兄と弟
レシェイヌは、本を読むことが殊更好きだ。
彼の精神が大人びているのは、悪質な生活環境に身をおいている他、書物から得た知識が幾分ばかりか精神年齢の成長に影響しているからだろう。
かといって、同じ境遇に置かれた子供が総じてレシェイヌのようになるわけではないというのも当然の事実であり、希少という括りで片付けられるほどやすくもないのだ。
伯爵家ともなればそれなりの図書館が備えられているのだが、どうやらここも例外ではないらしい。知り得た当初は、あんな馬鹿そうな奴らでも本は読むのかと妙に可笑しくなったものだ。彼らにとって、貴族としての要素を際立たせるための飾りの一つに過ぎないのだろうと考えた方が頷ける。
半年に一度、本の総入れ替えが行われるわけだが、処分対象となるものは破棄される前に一度、何回かに分けて離れの奥へ集められる。
これは本に限らず言えることで、壺やら洋服までもが運び込まれてくるのだ。
理由は知る由もないが、大方想像は出来る。ごみはごみ箱へ。そこに、生物も無機物も関係ない。いらない人間の元に、いらないモノが集まってきただけだ。
そんな不必要の烙印を押された本を漁り読み、まだ見ぬ外の世界へと思いを馳せる。それを、いつも一人で行っていた。つい最近までは。
こんなに真新しいのにどうして捨てるのだろうかと眉を寄せながら、山積みになっているそこから一冊手に取る。そして、後ろで居心地悪そうに体を縮めているレイガへ渡した。
「気になってたんだろ? ここにあるのなら好きなだけ読んでいいから。誰の許可もいらない」
「…あっそ」
レイガの学力は高く、既にそれなりの書物を読解出来る域まで達していた。聞けば読み書きも独学とのこと。こいつ天才かよと思いきや計算はすっからかんときた。単に得意、不得意の差が激しい子らしい。
個性的な頭脳だなとズレた解釈をしながらレシェイヌは再び本の山を漁る。あまり堅苦しいものは難儀だが、歴史書なら意外とそうでもない。しかし、いつまでも背中に感じる視線が気になり一旦体を起こした。
「なに、もう一冊欲しいのか?」
「いらない」
じゃあなんでこっち見てくんだよ。
ひょい、と今度はレシェイヌの片眉が跳ねた。
「腹減ったの?」
「ちがう!」
即答された。
「全部聞くから、お前が言いたいこと。だからちゃんと言葉にしろよ。馬鹿になんてしないし、怒ったりもしないから」
「………」
「ほら」
「…あ、のさ、」
「おい! よく見ろ。溝鼠が二匹に増えているぞ」
しかし、無遠慮にも割り込んできたその声で、瞬く間にレシェイヌの機嫌が降下した。
靴底で踏み潰された土泥がお気に入りの洋服へ飛び散ることよりも、ずっと不快な出来事が、彼等の日常を邪魔しにきたのだ。
くすんだ金色の髪が意地悪そうに四方へ跳ね、此方を見下す碧眼が弧を描く。
伯爵家次期当主に最も近いとされているスタラ・ウライアが側近の部下を引き連れながら二人の前に立ち塞がっていた。
めんどくさい奴がきた。こんなことなら、さっさと部屋に引き上げればよかった。
心中で舌を打つ。
欲望で創造された、狭くとも弱肉強食な世界で一等に力ある存在。彼の母親が正式な伯爵夫人だからこその、揺るぎない地位。
月に一度、この青年はレシェイヌの元へ来ては一方的に罵り、自己満足して帰っていくという不明行動をとくる、砂糖菓子よりも甘ったれな生粋の坊ちゃんなのだ。
レイガをちらりと横見てレシェイヌが対峙する。さり気なくその背にレイガを隠した。
「相変わらず雑草のような見窄らしさだな、レシェイヌ」
「…何のご用でしょうか、兄上」
「やめろ。貴様に兄などと呼ばれると虫唾が走る」
「すみません、兄上」
「…この私をおちょくっているのか?」
「滅相もありません。兄上」
「レシェイヌ!」
「…っふ」
