第一章 桜林園
「なんとも見事だ」
栄盛は感嘆の声を上げた。目の前に澄んだ水をたたえた大きな池がある。その岸辺に数万本の桜が姿を池に映して咲き誇っていた。
「やはり花の季節の真澄池は絶景だな」
開花して十日、木々は皆満開で、あまりの数の多さに辺りが桜色に染まっていた。春らしくやわらかな空の青と、花の桜色と、水に映った天の青とが明るい対照をなして見る者を圧倒する。
「桜祭は三日後だ。当日は散る盛りかも知れないな」
栄盛は視線を上げ、桜の上に顔を出す雪化粧の神雲山を見上げた。
吼狼国最高峰にして最上位の霊峰であるこの活火山は、桜の林のすぐ先に広がる雲見湾の対岸にある。その頂上はかつて初代宗皇夫妻が天界から降臨したと言われる場所で、常に首元にまとわりついている円い神雲より上は神の領域とされている。
毎年春に、てっぺんの噴火口からまっすぐ立ち上る煙を伝って天上の神々が山へ降り立ち、雲見湾に浮かぶ御島に集まって、その年の吉凶を定める。桜月一日の春始節に行われる桜祭は、島と山の両方が水鏡にきれいに映るこの聖なる池のほとりで宗皇や公家たちが祈りを捧げ、一年の安泰を願う儀式なのだ。もっとも、玉都の人々にとってこの祭りは花見と同義であり、新しい年の始まりを町ぐるみで祝う行事だった。
立ち止まって景色に見とれていた栄盛は、やがて水際の小道を歩き出した。
今朝高桐基龍を捕虜にすることに成功したあと、栄盛は都の手前で軍勢を瓜棚敏雅に預けて真澄大社へやってきた。吼狼国の守護神白牙大神に勝利のお礼を述べて公家たちとの交渉の成功を祈り、三日前に亡くなった父の骨を墓に納めるためだ。父は半年前に倒れ、もう長くないと分かっていたので予期された死だったが、基龍の軍勢が都に迫って戦の準備に追われる最中のことだったので、葬儀はごく簡略にせざるを得なかったのだ。
「近くを散歩してくる」
大社の本殿で天界にある光園での父の幸福を祈る儀式が行われるが、寄進の品々が都の屋敷から到着していない。賓客や祭官と話している家老たちを残し、栄盛は一人で池のほとりに出てみたのだった。
もう桃月の二十八日、正装の上等な直垂では汗ばむほどの上天気だった。
「これはいくら見ても見飽きることはないな」
栄盛は池に映った逆さまの桜を眺めながら歩いていたが、急に足を止めた。
「あれは何だ? 何かが光った気がしたが」
池の左手、桜が一際鮮やかな辺りで、小さく白いものが、きらり、きらりと春の午後の強い日差しを反射しながら動いている。始めは刀かと思ったが、手前の木のてっぺんで光ったり、もっと奥の木の上だったりを繰り返している。不思議に思った栄盛は、その場所へ行ってみることにした。
時々前方の空を見上げて方向を確かめながら、古人が信心のために植え続けた無数の桜の間を進んでいくと、急に視界が開けた。池のほとりに小さな祠があり、その前に狭い空き地があったのだ。
そこへ踏み込もうとした栄盛は、つと足を止めた。一本の桜の大木の下に、一人の少女を見付けたからだ。
十代半ばと思われるその乙女は、桜色の上衣と袴という狼神の巫女の装束をまとって、緩やかな舞を舞っていた。
嵐の調べは、花の舞い歌。
さあ、散りゆけ風に乗れ。
遥かなる地のあの方へ、降り注いで春を届けよ。
満開の桜の木を讃える古い歌を細い透き通った声で口ずさみながら、手にした桜色の扇をひらり、ひらりとひるがえし、太い袖をふわり、ふわりと揺らしている。ゆっくりと両手を高く上げたかと思うと、急にくるりと体を回し、とん、と小さく跳ねた。その舞は非常におだやかなものだったが、栄盛はなぜか激しくたぎるように波立つものを感じて胸を打たれた。たおやかに、優雅に、しかし強く、堂々と、その舞は続いていた。
その乙女の周囲を、きらり、きらりと光りながら一匹の小さな獣が飛び回っている。
