序章 茜ヶ原
『嵐の歌に、花は舞う』 吼狼国図
春風が吹いていた。
田園地帯のはずれ、茜ヶ原と呼ばれる広い草地のあちらこちらで、満開の桜が枝を揺らしている。
「来たか」
舞木栄盛は小さくつぶやいた。前方に並ぶ四万の軍勢の間から、藍色の立派な鎧を着た四十代前半の武将が現れたのだ。義理の叔父の高桐基龍だった。
護衛の武者を二人連れた基龍は、朝日を背に、馬に乗ってまっすぐこちらへ向かってくる。赤い鎧の栄盛は、やはり護衛二人と共に、叔父の軍勢と味方の軍勢の中間の場所に立って待っていた。双方とも相手に害意がないことを示すため、武器は腰の刀しかない。
「話合いに応じてくださり、ありがとうございます」
馬を下りた叔父に栄盛は頭を下げ、向かいの床几を勧めたが、基龍は一瞬視線を向けただけだった。
「話があるそうだが、どういう用件だ」
叔父が腰を下ろさなかったので、栄盛も立ったまま言った。
「兵を引いていただきたいのです。都へ進軍するのはおやめください。俺は叔父上と戦いたくありません」
「わしも栄盛殿と戦いたくないが、それはできん」
基龍は考えもせずに即答した。
「何の話かと思えばそんなことか。わしがいまさら兵を引けぬことくらい、君にも分かっておるはずだ」
「もちろん、分かっています。ですが、そこを曲げて、足の国へ戻っていただきたいのです。今は恵国に攻め込まれている国難の時。味方同士で争っている場合ではありません」
「何が味方同士だ!」
基龍は吐き捨てるように言った。髪に白いものがまじり始めている品の良い中年の武将には似合わぬ口ぶりだった。
「都の公家どもは味方ではない。敵だ。これまで我々武家がどれほどやつらに苦しめられたと思っている。死んでいった仲間たちのためにも、わしは連中を政権の座から引きずり降ろさなければならぬ。そうしなければ、恵国との戦には勝てぬのだ!」
基龍の言葉の正しさを、栄盛はよく分かっていた。だが、諦めることはできなかった。
「俺も気持ちは同じです。ですが、宗皇陛下のいらっしゃる玉都へ攻め上るとおっしゃるのなら、我々は叔父上を討伐せざるを得なくなります。それでは双方に多くの犠牲が出ますし、叔父上を失えば恵国との戦は一層不利になるでしょう。それを見過ごすことは、あの戦に参加していた一人として到底できません」
栄盛は必死で訴えながら、凛々しい眉の裏では、やはり説得は難しいな、と考えていた。
五年前の降臨暦三三一二年、海の向こうの大陸から吼狼国へ使者が来た。数百年に渡った混乱を収めて国内を統一した英雄が、以前の王朝と同様に大恵寧帝国への服属を求めてきたのだ。
「公家どもは使者を斬った。八百年この島国を支配してきたことに驕って現実を見失い、神国思想に凝り固まって、自分たちの行いが何をもたらすかを想像できなかったのだ!」
激怒した皇帝は、二年前に突如大船団に乗せた十万の大軍を送り込んできた。
「このままではいつまでたっても戦は終わらぬ。反乱を恐れて我々武家に大兵力を与えようとしないのだからな。やつらが都で贅沢な暮らしを続けている間に、四国を占領されてしまった」
戦場で命をかけている武家たちは怒り、数でまさる敵を相手に善戦していた名将基龍を中心に団結して反抗するようになった。公家は突然基龍に帰還命令を出し、殺されると感じた基龍は兵を挙げたのだ。
「公家どもは近年力をつけてきた我等武家に官位を与えて従わせておるが、その扱いは一段低いものだ。今こそ武家の地位向上が必要なのだ」
「説得してやり方を改めさせます。守京五家を二つも敵に回したくないはずです」
