全くもって
人生、何が起こるか分からないとは、よく言ったものだ。
命の危機に気付き、逃走を画策した二日後に、伯爵家に正義の槍が突き刺さろうとは、予想だにしなかった。
ばらばらに切り刻まれた人喰植物。拘束されている当主と正妻。その隣に側室と子供達。一部を除き、身を寄せ合いながらも未だに腰を抜かしている使用人。
彼等をぐるりと取り囲み、場を支配する赤い団服集団。
目まぐるしい展開に湯気をふきそうになる。
すっかり怯えきってしまったレイガなんかは、レシェイヌに珍しいほどぴっとりとくっついて離れない。
しかしまあ、それはいい。それはいいんだ。
ぎゅむっと俺の足が踏まれていなければな。
不健康な骨に、弟という重りがのっかる。
おい、ぎゅむぎゅむ、痛いぞ。足踏みはやめろ。踏み外して、捻挫でもしたらどうするんだ。危ないだろ。
かく言うレシェイヌも、混乱の渦から抜け出せずにいた。これ以上レイガを不安にさせないよう表情事態は澄ましているが、零れ出るものが目元をピクピクと震わせる。
そんな二人に、部下を引き連れて近寄ってくる金髪碧眼の巨漢な女。
なんだこの威圧感。動く岩か。
レシェイヌがほんの僅か、驚きと戸惑いに負けて後退りした。
すると、そっと安心させるように、背中に当たる大きな掌。だがそれは逆効果と言うもので、緊張が加わったレシェイヌの体は、益々強張りをみせた。
──レゼン・ウライア。
レシェイヌとレイガをこの大広間まで連れてきた、彫り深い顔立ちの美男。
紛れもない、レシェイヌの兄である。それも、唯一優しくしてくれたあの恩ある兄だ。
何年振りだろうか。レシェイヌが成長したように、彼もまた大人へと変貌を遂げていた。
しかし、レシェイヌの記憶に残る兄は、こんな、虎のような力強い体格などしていなかった。
眼孔だってもっと柔らかくて、声も少し高めで、ふわりと優しく笑う穏やかな人だったのに。
誰だこの人は。
どうしたんだこの変わり様は。
全くの別人だ。
なんでそんな無表情なの。むしろどうやってるの。無理だから。普通はなにしたって動くでしょ。おっそろしいんだけどこれ。
レシェイヌが勝手に美化していた兄の面影は、木っ端みじんに粉砕された。
その衝撃が大きすぎて受け止めることができない。身構える体は、ぎこちない動きで彼を無意識に避けようとしている。
多種多様な衝撃に襲われては、大人びたレシェイヌとて所詮子供。甘受する器はまだ底が浅く、定量が過ぎれば直ぐに溢れかえってしまう。
歩み寄ってきた岩女は、じっとレシェイヌとレイガを観察した後、レゼンへと的を移した。
「あなたせっかちなのよ。すっかり怯えちゃってるじゃない、この子達」
「あんたの見た目のせいだろ」
「そんなことないわよね?」
ここで同意を求めるのか!
レシェイヌは焦った。結果、沈黙を貫いた。
そして再びはっとする。沈黙は肯定も同義じゃないか。
二度目の焦りは、ぐるりと一回りしてレシェイヌを開き直らせた。
殴られてもいい。凄く嫌だけど、もう捕まったっていい。こうなればヤケクソだ。けれどレイガの安全だけは確保しなければ。彼はまだ、この伯爵家にきて三カ月足らずだというのに。
「ねえ、俺達、どうなるの」
ぴたり。女の視線がレシェイヌで止まる。二歩距離が縮まった。レシェイヌは後退さらない。
「一つ、わたしたちは国家騎士団の遠征部隊」
立たされる人差し指。
「二つ、わたしたちはただ捕まえにきただけ」
ぴとり。額に指先がくっつけられた。
「あなた自身は、どうなると思っているの?」
山をも破壊しかねない獣が、頬肉を吊り上げて、得意気に牙を覗かせる。
レシェイヌを弄び、その様子を目に収めようと、小憎たらしくクラリが笑うのだ。
挑発しているようで、違うなにか。
レゼンが喉を唸らせるその眼下。レイガが命綱として握っている、細い腕の持ち主は、頭にある引き出しをひっくり返して、クラリが言わんとする事を掴み取ろうとしていた。
それなりの量の本を読んできたため、知識だけはそこそこだ。
自称だけど。
まず国家騎士団。そのままだ。国の騎士だ。何のひねりもない。
