がある。叔父のため、国のため、仲間の武家たちのために。だから、姫にこう言った。


「陛下や皇太子殿下がお選びになったのですから、間違いはございませんでしょう」


 感情を抑えようとしたら、思いのほか冷ややかな声が出てしまった。


「悪い方ではありません。桜姫様と重材様の結婚は、私も支持しています」


 急いで付け加えたが、横から注がれる姫のまっすぐな視線を受け止めることができず、周囲を警戒するふりをした。姫は栄盛の強張った表情を見上げて目を見張り、黙って考え込んでしまった。

 桜の林を抜けると広い砂浜に出た。目の前に青い雲見湾、沖に緑色の御島、対岸に巨大な神雲山が見えた。

 逆さにしたすり鉢そっくりの山体は、上部に一年中雪があり、春の午後の陽光を浴びて白く輝いている。決して消えることのない神雲は、今日も首元に円くかかって、細長い噴煙がてっぺんから上がっていた。

 吼狼国の主島(しゅとう)臥神島(ふせがみじま)は狼のような形をしている。それが国名の由来なのだ。伝説では、初代の宗皇夫妻が天から降臨した際、連れてきた銀色の巨大な狼が海に横たわってこの島になったという。神雲山は胸から転がり落ちた心臓とされ、へその位置にある都と吼狼国の民の暮らしを、あの山の上から神々が見守ってくださっているそうだ。

 背後の林を越えてさわやかな風が吹いてくる。桜姫は腰まである長い黒髪を片手で押さえて山を見上げた。


「きれい……。(ふもと)から見ても(こう)(ごう)しいですが、海越しに眺めると、これほど優美な山なのですね」


 つぶやく横顔に、栄盛は目が釘付けになった。

 美しさではあなたも負けていません。

 そんな気障(きざ)な言葉が頭に浮かんで、栄盛はひどく恥ずかしくなった。感傷的になるなんて、全く武家らしくない。すぐ後ろにいる三人の視線が急に気になった。

 気が付くと、桜姫が栄盛を見つめていた。


「何でしょうか」


 尋ねると、姫は笑った。


「この景色をあなたと見たかったのです。来てよかったです」


 そう言って、また山と島と海に目を戻し、手を合わせて祈り出した。

 俺も桜姫様と一緒に見られてうれしいです。

 そう伝えたかったが、照れ臭いし、恋人の言葉みたいで、結婚の決まっている相手にはふさわしくないと感じた。

 どういう言い回しなら許されるかと考えていると、姫が祈りを終えて、真剣な顔つきで言った。


「それで、さざえのつぼ焼きはどこですか」

「えっ、つぼ焼きですか?」


 思わず問い返すと、姫は頬を染めて頷いた。


「とてもおいしいと聞きました。その、大社のお食事もおいしいのですが、毎日同じ料理ばかりで飽きてしまいました。都にはおいしいものがたくさんあると聞いて楽しみにしていたのです」


 正直な人だ。自分にも、他人に対しても。

 栄盛はそう思った。

 とても(いと)おしかった。

 と、背後で吹き出す声がした。


「あはは、姫様、食いしん坊だなあ!」


 小太郎が腹をかかえて笑っている。舞木家の護衛二人もおかしそうな顔をしていた。さすがに天衛兵の西門吉房は真面目な顔つきを崩していなかったが、肩がかすかに震えている。