「あれはむささび、いや、小さいからももんがか」
本来は茶色い毛並のはずだが全身真っ白なその小動物は、前足の手首と後ろ足の膝の間の飛膜を広げて長四角の形になって、周囲の木から木へ飛び移っていた。空飛ぶ厚手の手拭き布そっくりのそれは、まるで舞に合わせるように、少女が扇を返し振り上げるたびに滑空し、春の陽光を反射して、辺りにまばゆい光りをまき散らしていた。
「なんと美しい……」
主従一体となったその舞に栄盛は目を奪われ、思わず感嘆の言葉が口をついて出た。
芸能より武術や馬を走らせることを好む栄盛は、「美しい」などという気取った表現を使うのは恥ずかしいことだと日頃は考えていた。とりわけ女性に向かって言う者を軽蔑してさえいたが、この光景にはその言葉がふさわしいと感じた。あの少女は天女で、神獣を連れて天界から降りてきて、池のほとりで戯れているのではないか。その美貌と、すらりとした立ち姿と、軽やかな身のこなしを眺めていると、世界はこのように華やかで喜びと光に満ちあふれていたのかと、人の世の本当の美しさを初めて発見したような気持ちすらしてくるのだった。
栄盛は太い木の陰に隠れ、呼吸を忘れて舞に見入っていたが、少女が差し招くように桜色の扇を前に突き出して揺らすと、誘われてつい一歩足を踏み出した。
と、その足が小枝を踏んだ。ぽきり、と音がして、乙女が舞を止め、栄盛の方へ顔を向けた。乙女の澄んだまなざしが栄盛の目を射抜き、心の奥底まで貫いた。
その瞬間、突然強い風が吹き抜けた。辺りの木々が一斉に揺れて、無数の花びらが耐え切れずに舞い散った。桜色の奔流は、乙女の背後から栄盛へ向かって強烈に吹き付けてきた。
その花嵐の中で、栄盛と乙女は見つめ合った。風にたなびく黒く長い髪を片手で押さえながら乙女は栄盛に視線を注ぎ、栄盛も強い風を全身に感じながら、片手を木に当てたまま乙女から目を離せなかった。栄盛は運命という強い嵐に自分たちがのみ込まれたことを、この瞬間肌で感じていた。
風が止んだ。辺りを覆っていた花びらも、やがて全て地面に落ちた。それでも、栄盛と乙女は見つめ合ったまま、じっと立ち尽くしていた。
栄盛は少女の美貌に見惚れつつ、思い切って出て行くべきか逃げるべきかを迷った。胸が池全体に轟くように激しく鼓動し、情けないことに膝が震えて崩れ落ちそうだった。少女をいつまでも見つめていたかったが、同じくらいこの場に留まることが恐ろしく、一歩も動けなかった。
何をやっているんだ。ここで何も言わずに立ち去るのは失礼だし怪しすぎるだろう。前へ出ろ!
散々迷った末、といっても実際はごく短い時間だったが、栄盛は遂に覚悟を決めた。勇気を振り絞って声をかけようとしたのだ。
「うわっ!」
だが、木から手を放し、広場へ出て行こうとした瞬間、いきなり視界がなくなった。顔に何かが張り付いたのだ。しかも、その柔らかく、もふもふしたものは、鋭い爪で栄盛の頬をひっかいた。
「痛た!」
手でつかんではがそうとすると、それは最後の一撃とばかりに顔を思い切り蹴って飛んでいった。
「紋ちゃん、駄目ですよ! こっちへ来なさい!」
少女は呪縛が解かれたようにはっと気が付き、ももんがに命令した。
「すみません! この子、警戒心が強くて、初めて会う人には攻撃的になるんです。……大丈夫ですか?」
胸元へ飛び込んだももんがを抱きとめて、少女は歩み寄ってきた。
「は、はい……」
栄盛も木の陰から出て行った。
「本当に平気ですか。あっ、やっぱりほっぺたに傷が。この子の爪は鋭いので……」
少女は栄盛の頬へ手を伸ばそうとして、急に引っ込めた。
「す、すみません。こんな立派な殿方に失礼なことを……」
上等な直垂に気が付いたようだ。
「いえ、かまいません」
