第二章 ①
「例の情報は、確かだったようだ」
納屋でアランと過ごした夜から七日目のことだった。
綾女が私室に通されたときには、宗近はすっかり武装していた。
安能が攻めて来る。
間違いであることを、心の何処かで綾女は祈っていた。
そんなこと有り得ないのに……。
有路が情報を、青玄にまで持ってきたということは、よほどの確信があったからだろう。
それを、数日間かけて精査すると青玄は宗近に言い渡したらしいが、同時に本格的に、戦の支度を始めるようにと命令を下している。
……もう、止められないことは分かっていた。
「そうですか」
綾女は、極力冷静を装って、頷いた。
「有路様のお話は、やはり、正しかったのですね?」
宗近は、褐色の甲冑を身につけている。下僕から受け取った剣をしっかりと腰に差した。
表情は固い。
「正直、もう少し時間は稼げると思っていた。青玄様の奥方は、安能の腹心の娘御だし、総部本家のご嫡男には、安能の娘御を妻に迎えようとしていた」
「…………はい」
「安能は、どうしても総部を滅ぼしたいらしい」
「それだけ、総部が恐れられているということではないですか」
自分でも、わざらしいと思う綾女の励ましに、宗近の顔が晴れるはずがない。
「もしかしたら、安能は、久玄様のお加減がよろしくないことに、気付いているのかもしれないな」
総部家の主は、青玄の兄・久玄ということになっている。
しかし、久玄は若い頃から病がちで臥せてばかりいた。
実質的な総部家の戦や交渉事は、すべて青玄が取り仕切っていたのだ。
……だから。
アランが邑州まで青玄を暗殺しにやって来たというのも、納得できることではあった。
「久玄様のお体は、いつだって宜しくない状態じゃないですか?」
「口を慎め……と、お前には、言いたいところだがな……」
宗近は溜息交じりに言った。
「今回は、かなり危ないようだ」
「こんな時に……ですか?」
「こんな時だからこそだ。ご心労が重なったのだろう」
「そんな」
形だけとはいえ、久玄は総部家全体にとっては、必要不可欠な存在だ。
二本の柱があるからこそ、総部は和国の東部を治めることができる。
もしも、一本でも欠けることがあれば……?
「何だ。斎条、もう支度を整えたのか?」
いきなり部屋の扉を開けたのは、渦中の人物。
――青玄だった。
ずかずかと部屋の中に入ってくる。
「青玄……様?」
父娘共に驚倒しているのに、青玄は穏やかな顔をしていた。いつもの肩衣と着物だった。
武装をしていない。
「青玄様。何故?」
たまらず、宗近が口を開いた。
「事は危急を要しているのですよ。とにかく、一度総部・本家に赴き、軍議を開かなければなりません。貴方は城にいて指揮の一切を仕切らなければならないお立場なのですよ。一体、どうして、そう安穏とされているのですか?」
「まあ、……そうなのだが」
耳を塞ぎながら、笑顔で応じる青玄に宗近の怒りは収まらないようだった。
「まあ、じゃないでしょう! まったく、今までこんなことはなかったのに」
「良いじゃないか。たまには」
「頻繁にあったら、駄目なんですよ!」
「父娘揃って、短気だな。そんなに急ぐ必要もなかろう。安能がこちらに来るまでには時間もかかる。私は出陣命令をまだ出してない」
「青玄様、いい加減に!」
青玄に従っている臣下も声を荒げた。
綾女は宗近の迫力にも負けていたが、青玄の態度に、驚きと、得体の知れないものを感じていた。
青玄は、周囲の心配をよそに、あっけらかんと言った。
「私は、アランに会いに来た」
「……アラン?」
……何故?