「笑わないでください」


 姫は恥ずかしそうだったが、彼等の笑い声で栄盛は自分を取り戻した。


「すぐに探させます。仲綱」


 命じると、二十三歳の近習頭は駆けていって付近の人に尋ねてきた。


「港に向かう途中に屋台があるそうです。一年中やっているそうですよ。ご案内します」


 仲綱が先導する。


「よかったですね、姫様」


 小太郎が付いていく。自分も食べたいらしい。


「栄盛様、行きましょう」


 姫に誘われて、栄盛は歩き出そうとした。さざえは好物だ。が、あることを思い付いて立ち止まった。


「先にお行きください。すぐに追い付きます」


 姫は不思議そうな顔をしたが、頷いた。栄盛は仲綱に命じた。


「桜姫様を頼む」

「若殿の分も買っておきます。店でお待ちしております」


 近習頭は栄盛のそばにいるべきか一瞬迷ったようだったが、命令に従った。

 四人が歩いて行くのを見送ると、典昭が尋ねた。


「それで、何をなさるおつもりですか」


 栄盛が考えを伝えると、典昭はなるほどという顔になり、微笑んだ。


「お手伝いします」


 家老の地位にある三十路(みそじ)の男にさせることではないと思ったが、あまり長い時間姫から離れるわけにはいかないので受け入れた。


「頼む」

「はい。急ぎましょう」


 二人は砂の上にしゃがみこんだ。

 しばらくして目当てのものは見付かった。栄盛たちは立ち上がって足早に屋台へ向かった。

 行ってみると、姫の前にさざえの殻が三つもあった。満足そうな顔をしている。


「とってもおいしいですよ!」


 姫は手を振って声をかけてきた。小さな台で立ち食いだったが、気にしていないようだ。

 栄盛は歩み寄ると、手に隠していたものを渡した。


「桜貝というのですよ」


 薄桃色の小さな貝だ。丁度二枚あったので、くっつけて姫の手の平にのせてあげた。波で洗って手拭き布で拭いて乾かしたが、まだかすかに湿っていて潮の香りがする。


「私の名前の貝ですか」


 桜姫は目を目開いて、貝をじっと見つめた。栄盛は自分が見つめられているような気がしてどきどきした。


「かわいい貝ですね」

「気に入っていただけましたか」

「はい。とても」


 姫は微笑むと、少し考えて、貝の片方をつまんだ。


「こちらは栄盛様の分です」

「あなたに差し上げたものです」


 栄盛は言ったが、姫は無理に握らせた。


「持っていてください。こちらは私が持っています」


 栄盛は姫の表情を見て受け取ることにした。


「分かりました。大切にします」

「なくしては駄目ですよ」


 姫は念を押すと、大事そうに布に包んで帯の間に仕舞った。栄盛は貝を握り締めた。姫との絆が強まって、距離が少しだけ近付いたような気がした。


「さて、そろそろ移動しましょう。ここは寒いですから」


 西門吉房が言い出した。桜姫はももんがを胸に抱いて(だん)を取っている。少し冷えたらしい。

 だが、姫はこのあと行きたいところは特にないという。恥ずかしそうに、食べ物のことしか考えていなかったと白状した。


「何か見たいものはございますか」

「栄盛様のお薦めの場所に連れて行ってください」


 若い娘の喜びそうな遊び場など知らないので、栄盛は困った。

 桜姫は都見物をしたいのだから、最も簡単なのは都の町をぶらつくことだ。桜の都と言われる玉都は、今最も美しい季節なのだ。大きな城門や多数の寺院、桟橋(さんばし)が何十本も海に突き出て大船が横付けされた港、全国から集まった産物が並ぶ広い市場など、見どころはたくさんある。