思わず頬の傷に手を当てて、栄盛は答えた。少女は意外に背が高い。大柄な光盛のあごの辺りに目が来るくらいだろうか。ほっそりした顔は近くで見ても美しく、きめ細やかな肌に目が吸い寄せられそうになる。
そんな栄盛を、長いまつ毛の下の黒い大きな目がじっと見上げて、小さく微笑んだ。少女は勇気を出すように胸元でこぶしを握って、話しかけてきた。
「あの、お武家様でいらっしゃいますか」
「え、ええ……」
「やっぱり。お腰の立派な刀は本物ですよね。名のあるお家のお方なのですか」
少女は遠慮を見せつつも、目をきらきらさせて次々に質問を浴びせてくる。
「はい。これは真剣です。名刀で、当家の宝の一つです。俺は舞木家の者なのです……」
栄盛は答えながら、内心で、しっかりしろ、と自分を叱り付けた。幾度も戦場に出て敵と刃を交えているのに、一つ二つ年下らしい少女に気圧されて腰が引けている。だが、純真な少女のまっすぐな瞳がどうにもまぶしく、くすぐったかった。
「舞木家とおっしゃいますと、守京五家の? では、お強いのですか?」
「そうです。あっ、今のは五家の一員という意味で、強いということではなく。いえ、弱くはないのですが。実は今日、戦がありまして……」
自分で呆れるほどしどろもどろな返答になってしまったが、少女はうれしそうに聞いている。円らで大きな眼と胸の前で手を握って迫ってくるところは、肩の上に乗っている白いももんがにそっくりだった。だが、その微笑みはかわいらしいと同時に、この年齢の少女にしか持ちえない輝きと色気を充分以上にたたえていて、ますます栄盛は目を引き付けられた。
「戦とはどのような? あっ、もしかして、都に近付いているというあの反乱軍ですか。あなたはどのようなお働きをなさったのですか」
「ちょ、ちょっと待ってください」
さらに少女に接近されて思わず一歩あとずさりし、質問の洪水をさえぎろうとした時、少女が急に栄盛の肩の後ろへ鋭い声を投げた。
「あなた方は何者ですか!」
驚いて振り返ると、いつの間にか怪しい風体の男が五人、すぐ後ろにいた。四人が抜身の短刀、頭らしい一番腕の立ちそうな男は長刀を持っている。薄汚れた着物や安物の刀から察するに、都のはずれの酒場にたむろしている浪人に違いなかった。
「お嬢ちゃん、大人しく俺たちに付いてきな」
頭が言った。
「無礼者! 何が目的ですか!」
少女が叱咤すると、頭はにやりとした。
「さらってこいとあるお方から頼まれたんでな。抵抗しなけりゃひどいことはしねえ」
浪人は素っ気ないほどの口ぶりで言い放った。
「用があるのはお嬢ちゃんだけだ。男の方は見逃してくれりゃあ何もしねえが、邪魔すれば斬るぜ」
「誘拐だと? そんなこと、させるものか!」
賊の言葉と態度に、自分でも驚くほど激しい怒りが湧いた。この清らかな乙女をあんな男たちが捕らえる。あの細く白い手首が毛むくじゃらの手に握られる。それを想像するだけで、全身の毛が逆立つような嫌悪感と、胸が苦しくなるほどの焦燥感にかられた。
「下郎ども、そちらはお前たちごときが触れてよいお方ではない!」
栄盛は心の底から叫んで、刀を抜き放った。
「お前たちは俺が成敗する。お姫様、向こうへ」
少女に合図して、栄盛は広場を祠の方へじりじりと下がっていった。少女を守りながら戦うには背後に回られぬようにする必要がある。少女をお姫様と呼んだが、その呼称が実にしっくりくることに気が付いて、ああ、そういう身分のお方なのだ、と栄盛は納得した。
「ちいっ、囲んで殺せ。左右に二人ずつだ。俺は正面から行く」
頭が指示を出すと、手下四人は栄盛たちを取り囲み、少しずつ輪を縮め始めた。
「これはまずい」
後ろが祠とはいえ、五人を同時に相手にするのは厳しかった。敵のねらいは少女を捕まえることなので危害は加えないだろうが、多少手荒なことはするかも知れない。そんなことは絶対に許せなかった。