スタラが怒りの声を喉奥から吐き出すと同時、レイガが小さく笑いを吹いた。
なんだ、笑えるじゃん。
レシェイヌの肩が安堵したかのように下がる。初めて見たレイガの顔だった。
「煩わしい愛人の子風情が図に乗るなよ。貴様等二人、このままのうのうと生きていけると思わないことだな」
捨て台詞と吐いて立ち去ったスタラの言葉にいち早く反応したのは、レシェイヌではなくレイガであった。相変わらず一体あいつは何をしにきたんだと呆れるレシェイヌに、食い入るようにして問い詰める。
「あんた、あいじんの子だったの?」
「おー」
まだこの屋敷に住むようになってまもない、かつレシェイヌ以上に伯爵家を嫌うレイガが、初めて、屋敷内における人間の関係図に興味を示した。
「……ぼくとおなじ?」
「おー」
おなじなんだ。もう一度レイガが嘯く。
「同じだな」
言いながら手を伸ばし、最近身長が伸びてきた彼の頭をわしゃわしゃと撫でる。
レシェイヌの猫毛とは違う、サラサラとした感触が少々くすぐったい。
この頃になってやっと振り払われなくなったなと考えに耽りながら、口を開く。
「まだ先のことだけど俺、成人したらここを出ていくつもり」
かつての兄がくれなかった言葉。
「その時はレイガも一緒に来るか?」
おいてけぼりは、寂しいから。
***
低い天井から吊された橙色の洋灯が、二人の男の歪んだ影を床にうつす。
まるで草臥れた木箱のようなその部屋は、誰かに暴かれることを拒むかの如く、世界を覆う暗闇の海に沈んでいた。
「悪いね、こんな夜中に邪魔しちゃって」
「別に」
「これが報告書だよ。やっぱ当たってたわ、お前のカン」
「そう」
「けどなあ、持ち運び先は直接お前の実家みたいなんだよね」
「…あァア?」
淡白な様子から見事な豹変ぶりをみせた同僚の姿に、青年が慣れた様子で息を吐く。
甲冑よりも頑丈な火鼠の皮で作られた団服の首もとを緩めて、いきり立つ獣を見下ろした。
「すんごい形相」
「茶化すな。説明しろ」
「ほんと実家嫌いだよね」
「奴らは近いうちに根から潰す」
「こわっ。それを判断するよは上の人達だからね?」
彫り深い顔立ちが凄むと迫力が違う。
「けどさ、あそこ子供とかやけに多いじゃん。もし仮定が事実だとしたら、とんでもない計画犯だよ。下手したら半分以上死ぬかも。その子供ら」
「だから急いでるんだろ、証拠集め」
「お、まえ…慈悲の心がちゃんとあったんだね」
青年は感動した。氷の彫刻と例えられるほど心が冷えている同僚も、子供相手になるとあたたかみのある人間になるんだなと、胸に安堵の幕がおりてくる。
「早く彼等を助けてあげようね」
「馬鹿言え。子供もろとも牢屋にぶち込む。死なれたら使えるものも使えなくなるだろ」
しかし凶悪な暴風によりその小さな火は見事に消し去られた。
牢屋って。親戚筋でも孤児院でも教会でもなくて石の部屋行きって。さっき後始末をするのは上の人達だって言ったばかりなのに。しかも利用する気満々とか。
「悪魔はここにいた」
「仕事をなめてんの? あんた甘過ぎ」
「いや君が冷た過ぎるだけだから」
齢25。こんな思考回路の持ち主が自分と同い年なんて。
空恐ろしい。
「で、隊長からの命令。潜入捜査は君に任せたってさ。囮も用意してあるらしいから、場所を把握したら教えてくれって。そしたら後日強行突破みたいだよ」
聞きながら虚空に焦点を漂わせていた青年だが、そのままコクリと首を横に倒した。
「殲滅させる」
「頼むからこらえて! 作戦大事!」
「弟に会いたい」
「…え? 君、あの家に情が湧いた子なんていたの?」
「俺の事、覚えてるかな。どう思う?」
「いやいや俺に言われても。小さい頃とかなら忘れてるんじゃない?」
「泣く」
「は? は?!」
「うるせえな黙れよ」
「…理不尽」