前触れな一言
少しどころかぱっと見ただけで明瞭にパサついていると分かるパンを片手に、レシェイヌは今日もレイガの元へ訪れる。自暴自棄になりかけている小さな弟はなかなか難儀なもので、自分から食べ物を口にすることも放棄しがちだ。
気づいたら野垂れ死んでたとは笑えない冗談である。
今の状況のように。
ポタリ、ポタリと滴る茶色く濁った水。全身を濡らし、部屋の隅でうずくまり震えているそれ。
レシェイヌは軽く息を呑むと、下手に刺激しないようゆっくりと近づいていく。
もし噛みつかれても問題ない。耐える。いやでも噛むのって犬とかだよな。ほら、人じゃん、レイガ。噛むより引っ掻く? いやそれは猫か。
慰め方を知らない頭は見当違いな考えを導き出し、方角を見失った当人を迷宮へと陥れた。
なんとかなるだろ。
辿り着いた結論すなわちなげやり。
「レイガ」
返事は、ない。
「レイガ」
自分の上着を脱ぎ、嗚咽を漏らす弟にばさりと被せた。
「く、るな。あっちにっ、いけ」
弱々しい拒絶の言葉すらも包みこんで、俺も同じような目にあったなとレシェイヌはレイガの背を撫でる。
既にほとぼりが冷めた自分とは違い、レイガは進行形で跡継ぎ争いに巻き込まれているようだ。本人にそんな気がないことなど見れば分かるだろうに。あの能なしどもめ。
「ひっ、ぐ」
しかし、悪い種は意図的なのかと苛ついてしまうくらい重なって芽吹くもので、レシェイヌは除き、普段は物語らない筈の部屋の扉から、来客をしらせるノック音が奇妙なほど静かな部屋に響いた。
主の返事を待たずに無遠慮に開かれていく扉に怯えるレイガを宥めながら、レシェイヌはじっとその光景を見定める。
「失礼いたし」
「無断で入るとはいい度胸だな。それともただ馬鹿なだけか?」
入室しようとした年若いメイドを、わざと威圧的な言葉で窘める、自分が知るレシェイヌとはかけ離れた姿に、レイガが目を丸くした。
え、だれこの人。
そんな表情である。
「レ、レシェイヌ様? 申し訳ありません。私めはただ、レイガ様のお着替えを…」
「なんて名目で、様子を探ってこいとでも言われた? あんたの仕え人に」
「…っちがいま、す」
明らかな動揺。レシェイヌは悟った。
「着替えはいらない。出ていけ」
「ですがっ」
「失せろ」
「は、はい、はい!」
鶴の一声で再びおりた静寂。
レイガの鼻を啜る音が溶けて消える。
「にじゅうじんかく」
「それって俺のこと?」
だとしたらショックだ。目を伏せて憂いをみせるレシェイヌ。持ち込んだパンを千切ってはふてくされながら口へ運んだ。
そして後悔。水がないときつい、これ。
「俺の部屋に行くか。着替え貸してあげるよ」
「で、かいよ、せったい」
「縛ればなんとかなる。ほら」
「む、んぐ!」
半分ほど残った本日の夕食であるそれを、前触れなくレイガの口内へ突っ込んだ。風船のように膨らんだ両頬がもごもごと動く。
「いっぱい食って大きくなれよ」
でも俺より身長は低いままでいて欲しい。
あれがきっかけ、というには大袈裟かもしれないが、それからというもの、レイガがレシェイヌと共にいる時間が少しずつ増える結果となった。
今もレシェイヌを従えた目前の小さな主は、きょろきょろとせわしなく周囲に目を走らせては歩みを止め、再び進めることを繰り返している。
しかし当然の事柄として、身長が違えば歩幅も違う。レイガの二歩がレシェイヌにとっての一歩であるように。
お陰で二歩進んでは一体止まり、また一歩進んでは少し止まってまた一歩という、珍妙な行進をするはめになっていた。今なら乱れのない華麗な回れ右も披露出来そうな気がする。
「ねえ、それ、どうやってるの」
「それ? どれ?」
「なんで足おとがしないの。じゅうたんがあるわけでもないのに」
目の付け所が暗殺者みたいだ。おっかない。
「抜き足、差し足、忍び足。極めた」
からかうな調子でふふんと笑みを一つ。
「どうやって? ぼくにもできる?」