「この人は俺が守る。指一本触れさせない。もし、小さな傷一つでも付けて見ろ。お前たちを全員を殺してやる!」
少女は目を見張り、頬がうれしそうに染まった。
「あなたを信じます。私もあなたをお守りします!」
言うと、閉じた扇を前に向けて身構えた。ももんがも警戒の声を上げた。
「では、少しだけこらえてください。その間にやつらを倒します」
扇では武器にならないが、栄盛は少女を信用することにして、逃げ道を開くため右側の敵にねらいを定めた。
「そこをどけ!」
一気に踏み込んで斬り付けると、ごろつきは慌てて飛び下がり、よろめいた。栄盛は下から刀を振り上げて相手の短刀を弾き飛ばすと、ひっくり返った男を無視して、右側のもう一人へ向かっていった。今の剣筋を見て栄盛の腕前を悟ったらしく、男は逃げようと背を向けたが、その右肩へ切り付けると、男は鋭い悲鳴を上げて地面に倒れた。
「まず一人」
栄盛の腕前に少女は目を見張っている。栄盛は走れと叫ぼうとしたが、頭が迫ってきたのでやや下がり、再び剣を構えた。
「さっさと捕まえろ!」
頭がいらだって命じると、起き上がった右の一人と左の一人が同時に斬り込んできた。栄盛は大胆にも頭に向かって前進してそれを避けると、振り向きざまに左の男の左腕に斬り付けた。かすっただけだったが男は短刀を取り落とし、腕を抱えて栄盛から距離を取った。栄盛は男の短刀を素早く祠の方へ蹴り飛ばした。
「これで二人!」
つぶやいた時、少女の悲鳴が響いた。見ると、左後ろにいた男が片手で少女の腕をつかんでいる。少女は必死で抜け出そうとしているが、腕力の差は歴然だった。
「やめろ!」
少女を拘束しようとしている男と頭を見比べて、栄盛は手下の方へ向かっていった。頭と戦っている間に連れて行かれてはまずい。
刀を振りかぶって男へ迫ると、手下は少女に刀を向けて脅そうとしたが、諦めて少女から手を放した。
「大丈夫ですか」
その手下を刀で追い払って尋ねると、少女が叫んだ。
「危ない!」
その声と同時に背後で頭の甲高い気合の声が聞こえ、剣風が迫った。
「死ねえ!」
斬られる!
思った瞬間、頭が悲鳴を上げた。
「ぎゃあ!」
少女が頭の顔にももんがを投げ付けたのだ。刀は栄盛の左肩をかすめた。鋭い痛みが走ったが、傷は浅いようで、動くには問題がない。
「畜生、やりやがったな!」
爪が目に入ったらしく、男はしきりに腕でこすっている。ももんがは男の顔を蹴って飛び、さっさと主人の胸に戻っていた。
「ありがとう。助かりました」
「いいえ」
声をかけると少女はにっこりと微笑んだ。
やっぱりかわいいな。絶対に賊なんかに渡してなるものか。
少女を守る決意をさらに固くしたが、状況は不利だった。二人を戦闘不能にしたとはいえ敵はまだ三人いる。敵は少女を先に捕らえるのを諦めて、まず栄盛に三方から向かってこようとしていた。戦えない二人は少女が逃げないように道をさえぎっている。一方、栄盛はさすがに息が荒くなり、頬を汗が伝っていた。
どうしたものかと考えて、栄盛は少女に言った。
「あなたは先に逃げてください。俺がこいつらを引き付けます」
武芸には自信があるが、少女を守りながら多数の相手と戦うのは不利だ。まず少女を逃がし、時間を稼いでから自分もあとを追おうと考えたのだ。栄盛が逃げ切るのはかなり厳しいが、このままでは負けるのは時間の問題だった。
「嫌です!」
だが、意外なことに、少女は首を振った。
「あなたを置いて行けません」
「あなたがいては自由に戦えないのです。あとから追いかけます」
「駄目です。私も戦います!」
「その気持ちはうれしいですが、行ってください! あなたを守りたいのです!」
「あなたが傷付くのは嫌なんです!」
頭がうんざりしたように言った。
「うるさい餓鬼どもだな。さっさと男を始末して女を捕らえるぞ! 一斉にかかれ!」