綾女も、父同様唖然となった。
「今日も、納屋にいるか?」
「今日も……って、また会いにいらっしゃったのですか」
「そうだが?」
青玄に、悪びれる様子はない。
あれから、青玄は毎日、寸暇を見つけては、アランに面会に訪れていた。
今では友人のような間柄だ。
自分の命を狙っている……、しかも、異人で官位すら持っていない男と気安く接する青玄が宗近には、人知を超えた存在に見えるようだ。
宗近は、震える指で納屋の方向を指差した。
「納屋以外、あんな男を、監禁している場所はありません」
「ふむ。それもそうだな」
青玄は何度も頷きながら、部屋を出て行く。
真っ直ぐ、屋敷の隅の納屋を目指しているようだった。
綾女は、狼狽しながら後に続いた。
「お待ち下さい。青玄様」
「何だ。相変わらず、私の命が危ないなどと申すつもりか?」
高笑いを始めた青玄の背中を、綾女は睨みつける。
「一体、何をお考えなのですか?」
「何って、私は自分の仕事をしているつもりだ」
「はっ?」
綾女は耳を疑った。
……仕事?
聞違いか?
できれば、もう一度言って欲しかった。
しかし、青玄は呆然としている綾女を放って、勝手に言葉を紡いだ。
「最初に会った時から、面白そうな男だと思った」
「そ……です……か」
「お前だって、分かっているだろう? あれは、きっと見たとおりの男ではない」
「それは……」
綾女も感じていることだった。
あの憎らしいくらいの余裕。
アランは軟禁場所である納屋を自分の部屋のようにして、寛いでいる。
こちらが捕らえているというより、捕まってやっている……といった態度だ。
「なあ? ……ただの、異国の人間というだけではなさそうではないだろう?」
青玄は納屋の入口で見張りの家臣を退けて扉を開ける。
…………と、アランは昨夜と変わらない態勢で、青玄を待ち受けていた。
「――今日も、いらっしゃると思っていました」
「アラン。どうだ。調子は?」
「良いですよ。この納屋は日当たりが良いですからね。明るい気持ちになる」
「そうか」
二人は朗らかに、微笑している。
心底、綾女は心配になってきた。
いつも、青玄は穏やかだ。でも、戦いのときは違っていた。
もっと、雄々しいし、行動は迅速だった。
今回は異常すぎる。
戦は先手必勝だと、酒の席で主張していたのは、青玄だったはずだ。
現段階で、行動を起こさなければ……危ないのに。
……どうして。
仕事……だなんて?
「確かにな。アラン。空を見ることが出来ると、気分も変わる。人は一生を終えた後、空に還る。私は寺の坊主にそう聞いたことがあるぞ。私の名前も空にちなんだものだ」
「それは素敵ですね。私の国では、海と聞きましたけど。空でも良いかもしれません」
「……そなたの故郷はきっと海が近かったのだろう。邑州から海は少し離れているからな」
「何だ、二人して、そんなことを真面目に……。海も空も同じ青じゃないですか?」
「そうだな。綾女」
青玄がうなずく。
「…………まあ、それも、そうですね」
そして、少し考えてから、アランが納得した。
青玄は、いつもと同じようにアランの隣に座った。
当然のように、和んでいる。
志乃までもが盆に茶を乗せて、運んでくる始末だった。
「まったく」
綾女は、重くなってきた頭を片手で支えた。
「そうだ。綾女に聞いていたお前の兄のことだが……」
「おや。調べて下さったんですか?」
「いや、そこまで調べられなかったのだ。済まない、アラン」
青玄は胡坐のまま、軽く頭を下げて茶を一杯飲んだ。
志乃がアランの縄を解く。
「いいんですよ。兄が安能にいることは確かなんですから」
アランは、縄の結んであったところを、わざとらしく撫でながら、微笑んでいた。
事実であるならば、深刻な話のはずだ。
……なのに。
「でも、まあ……。助けろとは言いませんよ。総部も、それどころじゃないでしょうし?」
「確かに、大変なことにはなっているが」
「何でも、本格的に戦いになるとか?」
「おいっ。何故、お前がそれを知っている?」
綾女が詰め寄ると、アランはさっと首を竦めた。
「あ、やっぱり、そうだったんですか?」
「はっ?」
アランの目がにやけていた。