舞木家や高桐家は配下に多くの武家団を抱える棟梁の家柄で、交代で近衛上狼将に任じられて都を警備する。栄盛自身もまだ十六歳ながら恵国との戦で基龍の副将として活躍した実績がある。
だが、基龍は首を振った。
「説得など無駄なことだ。公家どもに国を憂える心があれば、挙兵する必要はなかった。君こそ我々に味方してもらいたいところだが、それは無理なのだろうな」
基龍は四万の武者と二十台の塔型投石機を目で示した。基龍の背後でも、同じく四万の軍勢が戦いの開始を待っている。
「俺にも立場があります。ですが、叔父上たちに誓った思いは変わっていません」
父危篤の報を受けて都へ戻る時、栄盛は挙兵を思いとどまるように武家たちを諭し、自分が公家たちを説き伏せて改革を実現すると約束した。
「我々は三ヶ月待った。だが、事態は悪化する一方だった。だから都への進軍に踏み切ったのだ。武家を虐げる春波家の政権を倒し、我が主家たる夏雲家を中心に、戦に勝利できる体制を作る」
「どうしても撤兵していただけませんか」
「兵は引かぬ」
高桐基龍は太い声で断言した。
「残念です」
栄盛は無念そうに言うと、すらりと刀を抜いた。
「では、こうするほかないようです」
基龍と護衛の二人は腰の刀に手をかけて身構えた。
栄盛は刀を高く掲げると、大きく円を描くように振り回した。
「何のまねだ。……何かの合図か!」
基龍がはっとして辺りを見回すと、玉都守備軍の四万の軍勢が、一斉に刀や槍を振り上げて鬨の声を上げ、駆け出した。会見場所に押し寄せてくる。
「逃げろ!」
基龍は叫んで身をひるがえし、馬に飛び乗って護衛の武者二人と共に自軍へ戻ろうとした。だが、三人はすぐに馬を止めた。
「しまった! やられた!」
目の前に背後から多数の火の玉が降ってきたのだ。こぶし大の丸い石に布を張って油を塗り、火をつけたものだ。それが投石機一台当たり十個ほど、全体で数百も投げ込まれた。
しかも、それが落ちた途端、地面が燃え上がった。足元の草の間に干し草や枯れ枝を大量にまぜて、油をかけてあったのだ。
「栄盛殿らしい計略だ」
基龍は休みなく火の玉を飛ばしてくる投石機を悔し気に振り返った。
「仕方がない。迂回するぞ!」
基龍は護衛二人に叫んで海側へ向かおうとしたが、馬が転んで地面に投げ出された。足元の土が泥田のようだった。会見場所の左右、田んぼ一つ分ほどの範囲に、水をまいて土をこね、草をかぶせあったのだ。
基龍たち三人は足が泥にはまって動けなくなってしまった。重い鎧を着ていたことが災いした。
「総大将殿をお救いしろ!」
状況を悟った四万の高桐軍が向かってくる。だが、目の前には強い風にあおられて燃え盛る炎の壁がある。それを高桐軍が迂回している間に、都守備軍は泥田を包囲していた。
「もはや逃げられぬか……」
槍や弓を向けて近付いてくる武者たちを見て基龍が悔し気につぶやいた時、栄盛が叔父に刀の先を向けて大声で叫んだ。
「それ以上進めば、基龍殿を殺す!」
高桐軍の武者たちは足を止め、武者頭の指示を待った。注目を浴びた諸将は悔しげに栄盛をにらんだが、攻撃命令はためらった。彼等は高桐家に従う武家たちだ。当主を見殺しにはできない。また、武功も武者たちの人気も群を抜いている基龍を失えば統制が取れなくなる恐れがあり、そうなっては待っているのは破滅しかなかった。
「やりましたね。これで我々の勝利は確実です」
栄盛に仲間の大将の瓜棚敏雅が言った。同じく三大将の一人、蒲火氏猛が叫んだ。