三人の賊は再び刀を振り上げた。栄盛と少女は言い合いを中断し、目配せし合って身構えた。
その時、女の叫び声が聞こえた。
「武者の方々、ここじゃ。ここで乱闘が起こっておりますぞ!」
高めの男の声が応じた。
「賊はそっちか!」
「待っていろ。今行く!」
別な男の声がして、かしゃかしゃと甲冑の鳴る音が近付いてきた。
「ちいっ、人が来たか」
頭は舌打ちすると、仲間に合図した。
「仕方ない。ここはずらかるぞ。決して捕まるなと言われてるからな」
賊は怪我をした二人をかばうように間に挟んで、素早く桜の林の中へ消えていった。
入れ替わるように、甲冑を身に付けた武者が一人、桜の間から走って来た。刀を手に周囲を警戒している。
その後ろから、二人の老女が恐る恐る現れた。五十代半ばと思われる方が声をかけてきた。
「二人とも無事かい。ああ、よかった」
身なりがよく上品な物腰で、身分ある人物と一目で分かる。どこかで会ったことがあるような気がしたが、思い出せなかった。
「お怪我はありませんか。心配いたしました」
もう一人は六十歳くらいだった。恐らく侍女だろう。二人とも武器は持っていなかった。
「伯母様! 千草!」
少女が明るい声を上げた。
「伯母様が助けてくれたのですか!」
老女は頷いた。
「なかなか戻ってこないから呼びに来たら、そなたが襲われておるではないか。それで、千草と相談して一芝居打ったのじゃよ。千草は男の声まねがうまいのでな」
「ということは、武者は一人だけですか」
栄盛はかなり危ない芝居だったと思ったが、進み出て三人に礼を述べた。
「お助けいただき、感謝いたします」
「こちらこそ、姪を賊から守っていただいてお礼申し上げる」
老女は人のよさそうな笑みを浮かべた。
「お怪我を負われたご様子じゃが、大丈夫かの」
「えっ!」
少女が驚いて栄盛の全身を見回し、肩の傷を見付けて青くなった。
「大変! すぐに手当てしなくては!」
「いえ、大した怪我ではありません」
実際さほど痛くないのだが、少女は首を振った。
「守っていただいたのに、そのままではお帰しできません。伯母様、お屋敷に招いてもよろしいですか」
「かまわぬよ」
老女は鷹揚に頷いた。千草という侍女が言った。
「先程の者たちがまた戻ってくるかも知れません。早く移動した方がよろしいでしょう」
栄盛は招待を受けることにした。
「そうですね。では、お言葉に甘えまして、お邪魔させていただきます」
確かに手当てはした方がいいし、この少女ともっと一緒にいたかったのだ。まだ名前も聞いていない。どこの娘か興味があった。
栄盛が承知すると少女はうれしそうな顔をした。老女はそれに気が付いて驚いた顔になったが何も言わず、侍女を連れて歩き出した。栄盛は少女と並んで付いていった。
栄盛は少女に話しかけたかったが、話題を思い付けなかった。少女はやはり黙ったまま時々栄盛の横顔を見上げてきて、目が合うと頬を染めて微笑んだ。それをこそばゆく感じながら、栄盛はやや緊張して歩いていった。
目的の家はさほど遠くなかった。桜の林のはずれに、木々に隠れるように一軒だけぽつんと小さな屋敷が建っていた。
周囲を囲む板塀を回って小ぶりな門を入ると、十歳くらいの子供が駆け寄ってきた。
「お帰りなさい!」
「はい、ただいま」
老女が答え、千草という侍女が言った。
「小太郎。湯を沸かすから薪を五本持っておいで」
「はい!」
千草の妹の孫だという少年は元気に返事をして走り去った。それとすれ違って、警護役らしい武家が三人近付いてきて、栄盛を見て怪訝な顔になった。
「お帰りなさいませ。失礼ですが、こちらの方は」
隊長らしい四十過ぎの武家が尋ねた。
「私の恩人です。危ないところを助けていただきました」
少女が答えると武家は顔色を変え、状況を詳しく聞いて、栄盛に深々と頭を下げた。