「今朝、起きたら何だか屋敷の中が騒がしかったので、もしかしたら、そうかなあ……と思ったのです。ひっかかりましたね?」
「青玄様!」
綾女は、青玄の前に跪いた。
「コイツ殴って良いですか!?」
「まあ、待て。綾女」
青玄は大笑いしながら、アランに向き直った。
「さすがだな。その通りだ。私は明日にでも本家の方に出向いて、準備をしなければならない」
「分かっていますよ。だから、貴方も、安能の考えを聞きたくって、わざわざ忙しいところに、私に会いに来たのでしょう。私は間接的ですけれども、安能を知っているから」
アランは、眼鏡を押し上げて言った。
「まあ、それもある。私は間諜も放ってはいるが、警戒心の強い安能には行き着かないのだ。敵方の大将がどういう人間で、なぜ和議を受け付けないのかを知りたかった」
「あの……、私は席をはずしたほうが宜しいのでしょうか?」
志乃が急いで腰を浮かせたが、青玄は「構わない」と、志乃を留めた。
「まあ、これは私の独断と偏見ですけどね」
初春の日差しが格子から差し込む。
アランは、真っ黒な衣に光を吸収して、たどたどしく語った。
「安能は名門に対する劣等感の塊みたいです。総部は古くから続く家系なんでしょう? 農民出身の安能には恨めしいのでしょうね。総部を生かしておけば、その血の力で勢力を盛り返すと考えているようですが……」
「だから、本家の嫡男の嫁に、安能の娘を貰いたいと申し出ているのに……」
「さあ? 聞いた話では、屈折した下心満載の男でしたから、私にもよく分かりませんね」
「平和的には解決できないということか……」
「もしかしたら……。いや」
言いながら、アランは綾女を一瞥する。そして、何かを言いかけて……、やめた。
青玄は、アランにそれ以上追求しなかったが、やんわりと告げた。
「アラン。これだけは私も言える。嘘のうまい者は、すべてに嘘をつかないものだ。まるきり嘘だと、すぐに露見するからな」
「…………はあ」
「お前の言葉に嘘はあるだろう。しかし、兄がいるということは本当だ。違うか?」
「まあ、お察しの通りです」
アランは初めて顔を歪めて、茶を啜った。
綾女も志乃も顔を見合わせて、口元を緩める。
まったく心が掴めないアランと、青玄が対等に渡り合っているのが愉快だった。
「そなたに兄がいるのは事実だろう。どんな兄だ?」
「尊敬できる人ですよ。どん底にいた私を救ってくれたんです」
「どん底?」
とても、どん底に落ちてたことのある男には見えないのだが……。
質問したい綾女を制して、青玄は神妙にうなずいた。
「良い兄だな」
「……ええ」
珍しくアランもすんなり認めた。
「私は、兄が嫌いだった。いつも父から目をかけられて、私が何をしても父は反応してくれなかったからな。……でも、大事な肉親だ。私は兄を護って総部を守り立てていこうと思ったのだがな……」
「……青玄様……、久玄様は?」
「心配はいらぬよ。綾女」
青玄は安らかに言うが、案ずるなというほうが無理だった。
綾女よりも歳は上だが、青玄はまだ若いのだ。
総部家のすべてがその双肩に乗っている。
逃げ出したくなるような重圧と、青玄は対峙しているのだ。
「肉親といえば、アラン」
青玄は、茶を飲みながら、さりげなく切り出した。
「綾女は、私の妹のようなものだ。私は綾女の父の宗近に育てられたようなものだから、小さい頃から綾女のことは良く知っている。ちょっと短気だが、本当は、気立ての良い娘なのだよ」
「…………短気にも程があるようですが?」
「アラン……」
綾女が睨めつけると、アランはぺろっと舌を出した。絶対に綾女で遊んでいる。
「良いのだ。荒っぽいところも面白いだろう。見ていて飽きない」
「その点に関しては、激しく同感です」
どうやら、アランは本気で一度綾女に殴られたいらしい。
綾女が拳を鳴らしていると、青玄はこれ見よがしに溜息をついた。
「綾女は、今年で十八になる。だが、まだ結婚もしていない。私はそれが気がかりでな」
「青玄様!」
そんなこと。
アランに何を言われるか分からない。
この件に関しては、綾女はからかわれたくないし、青玄に真剣に考えて欲しくなかった。
今、綾女は、幸せなのだ。
それで良いではないか?