 だが、町の中をあちこち歩き回るのは疲れるし、祭りの前で人出が多いので護衛がしにくい。第一、桜を見るなら真澄池以上の場所はない。

 栄盛は考えて、思い付いた。


「町全体を見下ろせる場所がありますよ。少し遠いですが」


 姫は是非行きたいと言った。護衛の三人に相談すると、そういうところの方がかえってお守りしやすいかも知れないと賛成した。

 いったん葵御前の隠宅まで戻り、馬に乗った。小太郎は吉房が乗せた。姫が馬は初めてだと言ったので、栄盛の前に乗ることになった。

 先に栄盛が馬の背にまたがり、仲綱の手を借りて、姫を引っ張り上げた。姫は栄盛の前に横座りして、二つの手で直垂の右の袖と胸元をしっかりとつかんだ。

 黒い(つや)やかな髪が栄盛のあごのそばに来た。栄盛は姫の匂いと体温を感じて抱き締めたい衝動に襲われたが、ぐっと我慢した。


「では、参りましょう」


 仲綱が先頭を行く。栄盛は続いて馬を走らせた。

 姫は栄盛を意識しているのか首筋を赤くして前方の景色を眺めていたが、左手は胸元をぎゅっと握っていた。

 四頭の馬は桜林園を抜けて北へ向かった。玉都の北には山脈があるが、目的地はその手前、森から突き出ている小高い丘だ。

 麓まで行くと、細い道が上へ続いていた。馬を疲れさせないようにゆっくりと登っていくと、しばらくしていくつかの建物が見えてきて、急に視界が開けた。丘のてっぺんに出たのだ。


「すごい……!」


 馬から下ろしてもらうと、桜姫は崖の端まで行って息をのんだ。 

 雄大な景色だった。

 目の前に巨大な神雲山がそびえている。頂上付近の雪とまっすぐ立ち上る噴煙と首元の神雲が、遠い夕日に赤く染まっている。山麓(さんろく)には広大な森が広がり、北に緑の平野、手前の東側に青い雲見湾、沖に森に覆われ中心に湖のある御島。真澄池や桜色に染まった桜林園も見渡せる。眼下には、木造の建物が広がる玉都の全景があった。

 都のそこかしこを無数の人々が歩き、馬が行き交い、荷車が動いている。武家が、商人や職人が、大人や子供が、活動している。町の人々の生活や日々の(いとな)みが手に取るように分かる光景だった。


「都は生きているのですね」


 桜姫はつぶやいた。栄盛は答えた。


「私たちもあそこで生きています」


 権力と利権を守ることに汲汲(きゅうきゅう)としている公家たちは、この光景を見たことがないに違いない。だから、国や民をないがしろにした(まつりごと)ができるのだ。


「栄盛様のお仕事は、あの街を守ることですね」

「それが守京五家の役目です。私はこの国を、この民を、必ず守らなくてはなりません。そのために、今も多くの武家が戦場で戦っています」


 栄盛は答えて、思い出した。都見物は恋人との逢引(あいび)きではない。仕事なのだ。失敗すれば国と民の運命を左右しかねないほど重大な。

 栄盛は楽しい時間に浮付いていた自分を叱り付けた。

 勘違いするな。護衛のために桜姫様に同行しているのだぞ。

 気持ちを引き締めようと、唇を固く結んだ。自然と表情が硬いものになった。桜姫はそれに気が付き、栄盛の横顔に視線を向けて、目を伏せた。


「そして私も、これを守らなければならないのですね」


 悲しげなささやき声だった。皇家の姫の責任の重さを実感したらしい。


「はい、それが私と桜姫様の役目です」


 姫は泣き出しそうなのを必死でこらえているようだった。

 もし、二人が都の町娘と農村の若者であったなら、今互いが感じている気持ちのまま、結ばれるのは自然なことだろう。だが、片や皇女、片や武家の棟梁の一家の跡継ぎなのだ。そんなことは不可能だった。

 栄盛は強い怒りと悲しみを感じた。公家たちに、自分と桜姫が決して結ばれないことに、そして、その運命を変えられない自分自身に。

 思わず叫びたくなって、我慢しようと歯を食いしばり、こぶしをぎゅっと握った。

 そこへ、背後からしわがれた声がかかった。


「その光景が気に入ったのですか」


 振り向くと、六十を過ぎていそうな老人が立っていた。頭は側部を残して禿()げ上がり、痩せた体つきに(まなこ)が落ちくぼみ頬がこけているが、なぜか活力を感じる人物だった。