真に受けられても困るんだけど。
夜中に厨房へ忍び込み食料を漁るうち、自分でも素知らぬ間に染み付いた癖。まだまだ育ち盛りなのにスープで満足すると思ったら大間違いだ。が、ばれた瞬間待つ未来は全身痣だらけの一本道である。古いパンや捨てられる手前のものを少量拝借して腹に 溜めることにだって、くそくらえな覚悟が必要な生活水準なのだ、ここは。
「やめとけ」
どうやるのか教えてくれ? 感覚で掴めとしか言いようがない。
「でもぼく、つよくなりたいんだ」
視線がかち合う。片や波紋のない水面で、もう片や烈火に炙られてのたうち回る荒々しい金の瞳で。
同じ色なのに、レシェイヌのはまるで朝日のようだとレイガは思った。
「俺も」
「なに、いってんの。あんたもうつよいでしょ」
「それこそ何言ってんの。けちょんけちょんだぞ、俺。大人しくしてるからほっぽりだされてるだけ」
か細い指をソッと首筋に沿わせる。ゆっくりとした手付きだった。
「ここを締められたらときは終わったと思った」
ピシャアァン。雷が落ちる音が木霊した。
くははと能天気にレシェイヌが笑う。レイガの常識に落雷を起こしたことなど露も気づいていない。一般的な家庭とは線を引いた、囲いの外で育ったレイガの常識は、普通の括りからぐちゃぐちゃにはみ出ている。知った相手は憐れみの泉を目尻に溜め、結んだ口に閉じ込められた歯痒さを眉間の皺でもって示してくる。
だのに、レシェイヌのは。
「うそでしょ?」
「本当だよ。なんとか逃げたけど」
驚きでびょんと眉が跳ね上がる方が先だった。
なんというか、うん。変人だ。変人。
「で、お前はどこに行こうとしてるわけ? あんまりうろちょろすると面倒な奴に見つかるぞ」
「ひみつをあばくんだ」
「秘密ぅ?」
やさぐれたおじさんのような声を上げて天井を見つめる。そのまま黙ること一秒、二秒。
「死体の隠し場所とか?」
「あんたの口はばくだんか!」
振り仰いでレイガに吠えられる。なんだ、違うのか。そもそも秘密だなんてきっと禄なことじゃない。それを暴くときた。先陣を切って危ない橋を渡る将の足取りは軽くても、踏みしめるそこはいつ崩れて谷底に転落しても不思議じゃないほど脆く弱いものだ。
けれど。
──あってないような立場は、いまに始まったことじゃない。
両の掌を視界の中央で広げる。自ら破壊して新しい基盤を築くにはまだ力が足りない、未熟で小さな紅葉。長い間ぐつぐつとぬるま湯で煮立たれた欲が、頭の中にさざめきを落とす。
「ねえ、そんなとこでとまらないでよ」
「…あぁ。うん」
眠る獣の瞼が震えた。
知らざることは時として罪の烙印を押される。故意に隠蔽されたぬばたまの黒石は、渡る人の手によって金剛石へと成り変わる。
ほんの些細な隠し事が、第三者にとっては大きな切り札と成り得る千載一遇の機会。どっかに落ちてないかと首を巡らせ目も光らせど、そうそう見つかる筈もない。
「所詮、離れだから。本邸なら別だけど」
「…いきたくない」
「あいつらいつも張りつめてるせいか、妙に勘がいいんだよな。行ったらまず怪しまれる。間違いなく」
「ごまかせないの?」
「それでも伯爵の耳には入る」
だが、向こうに気になるものがないこともない。
「…ほんとさいあく」
日数をかけても成果の出ない詮索を一旦中止し、レシェイヌの自室で寛ぎながら策を練り直す。
「あんたもやるきだしてよ」
「いや十分燃えてる」
「ぜんぜんそうみえない」
「無気力と言いたいのかおい」
夜の睡眠が浅く短くなる位には気合いが入っているというのに。
寝癖で散らかる髪を鬱陶しげにかきあげて深く息を吐く。
「やっぱり本邸を疑うべきか…」
「せんにゅうしてこい!」
「指さすな」
しかも命令。意気込んでの命令。気迫すら感じる指差し指名。
「俺だって嫌だよ。なんかいい理由が出来ればいいのに」
とりとめのない呟きだ。願望にすら届かない独り言めいたものだったのに。
幸運の女神がレシェイヌに微笑んだ。