しかしその遠征部隊。王族を守護する皆の憧れ近衛部隊ではなく、危険たっぷり荒仕事専門部隊。死神と手を繋いでいつでもあの世にいけるよ部隊。四肢が千切れたら、口で敵の心臓を食い潰せばいいだろう部隊。
はい待った。ちょっと待った。
序盤で既に遠い目になる。
なんでこう、物騒なのばかりこの家に集合するんだ。
レイガにきゅっと服の裾を引っ張られる。大丈夫、俺の気は確かだ。返事の変わりに頭を撫でておく。
通説なら、レシェイヌとレイガも身柄を拘束される筈だが、今、自分達には縄の一本も巻かれていない。向こうでかためられている一部の使用人や、側室などにも同様の者が見受けられる。
クラリは捕まえにきただけだと言った。にも関わらず、身動きが自由なのは、端っから対象と非対象に分けられていたということだろうか。
前者にしろ後者にしろ、王の元に連行され裁かれる時を待つ。これはまず間違いない。それ以降の処分についてはどうなるか。レシェイヌが、仮説を立てながら辿り着こうとしている終地点。クラリが誘導するように言の葉を厚い唇から零し、レシェイヌの足元を仄かに照らしていく。
それを消すのか、大きくするのかはレシェイヌ次第。
「多分、牢屋には入らないと思うけど」
希望的観測でもあるが、捕らえられていないということは、つまり、そういうことだろう。
加えて、彼等はただ、任務を通したに過ぎないとも言っていた。捕まえるだけ。後の始末なんて、そっぽを向いて知らん顔だとも聞き受けられる物言い。なら、レシェイヌは愚問を投げかけたようなものだ。
「すみません。さっきの質問は忘れてください」
緊張を解き、打って変わって苦笑を浮かべたレシェイヌを見て、明らかにクラリの目つきが変わった。
「なに。どういうこと? どうなったの」
「答えを知らない人に聞いても意味がないってことだよ。俺が馬鹿だった」
「ちゃんとおしえてよ」
「…推測だけど」
急かすレイガをなだめながら嘆息する。
「彼等…。彼女達、はここにいる全員を連行するために来たんだ。俺達みたいな、ある意味被害者側の人間も含めて全員。縛られている奴らは当事者扱いで、罰せられることがもう確実とかだろ」
「……」
「牢屋行きとそうじゃないのに分けられていて、後者は貴族会を通った後国王に判断を下される。俺達は後者だ。だから、今、どうなるかなんて誰も分からないってこと」
「…よそうは? あるでしょ、それくらい」
「仮にも一国の王が、やすやすと腹の内を言い当てられちゃ駄目だろ。だから、俺達の国王様は優れた方なんだよ。きっとね」
しかし悩ましいことになった。現状、レイガはおろかレシェイヌとて処遇が宙ぶらりんなのだ。最悪がないだけ儲けと思うべきか。
レシェイヌは、ここでようやく、背後に佇む男をまともに見やった。
この人がなんとかしてくれる、とは特段思っちゃいない。淡い期待と甘えるような信頼を預けるには、あまりも時が流れすぎた。
レシェイヌの記憶に埋もれ、進むことを忘れていた時計の針は、よくやく役目を思い出し、小さな丸を描き始めていた。
穏やかに笑っていた少年の頃の兄は、過去となり去っていく。
今のレゼンは、兄であって兄じゃない。
レシェイヌの中で、はっきりと境界線が引かれていた。それでも、一度感じた恩の気持ちは、迷子になることなく彼へと向かう。
レゼンが、確かにレシェイヌの兄であるのだという証拠だった。
感情というのはややこしい。新たに突きつけられた気分である。
そんなレシェイヌを見下ろすレゼンの目元は、満足そうに緩んでいる。一見、レシェイヌを快く思っているような態度だが、そこにレイガも含まれていなければ意味がない。
守られる側から守る側へと、立場が逆転したレシェイヌの深慮深さは、一層磨きがかったものになっていた。
無意識のうちに、レイガの命運を背負う覚悟までもしていたのだ。
レゼンには、出来なかったというのに。
「小憎たらしい程可愛げがない子ね」
「っうぐ」
「おい。乱暴しないでよ」
不意打ちでレシェイヌの顎をクラリが鷲掴み、強制的に彼女達と視線を合わせる羽目になった。さも気にくわなそうに顔をしかめるレゼンが、苦言を呈す。
「な、にっ」
「腐らせるにはもったいないわ。弟子にしましょう」
「ん?!」
…運命とは、突拍子のないものである。