「お久しぶりです」


 栄盛は彼を覚えていたので挨拶した。相手の方はすぐに栄盛の名前が出てこないらしかった。


「ええと、どなたでしたかな。……ああ、そうだ。あなたは確か、舞木家の」

「そうです。栄盛です」

「そうそう、思い出しました。基龍公と一緒に来られたことがありましたね。計略で公を捕らえたとか」

「すみません。他に方法がありませんでした」


 この場所を教えてくれたのは基龍だった。この人物と友人なのだ。


「いいえ。捕虜にして軍勢を引き返させたと聞いて、さすがは公が期待をかけていたお方だと感心しましたよ」

「あの、この方は?」


 桜姫が尋ねたので、紹介した。


「こちらは、治天府天文方(てんもんかた)遠上(とおがみ)知理(ともまさ)さんです」

「天文方、ですか?」


 桜姫はその仕事を知らなかったようだ。


「星や月や太陽、動植物を観察する仕事です。あれは観星台(かんせいだい)です。あの上から遠眼鏡で星を眺めるのです」


 小屋の後ろに三階建ての塔のようなものがある。基龍と来た時、栄盛も上がらせてもらった。天気がよければ煙野国(けぶりののくに)まで見えるという。高桐軍四万の様子が分かるかと思ったが、頼む前に断られた。


「今は修理中ですので、申し訳ありませんが、登っていただくことはできません」


 遠上(とおがみ)知理(ともまさ)は手に持っていた(こよみ)を姫に見せた。


「これを作っているのは我々です。また、その年の豊作凶作、夏の暑さや冬の寒さの程度も予想します」

「そんなことができるのですか」


 桜姫が驚くと、知理は笑った。


「実を言えば、できはしないのですよ」


 老人はあっさりと言って、赤くなり始めた空を見上げた。


「その年の気候がどうなるかなど、誰にも分かりません。ただ、経験から推測できることはあります。春に寒い日が続いた年は雨が多かったとか、夏の暑さが長引いた年は冬がひどく寒かったとか、そういう記録を積み重ねていくことで、何らかの法則を発見できないかと考えるわけです。名目上の本業は星を見ることなので、天文方という名前になっていますがね」


 神話では、天界で創光神(そうこうしん)が神々を率いて滅暗神(めつあんしん)と戦っていることになっている。吼狼国の守護神白牙大神(しらきばおおかみ)は力の強い神の一人で、この島国の住民の祈りで力を得るかわりに様々な恵みを授けてくれる。

 星々の輝きは神々の配置を表しているそうだ。時折現れる彗星は大きな戦いの火花であり、流星は負けて倒れていく従神(じゅうしん)たちだ。天文方は本来、星を観測して戦いの状況を調べ、治天府や天宮(てんぐう)や大社に報告するために作られた組織なのだ。


「気候の予想は滅多に当たりませんので、治天府でもあまり重視されていません。ですが、ある程度の精度で予測できるものもあります。例えば御神風(みかみかぜ)です」

「吹く日が分かるのですか」


 桜姫は彼の話に興味を引かれたらしい。


「風向きが突然逆になるという変わった現象の原因は諸説あります。北の山脈にぶつかった風が跳ね返ってくるからだとか、神雲山は三方が海なので、気温差で風が生まれるのだとか、人によって主張がばらばらです。はっきりしているのは、そういう現象が実際に起こることと、前兆(ぜんちょう)があることです」


 栄盛は意外に思った。


「前兆があるのですか」


 いつ吹くかで賭けをする人までいるので、予測は不可能だと思っていたのだ。

 一方、姫は納得していた。


「そういえば、毎年御神風の吹く数日前に都から知らせが来ていました。それを受けて、仰雲大社ではお山と御島を祭る儀式の準備をします」

「それを知らせるのは我々の役目です」


 知理は言った。


「神雲山を御覧ください。中腹に筋のように白い線が四本見えますでしょう。都からは見えないのですが、ここは高いので見ることができます。あれは雪が積もった谷で、我々は狼の爪痕(つめあと)と呼んでいます」


 白牙大神(しらきばおおかみ)は白い毛並の巨大な狼の姿をしているとされる。また、霊峰の(ふもと)の森には野生の狼がたくさん()んでいて、神獣として信仰の対象になっている。


