第二章 ②
アランは夜風に金髪を流しながら、天守の露台に座っていた。
さすが武人だ。
青玄は、微かな物音で即座に体を起こした。
「どうした? アラン」
……驚いていない。
その反応に、アランの方がびっくりした。
白い薄手の着物姿のまま、迷うことなく露台にやって来る。
「なるほど。夫婦別室というのが武人の家では、当たり前なのですか?」
「ああ。布由は泣き疲れたところを、侍女が部屋に連れて行った。あの娘は、まだまだ子供だからな」
「大変なんですねえ。トノサマも……」
「これからが、もっと大変なんだがな」
露台に手をかけ、夜空に目を細める青玄を、アランは、胡坐のまま注視していた。
「何故?」
青玄が顔を向けた。
「その大変な最中に、私がやって来た理由を聞かないのですか?」
笑顔の仮面のままアランが尋ねると、青玄は口元を押さえた。
笑っているらしい。
「私を殺しに来たのか?」
「そりゃあ……。貴方は明日ここを出て行くのだから、今夜しか好機がないということになりますよね?」
「まあな。しかし、そなたが私を本気で殺すつもりだったら、もっと早くやっていただろう?」
「貴方は、一体……、何処まで私のことを、ご存知なのです?」
アランは、立ち上がる。
珍しく、真面目な質問をしたつもりだったが、青玄は微笑を浮かべたまま、首を振るだけだった。
「私は、そなたのことなど何も知らぬよ」
……やはり。
青玄は、和国の人間だ。
アランが何者であるかなんて、知るはずもないのだ。
……なのに?
青玄は、欠伸をしながら続けた。
「だから、正直、斎条家の納屋から、そなたがどうやって抜け出してきたのか、分からぬし、得体が知れないと思っている。まあ、暗殺者になるくらいなのだから、どんなことが出来ても不思議ではないと、腹は括っていたがな」
アランは、首を傾げた。
「じゃあ、昼間の話は?」
「昼間?」
「貴方とは数日間近くにいましたけど、いくらなんでも、今日の話は部外者の私に話すことではなかったと思いますよ」
「そんなに、いけないことでもないと思ったのだが。いけなかったか?」
「いけないですねえ。私がその気になれば、貴方がやる気のないことを安能に吹き込んだり、総部の家臣に、貴方が臆病者だって噂を流すことだって可能です」
「そんなことをしたって、意味はなかろう。そなただって分かっているくせに」
青玄は淡々と言った。
「総部は、負ける」
アランは、瞳を大きく見開いた。
まだ肌寒い風が、アランの金髪を冷たく撫でた。
「これは、必然だ。総部は戦国の世にあって、比較的、平穏だった。東国の独立という形を貫いたからだ。平和ボケしたのだよ。中央でどういう戦が起こっているのか、盟約を結ぶとしたら、どの国にするべきか、すべてを見誤った」
青玄のおろしている黒髪も、さらさらと音を立てて、揺れていた。
「負けるくらいなら、領地を安能に返して、私は長閑に隠居でもしたいのだが、家臣がそうはさせてはくれぬ。病弱の兄上ですら、戦うつもりでいるのだ。名門という意識に皆縛られてしまっている。しかし、それもすべて私の力不足によるものなのだから、責めるわけにもいかぬ」
「困りましたね」
「仕方ないさ。戦うしか術がないのなら、私は最後まで戦う。武人同士の決着の仕方というのは、古来からそういうものなのだから……。ただ」
露台の手摺りを掴む、青玄の指先に力が入ったことに、アランは気がついた。
「女子や子供、老人のことは気がかりだ。この名門意識は、力弱い者にも、確実に浸透している。私は、それが怖い」
「本当に、そうなんですか? 貴方は、それを恐れているのですか?」
アランは、ずれた眼鏡の隙間から、青玄を見た。
同情はしない。
滅ぶことも、必然なのだと、悟っている男なのだ。
アランだって、それを分かっている。
時代という大きな川に小石が淘汰されるのは、自然の摂理だ。
どうにかならないかと手を打っただけで、無駄に犠牲を生むだけなのだから……。
もとより、アラン一人が青玄の味方についたところで、この流れを塞き止める術は持っていないのだ。
「誰だって、死ぬのは怖い。たとえ、貴方が武人でも。大好きな人より先に逝くのは辛い。そういうことなのでしょう?」
「異国の男は直情的だな?」
青玄は、涼しい顔で今度は手摺りに頬杖をついて、景色を俯瞰した。
所々、焚き火は見えるが、下界は真っ暗だ。
闇をぼんやりと眺めながら、ぽつりと訊いた。
「そなたは、ここを出るか?」