「お助けいただきありがとうございました。心から感謝申し上げます。お姿が見えないので心配していたところでした」
「こっそり抜け出したりしてすみませんでした。一人で練習したかったのです」
少女は謝った。
「今後は必ず武者を帯同なさってください」
釘を刺した武家は、栄盛に丁寧な口調で尋ねてきた。
「ご身分あるお方と存じますが、お名前をお聞かせいただけますか」
「舞木栄盛と申します」
栄盛は腰の刀に彫られた桜の家紋を見せた。
「では、舞木家の……。これはご無礼を申し上げました」
武家が驚いた顔をすると、少女が尋ねた。
「この方を知っているの?」
「お会いしたのは初めてでございますが、ご高名はかねがねうかがっております。足の国の戦で大層ご活躍なさったお方です」
少女に言うと、武家は栄盛に自己紹介した。
「私は天衛兵の武者頭、西門吉房と申します」
天衛兵とは宗皇が住む天宮を警備する武者のことだ。西門家は四衛と呼ばれる大将家の一つで、担当は西方の守りだ。吉房はその当主の弟だという。
「天衛兵ですか? ということは、まさか……」
「はい。ここは陛下の姉君であらせられる葵姫殿下のお宅です。こちらは陛下の御長女、皇太子殿下の妹君に当たられる、桜姫殿下でいらっしゃいます。我々はお二人の警護をしております」
「皇家の姫……」
栄盛は血の気が引く思いがした。吼狼国の王の一族、それも現宗皇の娘となれば、守京五家で武家では最上位の家柄の栄盛にとってすら雲の上の人だ。家に招かれたので親しくなれるかもと密かに期待していたが、とんでもない勘違いだった。
青い顔で立ち尽くしている栄盛を少女は促した。
「さあ、中へお入りください。傷の手当てを致しましょう」
「いえ、ですが……」
栄盛は生まれて初めて気後れを感じていた。皇女は袖を握り、安心させるように言った。
「遠慮はいりません。私が招いたのですから」
腕を引かれて、栄盛はやむなく屋敷へ上がった。
案内されたのは縁側付きの座敷だった。服を脱ぐように言われ、帯をゆるめて左肩を出すと、桜姫はなんと自分で手当てしてくれた。身分が身分だし、うら若い乙女が男の肌を見るのは、と皆渋ったが、姫がやりたがったのだ。
結局、困った顔の葵御前と千草と西門吉房の前で、栄盛は湯にひたした布で傷を清めてもらい、薬を塗られることになった。少女がやや頬を染めて「痛くないですか」と言いながら肩に触れてくるのは、恥ずかしさのまじった不思議な心地よさがあったが、どうにも照れ臭かった。
姫の顔がすぐそばにあって見つめてしまいそうになるので、栄盛は目を逸らして話題を探した。
「賢いももんがですね」
「小紋姫と言います。通称紋ちゃんです。三年前から飼っています」
桜姫の話によると、ももんがは夜行性であまり人に馴れないが、生まれた直後に拾われたので、すっかり懐いているらしい。栄盛が手を伸ばすと、恐る恐るそばに寄ってきて匂いを嗅いだ。
「珍しいですね。いつもは初めて会った人を随分警戒するのですよ」
桜姫はうれしそうに言って、ももんがの芸を見せてくれた。
「紋ちゃん、お手。おかわり。ぐるぐる」
指示に従って、ももんがは小さな前脚を桜姫の手にのせ、逆の脚を出し、姫の指を追いかけてその場で回った。
「この子の特技はこれです。お掃除!」
桜姫が命令すると、ももんがは頭から腰までと同じくらいある長い尻尾を畳の上で左右に振った。
「ほら、畳が綺麗になるでしょう?」
これには緊張気味だった栄盛も思わず微笑んだ。頭をそっと撫でてやると、ももんがは指先を小さな舌でなめ、腕を駆け登って肩に上がってきた。
「本当に気に入られたみたいです」
桜姫は笑って、ももんがの爪でついた頬のひっかき傷を、濡らした布でぬぐってくれた。