「あの線が全て消えると御神風が吹きます。三本はほとんど消えて、残り一本ももう細いですね。ここ数日暖かい日が続いたので、過去の例からすると、明日には消えます。つまり、恐らく明後日は西風が吹くのです」


 栄盛は初めて聞く話だった。


「案外簡単なことなんですね」


 ついそう言うと、老人は頷いた。


「実はそうなんですよ。でも、天文方だけの秘密なんです。いつ吹くか分かっては、ありがたみがありませんからね」


 そんなことを話してしまってよいのかと思ったが、信用されているらしい。


「今年は御神風が丁度桜祭の日に吹きます。これは珍しいことなんですよ。私も楽しみですね」


 急に風向きが変わるこの現象を、都の人々は街角に無数の幟旗(のぼりばた)風車(かざぐるま)を立てて待っている。風向きが変わると人々は神の来臨を祝う言葉を交わし、不思議そうな子供たちに山と島についての神話を語るのだ。


「明後日ですか。その日はもう……」


 姫がつぶやいた。警護は明日までだ。祭りの日には結婚が発表される。二人が並んで風を感じることはできない。

 栄盛は寂しさに襲われたが、同じことを思ったらしい姫を元気付けようと、わざと明るく言った。


「御神風は大抵昼過ぎに吹きます。桜姫様が舞っている最中(さなか)に吹くかも知れませんね」


 桜姫は微笑んだ。


「そうですね。大神様(おおかみさま)に認めていただけるように、精一杯踊ります」


 自分の立場と責任を知って悲しみに染まりかかっていた十四歳の皇女は、気持ちをどうにか立て直したらしかった。


「急に舞いたくなりました。よろしいですか」


 桜姫が帯に挟んでいた扇を取り出すと、老人は相手の身分を察して、丁寧に頭を下げた。


「もちろんです。是非拝見したいですな」


 栄盛たちは下がって場所を空けた。


「見ていてください」


 桜姫は栄盛に言うと目をつむり、気持ちを集中して、古い歌を口ずさみ出した。


  桜吹雪は、天(たも)慈雨(じう)

  さあ、舞い踊れ地を覆え。

  春を待ちわぶこの大地に、新たな命を芽吹かせよ。


  花の(にしき)は、神の祝福。

  さあ、華やかに世を染めよ。

  住み慣れし我が故郷(ふるさと)を、この世の楽土(らくど)にしておくれ。


 歌いながら、ゆっくりと扇を揺らし振り上げて舞は続いた。ももんがは肩に止まり、腕が天にまっすぐ伸ばされると駆け上がって、栄盛の腹へ滑空した。栄盛が腕を上げると、また主人の胸へ飛んでいった。

 山と、海と、森と、都。西の山際(やまぎわ)へ沈んでいく大きな太陽の赤い光を浴びて、桜色の小袖(こそで)の少女は舞い続けた。神へ、大地へ、民へ捧げられる舞は、おごそかで、崇高(すうこう)で、何より美しかった。


「これは見事ですな」


 知理が感嘆の声を上げた。栄盛は感動と誇らしさに震えながら思った。

 この姫を、どうして自分一人のものにしたいなどと思い上がったことを考えたのだろう。そんなことは許されないし、自分にはもったいない。このお方は大神様にお仕えし、全ての民のために舞うのがふさわしい。

 栄盛は思わず手を合わせ、山と島と都に祈った。

 どうか、重材公との暮らしが幸福なものでありますように。

 それは難しいと理解していたが、この姫の顔が悲しみと不幸に曇るのは耐えられなかった。

 せめてあと一日、殿下を楽しませて差し上げよう。

 明日もまた会えることがとてもうれしかった。明日で終わってしまうことがひどく悲しかった。

 大神様、この舞をご覧になっておいでなら、どうか桜姫様をお守りください。

 静かな舞を見つめながら、栄盛は心の底からそう願っていた。

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