甘えの始まり
※グロテスクな表現があります。苦手な方はご注意ください。
馬に勝るとも劣らない体から、立ち込めてくる死の臭い。
びくつく鼻から、肺の奥まで腐臭が染み渡り、体の内側から背筋をそっと撫でられる。
瞬間、肌が総毛立った。
まだらに広がり、小さく膨れ上がった紫色の水疱がそこかしこに点在している魔物の死体を前にし、レシェイヌは表情を取り繕うことができず、ぐっと不快感を露わにした。
平然としているライドの気が知れない。
吐かないだけ上出来だと言われたが、ルスターも平気そうにしていると、なんとも言えない気持ちになる。
「腐臭に紛れて変な匂いがするな。毒か」
──区別がつくの? 獣なの? どんな嗅覚してんだよ。
「ルスター、腹捌くぞ」
「まじっすか師匠…」
そして目の前で始まる解体劇。
「こいつ、肉食だな。胃袋からこんなん出てきたぞ」
「なにそれ足?! ぷらーんってなってますけど」
「持っとけ。後でこいつ特定するのに調べるから」
「ええぇー…」
「ちび二人も手伝え」
血みどろになりながら全員で解剖した。
近くの川辺で血を洗い落としている時、遅れながら気付く。
毒、触っても良かったんだろうか。
小さな爪先に、まだ、赤が染みついていた。
森を歩き回ってから数時間。最初に発見した魔物の他にも、同様の骸がそこら中に点在している。
異様だ。
人工的な仕業ではないとライドは言うが、目星でもついているのだろうか。
彼は先程から考え込んでおり、幾分無口になっている。
それでも足取りに迷いはない。まるで、始めから、この場所の地形を知っているかのよう。
聞けば、
「風を辿ってる」
とのこと。
唖然である。自然そのものに上手く溶け込んでいるのか、途中で出くわす野生動物も逃げだそうとしない。
中には、すり寄ってくる魔物なんかもいる。
凄いな。
慣れてますと哀愁の笑いを浮かべるルスターへ耳打ちする。
「ひょっとしてあの人、獣人とか?」
「いやそれはねえから!」
ルスターに叩かれたレシェイヌの肩から、陽気な音が空に弾け飛ぶ。レシェイヌが反応を示すよりも早く、小さな竜が火を噴いた。
「たたかないでよ。このひとがめいわくしてるじゃん。みてわかんないの?」
「……ほほう。君はブラコンか。なるほど」
「ぶ…? なにそれ」
「兄弟が大好きってことだ」
ルスターは度々、聞いたことのない言語を使う。少し戸惑うレシェイヌとは別の意味で、レイガもまた、瞳を満月に開いていた。
咄嗟にレシェイヌを仰ぎ見る。
「ん?」
「…きょうだい」
「そうだね」
レシェイヌはふんわりと微笑み、レイガの頭上に手を乗せた。
嫌いなら、振り払えばいいだけのことなのに、甘んじてしまっているこのひと時が、レイガにとっての答えであるように思えた。
「お、洞窟発見。此処を拠点にするか」
「熊とか居そうなんですが師匠それは…」
「さっき魔物が彷徨いてただろ。動物はいねえよ。喰われるから」
「逆に危険じゃねえか!」
掛け合いのいい師弟から仲の良さが伺える。
どうやら今日はここまでらしい。修行がてら、食料を採ってこいと、早々にライドからほっぽりだされた三人。草木を分け、ルスターを先頭に進んで行く。
「来るな来るな来るな来るな」
「…さっきから何言ってんの?」
「魔物がこないよう呪文を唱えてんの」
レイガがとんでもない顔でルスターを見ている。もしあれを自分にされたら、レシェイヌは間違いなく落ち込む。
「そんなことしたって、来る時は来るでしょ」
「いや分かんねえぞ。ほら、言霊って大事だから!」
「あっそ」
呑気だな、の一言を呑み込んだのは、ルスターが大樹の枝に高くぶら下がる、赤い果実を見つけたからだ。
踊るように駈けていくルスター。置いてけぼりになってしまった、さっきまで恐怖に震えていた彼の心。誰かに掬い上げられることもなく、ひっそりと溶けて消え去るのと同時、ルスターの背に喜びの羽根が生え、軽々と木を登り実に手を伸ばした。
「うんまい! おまえ等も食えよ。今落としてやっから!」
「早く戻ろうよ」
「持ち帰れる数なんて限られてるだろ。ここでいっぱい食っといた方がいいって」
「…それは、確かに」
一つ、落ちてきた拳程のそれを拾う。
意外に固い実を口へと運べば、甘味と酸味がじゅわりと広がり、「んんっ」と乾き疲れた喉が鳴る。
美味い。
普通に美味しい。
再度拾った実をレイガに渡す。
体を左右に揺らし、そわそわとしていた動きがぴたりと止んだ。
「大丈夫」
「ふ、ふーん。そう」
不機嫌を気取るレイガに小さな笑いが零れる。
隣り合って空腹を満たした後はもう、拠点へ戻るだけとなった。
それぞれ両手に果物を抱え、さあ行こうかとルスターが踏み出した足に合わせて、さざ波のように木の葉が揺れる。