「えっ?」
「私が今日そなたを訪ねた理由だ。察しはつかなかったか」
「はい、まったく。一体、何だったんです?」
聞き返すと、青玄は口の端に微かに笑みを乗せた。
嫌な予感がする。
「私は明朝、本家のある高州に旅立つ。城にいる男たちは、ほとんど連れて行くつもりだ。安能の領地と、我が兄の領地は隣り合っている。どう考えても、兄の領地を最初に落としにかかってくるだろう。本家が滅ぼされてしまったら、元も子もないからな。私は行かなければ……」
青玄は決然とした物言いだった。……が、それはアランも知っていた。
「しばらく、戻れないでしょうね」
アランが相槌を打つと、青玄はぽつりと言った。
「しばらくで済めば良いのだがな」
言わなければよかったと後悔したが、もう遅い。
青玄は悟りに近い落ち着いた口調で告げた。
「…………綾女を残していくことだけが、不安なのだ」
「なんとも。それが奥方様ではないというところが、素敵ですね」
皮肉を込めてみたが、青玄はあっさりと返した。
「布由は、敵方の松原殿の娘だからな。松原殿が救いだすだろうよ」
「はあ」
「問題は、綾女だ。間違いなく暴走するだろう。昔から……、そうだったからな。そなたも暫く、あれを見ていて、それは分かっただろう?」
その言い草が癇に障るものの、アランは青玄が言いたいことを察していた。
「…………ちょっと、待ってください。私一人で何が出来るというのです。自慢ではないですが、私は自分の限界は知っています。あの人の暴走を止める手立てなんて、ただの変態として扱われている私にはありませんよ」
「変態……か?」
「異国の助平として、近寄ってもくれません」
「そなた、綾女相手に、助平な真似などしたのか?」
問われて、アランは沈黙した。
つい調子に乗って、出会った日の夜に、彼女の手の甲に口づけたが、あれはアランの故郷では当たり前の貴族社会の挨拶だ。
和国は女性に慎みを求めているようだが、この国で規格外扱いされている綾女になら、通用すると思ったのだ。
しかし、彼女の方こそ、本当に和国らしい女性だったらしい。
あの夜以来、目も合わせてくれない。
「たかが、あの程度で……」
「ほう。あの程度がどの程度なのか、私にはよく分からぬが、そなた、よく斬られなかったな。綾女が本当に怒っていたら、そなたの命はなかっただろう」
「しかし、会うたびに助平だの変態だのと、罵倒されますけど?」
「祝福しても良いぞ。そなた綾女に意識されているようだ。あの娘自身、どうして良いのか分からないのだろう」
「…………はあ?」
面倒なことではあるが、嫌われていると断言されるよりは、マシかもしれない。
アラン自身、彼女のことを面白いと思っているし、くるくると変わる表情を見ていたいと思っているのだ。
しかし、だからといって、この件に関して深入りするのは得策ではない。
その程度のことは、分かっているつもりだった。
「何だ。悩んでいるのか? アラン。私は今、初めてそなたと会話したような気がするよ。そなたは、今まで何処か雲を掴むようだったからな」
青玄は月明かりに染まる露台から、退いた。
「青玄様……」
「無理強いはしない。そなたの好きにすれば良い。この城でのそなたの身分は私が作ったはずだ」
「客人だなんて、よく言ってくれたものですね」
青玄は、布由にアランを、客人だと伝えた。
その件に関しても、アランは違和感を覚えていた。
すべては、このためだったのか?
しかし、アランの目的は違うのだ。
青玄の思い通りになるわけにはいかない。
「私は……、ただ」
兄が……。
言いかけて、アランはためらった。
それを言うのなら、すぐにアランは青玄を殺すべきだった。
迷いがある。
以前、和国の僧にも言われたことがあったような気がする。
その迷いがあるから、アランは過去に固執して、未来に足を踏み出せないのだ。
「まあ、好きにすれば良い。異国の客人よ。その目で、この国の興亡を見届けるのも、一興かもしれぬぞ」
部屋の中に去っていく青玄の後ろ姿に、アランは声をかけるのをやめた。
出て行こう……。
絶対に巻き込まれるわけにはいかない。
綾女がそんなに心配なら、青玄が自分で護れば良い。
今日だって、本当は綾女に別れを告げに来たのだろう。
アランには、分かっているのだ。
……でも。
アランは、そんなことを考える自分を振り返って、ひそかに笑った。
まるで、子供のようだと。
自分に、そんな感情が残っていたことが新鮮だった。