治療が終わると、葵御前が茶をいれた。普段の料理も自分でしているらしい。千草が手伝うこともあるが、主な仕事は小太郎と共に様々な雑用のようだ。吼狼国で最も高貴なお方の一人がこのような小さな屋敷でひっそりと暮らしているのを不思議に思っていると、それが顔に出たのか、葵御前が事情を話してくれた。
「ここは隠宅なのじゃ。わらわは祭りから引退した身なのでな」
その言葉で、栄盛はこの老女にどこで会ったかを思い出した。
「桜祭の舞巫女様でいらっしゃいましたか」
葵御前は頷いた。
「昨年まで務めておった」
「覚えています。子供の頃から何度も拝見しました」
桜祭の日は、早朝に本殿で宗皇や公家たちによって神々と御島と神雲山へ祈る年頭祭儀が行われ、そのあと、多くの民の見守る中、巫女によって舞が奉納される。舞巫女は皇家の未婚の姫が務めるのが慣例だ。舞巫女の皇女は普段は雲見湾の対岸、神雲山の麓の仰雲大社にいて神に仕えているが、桜祭の時だけ真澄大社へやってくる。
「今年まではわらわじゃったが、来年この桜が十五になるので、舞巫女を譲ることになったのじゃ」
桜祭のある桜月一日は春始節といって一年の始まる日であり、人々は一つ年を取る。桜姫は十五歳になるその日に舞を踊ることになる。
「わらわもようやく引退できて、ほっとしておるのじゃよ」
「長い間、お疲れ様でございました」
栄盛は頭を下げた。葵御前はもう五十四歳なのに、今年の春まで四十年近くも舞巫女を続けてきた。皇家に娘が生まれなかったからだ。葵御前の舞は優雅で洗練されており評判は高かったが、口さがない都人たちが陰で「今年も婆様が踊るのか。若い娘の舞が見たいものだ」などと話しているのを栄盛は知っていた。
「わらわはもう年じゃ。いまさら結婚もできぬ。せめて大好きな桜に囲まれて余生を送りたいと申し上げたら、陛下がこの家を建ててくださったのじゃ」
桜林園は真澄大社の管理する聖域で、個人の屋敷があるのは奇妙だと思っていたが、そういう事情だったのかと栄盛は納得した。
「伯母様は舞巫女の務めがあったので、ずっと仰雲大社を出られなかったのです。今後は私や妹が引き継いでいきますから、ゆっくりと休んでください。伯母様の舞には到底及びませんけれど」
桜姫は舞の師である伯母を尊敬しているようだった。今日は葵御前が外出したため、外で一人で練習していたらしい。
「栄盛殿は桜の舞を見たのかえ」
葵御前が尋ねた。
「はい。大変美しく、心を奪われました。拝見できてとても光栄です」
栄盛はどう言おうか一瞬迷ったが、正直に答えた。
「おやおや、それはよかったねえ。大分上達したものねえ」
葵御前は驚いた様子だったが、姪をほめた。
「ありがとうございます! すごくうれしいです!」
桜姫は顔を真っ赤にして笑った。基本的に素直でまっすぐなのだ。微笑ましいが、栄盛まで頬が紅潮しそうだった。
俺は武家だ。戦場でも勇敢に戦ったはずだ。こんなに照れたり顔を赤らめたりするなんて、まるで子供じゃないか。
そう思うのだが、二つ年下のこの姫君のそばにいると、心の底を下からくすぐられているような、どうにもうれしくて落ち着かない気持ちになるのだ。
「じゃが、桜の舞は今回だけじゃな。残念じゃがのう」
葵御前が言った。
「どうしてですか」
不思議に思って尋ねると、桜姫が急にうつむいた。
「縁談が持ち上がっておるのじゃよ。とある公家でな」
「えっ! ……あっ、そ、そうだったのですか」
思わず驚きの声を上げてしまい慌てて取りつくろったが、声が震えそうになった。
「伯母様!」
桜姫が止めようとしたが、葵御前は続けた。
「もう話は大分進んでおってな。今日天宮で婚儀の日取りが決まったと聞いてきた。三日後の春始節、舞のあとに行うそうじゃ」
「そんな! 急すぎます! まだお話をもらって数日です。はっきりとお返事もしていなかったのですよ!」