不安を掻き立てるような、嫌な音だとレシェイヌは思った。
悪戯好きな風の微笑みとは違う、例えるなら、固い鱗に擦られ、痛いと泣き震える木の葉の叫びに聞こえていた。
丁度今、レイガが茫然と見上げる先、シュルリと舌をちらつかせた黒い影。
人間の胴体のように太く、長く成長した体を覆う鱗が、犯人であると思ったのだ。
「蛇でかすぎー!!」
逃げなければ、と青ざめるレシェイヌ達をよそに、何故かルスターは身を構えている。
戦闘態勢に入ったのだと気づいて、ぎょっとする。
無謀だと叱咤する前に、彼の表情を垣間見て、別種の驚きがその言葉を塞ぎ止めた。
「君達、魔術って知ってる?」
「…え、は?」
「だよねー! オレも最初はそんなんだったし」
無意識に繋いでいたレイガの手を、ぎゅっと握る。
「君もレイガも…いや、レイガはもうちょいか。半分目覚めかけてるようなもんだぜ」
大蛇が動く。翳されたルスターの掌から立ち上ったのは炎。ぐっと拳を作れば、あれよと言う間に、そこを包むかのようにして大きくなる。
「だからほら、もう見えるだろ?」
ルスターの声がさらさらと耳からすり抜ける。
唖然に染まった顔は、瞬きも忘れて、大蛇とルスターの戦闘を食い入るように見つめている。その視線を感じてか、少々、ルスターの方も有頂天になっていた。
そうして生まれた隙を狙い、三人の背後に潜んでいたもう一匹の大蛇が、レシェイヌへと牙を向けた。
「っうわ!?」
「やべ! レシェイヌ!!」
慌てるルスターを尻目に、蜷局の中に獲物を抱えた大蛇は、茂みの奥深くへ姿をくらませてしまったのだった。
***
じたばたと我を忘れて興奮するレイガは、ルスターにより無理矢理地面に押さえつけられていた。
それでも口から吹かれる火炎はとどまることを知らず、もはや奇声と化している。
ようやっと自我を取り戻し、ルスターと共に急いで消えた大蛇の後を追うが、レイガの顔色は一向に優れない。
焦る気持ちが表情を削ぎ落とし、声帯をも締め付ける。荒れる呼吸は時折引きつりまるで泣いているかのよう。
どうしてこんなに必死なんだ。
己の精髄から広がる波紋。
それは徐々にレイガの体を支配し、頭の中で永遠と反響する。
兄弟。片親だけの繋がりだが、確かに兄弟だ。ウライア家で初めてレシェイヌに会ったときから、彼を受け入れずに拒絶を繰り返してきたこれまでが、記憶として駆け巡る。
その中で、レシェイヌは一度も、レイガを突き放したことがなかった。
持て余す程の不安と恐怖が、暴威となって口から飛び出した時も、感情の糸が切れ、制御しきれない体が彼を傷付けた時も、全部、いつだって、仕方ないなと温かな懐で包んでくれた。
それに甘え、捨てに捨て切れぬ意地をはっていたのはレイガの方だ。
拙い虚勢はレシェイヌに包まれ、心地よい揺りかごの中で眠りにつこうとしていたのに、無理矢理起こしては素っ気ない態度を取ってきてしまった。
本当は、ありがとうと言いたかったのに。
にいさんと、呼んでみたかったのに。
仄かな願いをすり潰していた自尊心が今、グラグラと揺れている。
ルスターが少々乱暴に頭を撫でてきた。大丈夫だと鼓舞するその手を加減もなしに払いのける。
違う。欲しいのはこの手じゃない。欲しかったのは、これじゃない。
枝が不自然に折れ、何か重いモノを擦ったかのような土跡が続く。
これを辿れば、大蛇の住処があるらしい。
もし、と浮かぶ最悪の結末。
血を失い、ぬくもりが奪われた、脈を打たないレシェイヌの体。
動揺のあまり足がもつれてすっ転ぶ。
「レイガ?!」
しゃがみ寄り、慌てるルスターの胸元を掴んで吠える。
「まじゅつが! つかえるならっ、あのひとをたすけてよ!!」
夢物語の力を目にした感動なんて露ほどもない。
そんなものに魅せられる余裕など、レイガには皆無であった。
誰かに縋らなければいけない情けなさが、それらを食い尽くしていた。
「いやオレのは探索向きじゃないし…」
「くたばれやくたたず!!」
「過激だなお前?!」
吐き捨ててまた走り出す。
「きっと大丈夫だって! 大蛇は持ち帰った餌を、暫くは手付かずのままとっておく習性があるし!」
理性が焼き切れた暴君は、既に聞く耳を閉じてしまっていた。
やがて、ぽっかりと森に浮かぶ洞窟が見えてくる。大蛇が這った後はそこへと続いていた。
躊躇なくレイガが飛び込む。何かがばちりとはじけて葉草を焦がした。ルスターの叫びが虚しく響いて暗穴に消する。
レイガの足音と跳ねる水音が重なる。奥へ行くにつれ、そこかしこに水溜まりが出来ていた。
すぐ近くで蠢くモノの気配を感じ、無謀にも、彼は激情のまま襲いかかった。
「あれ。迎えにきてくれたの? レイガ」
それがレシェイヌだと気付いた時の、あの、泣きたくなるような気持ちは、何十年経っても色褪せることはないだろう。