「ここまでうまく行くとは思わなかったが、よくやった! さあ、一気に敵を叩くぞ!」
瓜棚家と蒲火家も守京五家だ。
「敵は動揺しておる。ここで総攻撃すれば簡単に打ち破れるぞ!」
好戦的な氏猛は目を血走らせている。名家の当主でもう三十代半ばなのに、自ら敵陣へ切り込んで暴れる武勇自慢なのだ。だが、猛将が大きな頭の髭もじゃの口を最大に開いて全軍突撃とわめこうとするのを、栄盛は「待て」と手で押し止めた。
「駄目だ。攻撃はしない」
「何だと?」
目をむく氏猛と敏雅にはかまわず、栄盛は高桐軍に向かって大声で叫んだ。
「基龍殿を殺すつもりはない!」
意外な言葉に敵味方双方がざわめいた。
「俺は基龍殿を連れて都へ戻り、この武功と引き替えに、公家たちと交渉するつもりだ!」
「貴様、一体何を考えておる」
氏猛が慌てて吼えるように尋ね、基龍が怪訝な顔になった。
「俺は公家たちに基龍殿の助命を嘆願する。そして、基龍殿を近衛上狼将に任じて政権に加え、恵国戦の総指揮を任せるように進言する。合わせて、諸国の武家の不満と要望を伝え、腐敗した公家たちの綱紀を粛正させ、武家の地位向上を図る。四万の武家が都へ向かって進軍したことで、公家たちも肝を冷やし、自分たちがやってきたことのまずさに気が付いたはずだ。基龍殿の身柄とこの武功をその代償として差し出し、恩賞は辞退するつもりだ」
「栄盛殿……」
基龍は驚いた。敵味方の武者たちも互いに顔を見合わせて戸惑っている。
「そんなことが認められるか! わしはこの戦で手柄を立てて近衛上狼将になるのだ! お前たち、さっさと攻撃せよ!」
氏猛は自家の軍勢に怒鳴ったが、武者たちは動かなかった。彼等も公家政権に対する不満は同じで、高桐軍の討伐は正直なところ気が重かったのだ。それに、都守備軍四万の半数は舞木家の武者で、瓜棚家と蒲火家は一万ずつだ。栄盛の協力なしに四万の敵と戦うのは難しかった。
「我等三人は同格の守京五家だ! 軍の指揮は合議でとることになっておったはず。お主が秘策があると言うから乗ったが、お上に弓引いた大悪人の助命など、わしは許さんぞ!」
「まあまあ、よいではありませんか」
瓜棚敏雅がなだめた。
「大将を捕らえたとはいえ、恵国との戦で活躍していた猛者たちと戦えば、我が方にも大きな損害が出ます。それを避けられるのですから、栄盛殿の提案に乗った方が得だと私は思います」
敏雅に笑みを向けられて、栄盛は感謝の視線を返した。敏雅は三つ上の十九歳と年が近いので、昔から仲が良かったのだ。
「叔父上もよろしいですね」
栄盛が確認すると基龍は頷いたが、複雑な顔だった。
「それが実現できれば願ってもないことだが、恐らく無理だろう。話し合いで解決できるなら、我々は挙兵などしなかったのだ」
「交渉は必ず成功させてみせます。高桐・蒲火・瓜棚・舞木の四家が揃って嘆願すれば、公家たちも考えざるを得ません。我々は武家の代表。この国難の時に武家を本気で敵に回そうとは思わないでしょう」
「だとよいがな。だが、こうなっては君の言葉に従うほかあるまい」
「では、あなたの仲間に兵を引くように命じてください」
基龍は頷き、許可を得て二人の護衛を解放させ、味方の副将虹関直形を招き寄せて、相談して撤兵を決めた。
「我々は馬駆国を出て煙野国まで下がりますが、交渉が失敗した場合、再び都へ進軍します」
直形は言い、心配そうに基龍を振り返りながら自陣へ戻っていった。
栄盛は基龍の鎧の泥をぬぐうと手を縛って駕籠に乗せ、敵が引くのと息を合わせて戦場をあとにした。
春風が茜ヶ原を去る両軍の間を吹き過ぎていった。