「じゃが、陛下がお決めになったことじゃ。断ることはできぬ。天宮では準備が進み、婚礼の衣装もでき上がっておるそうじゃ。栄盛殿も祝ってくれるじゃろう?」
「そ、それは……、おめでとうございます」
栄盛は辛うじて祝いの言葉を絞り出し、頭を下げた。そのまま上げたくなかった。必死でこらえようとしているのに、顔が悲しみとやり切れなさにどうしようもなく歪んでしまっているのを分かっていたからだ。
「桜が嫁いでも梅子姫がおるからのう」
栄盛の表情に気付かぬように、葵御前は説明した。桜姫には母の違う一つ下の妹がいるのだ。
「私は結婚なんてしたくありません! もっと舞を練習してうまくなって、たくさん踊りたいのです!」
桜姫は膝の上でこぶしをぎゅっと握っていた。
「それは無理じゃと言ったじゃろう」
葵御前は姪の抗議をあっさりと退けた。
「相手は公家五本家の一家のお方じゃ。充分そなたと釣り合う家柄じゃ。何の不足があるのじゃ」
「私はずっと舞巫女を務めたくて、一生懸命練習してきました。なのに、急に先方の都合で嫁ぐことになって……。私にはまだ早すぎます!」
「結婚できるだけ喜びなさい」
葵御前はぴしゃりと言った。
「わらわのように老女になるまで大社に閉じ込められたいのかえ!」
厳しい声で言った葵御前は、すぐに口調をやわらげた。
「そなたの気持ちも分からぬではない。じゃがな、結婚とはそういうものじゃ。皇家だけではない。公家でも武家でも、親が決めた相手と結婚するのが普通なのじゃ。本人の思い通りになどならぬ。都の民でさえそうじゃよ」
「でも……」
「平凡な結婚が、結局は最も幸せに近いのじゃ。それが桜のためなのじゃよ」
その平凡な幸福を手に入れられなかった老女は、やさしいが寂しげな微笑みを浮かべて姪を見ていた。
「それよりも、栄盛殿、戦の話を聞かせておくれ。高桐家の軍勢はどうなったのじゃ。都へ迫っておると聞いたのじゃが」
葵御前が話題を向けてきたので、栄盛は仕方なくそれに応じた。
桜姫はまだ何か言いたそうだったが口を開かず、基龍を捕らえた作戦を話す栄盛を見つめて目を潤ませていた。
「反乱軍が引いたのなら、桜祭や舞の奉納は予定通り行われるのじゃな?」
「そのはずです」
高桐軍への備えは瓜棚家と蒲火家に任せ、舞木家は祭りの警備を担当する。そう葵御前に言うと、小太郎が出る屋台の数や内容を知りたがったので、届け出があったものを思い浮かべて、例年通りのようですよと語った。
やがて、茶が冷めた頃、栄盛は屋敷を辞した。
「そろそろ都から寄進の品が届きますので」
別れの挨拶をした栄盛に、門まで送ってくれた葵御前と西門吉房は再度礼を述べた。
「姪を助けてくれてありがとうよ。もし近くまで来たら、また寄っておくれ。年寄りは話し相手に飢えておるからのう」
口ぶりは明らかに社交辞令だったので、二度と来るなと言われたのだと栄盛は理解し、「はい」と答えた。
一方、桜姫は苦しげにこう言った。
「また、どこかでお会いしましょう」
それは桜姫の願望であって、その「どこか」など存在しないのだと栄盛は知っていたが、力を入れて答えた。
「はい、必ず」
その短い言葉にすがるように、桜姫は大きく頷いた。
栄盛はかなうはずのない約束を胸に、満開の桜の間を歩き出した。
途中で振り返ると、桜姫はまだ門の前で栄盛を見つめていた。そちらへもう一度お辞儀をすると、姫のもとへ駆け戻りたい気持ちを振り切るように栄盛は足を速め、本殿で待つ家臣たちのところへ向かった。
「俺にはやるべきことがたくさんある。公家たちを説得し、叔父上を助命させて、恵国に勝たなくてはならない。一人の娘、それも決して手の届かぬ相手のことに、かまけている余裕などないのだ」
そう自分に言い聞かせながら、今後しばらくは桜姫の美しい面影が脳裏から消えないことを、栄盛は分かっていた。