しかし、アランは、笑い混じりに予想外なことを言った。
「私の国では、婚期は二十代が当たり前でしたよ。別にそんなに気にかける問題ではないと思うのですが?」
「和国の武人の娘は、十代後半で結婚する。私の妻も今年、十三になる」
「十三……」
アランが何とも言えない顔をする。
綾女は、顔を背けてから、声を張り上げた。
「青玄様の奥方様は、安能の腹心、松原 信繁殿のご息女だ」
「……とまあ、そういうことで、私も、綾女に関しては、色々と手は尽くしているのだがな」
「……ご愁傷様です」
「青玄様! そんなことより、これからどうなさるおつもりなのですか?」
綾女が恥ずかしさのあまり、赤面しながら話題を変えると、あっさりと青玄は言った。
「私に出来ることなんて、限られているじゃないか。……だから。何にも縛られていない、アランと、こうして楽しく喋っているのだ」
「……それは?」
アランは、眼鏡越しに蒼い瞳を細めた。
予期しない沈黙が狭い空間に満ちる。
しかし、静寂はあっという間に破られた。
「青玄様!」
宗近が小走りにやってきた。
「…………何ごとだ?」
青玄は、ゆるゆると立ち上がる。
「奥方様が……」
「はっ?」
唖然としている青玄の前に、黒い影が横切った。
「――――青玄様!」
声がまだ幼い。走った勢いで、腰まで長い髪が宙に舞った。
「何故、このようなところにおられるのです」
華奢な少女。
あどけない人形のような顔の中に、零れ落ちそうなほど大きな黒い瞳がある。
豪奢な紅の着物は、小さな体には似合っていなかった。
「布由……。どうしたのだ?」
年はともかく、身長差も凄まじい。布由は青玄の腰くらいしか身長がない。
本当に親子のようだった。
「噂をすれば影……?」
アランがあからさまに大口を開けて、ぽかんとしていた。
綾女は、冷ややかに首肯した。
「布由姫様、青玄様の奥方様だ」
「はあ……」
「青玄様。何ですか。この異国の者は?」
「この者はな……」
青玄は、腕を組んで考えはじめる。
「……ワタシは」
「名乗らんで良い」
どうせ、ろくなことを言わないと、素早く綾女はアランを止めたが、その態度が布由の機嫌を損ねたらしい。
「戻りましょう。青玄様」
「待て、布由」
青玄の袖を脇目も振らずに引っ張る布由の手を青玄はそっと放した。
「この者は私の客人なのだ。布由、失礼な真似は慎みなさい」
「はっ?」
思わず声を上げて、布由に睨まれた。
周囲の動揺を素知らぬ顔で、青玄は再び繰り返した。
「客人には相応の対応を。お前は私の妻なのだから、失礼のないようにしなさい」
「分かり……ました」
不服そうに頬を膨らませながら、布由は頭を軽くアランに下げた。
「申し訳ありません」
「構いませんよ」
アランは座ったまま、偉そうに手を振っている。
何をしているんだろう。……一体。
がくりと頭を垂れて、視線を下に向けると、こちらを射抜くように見ている布由と目が合った。
「青玄様。明日には出立しなければならないと、聞きました。……本当なのですか?」
「ああ、そうだな。お前ともお別れだ」
「青玄様」
瞳を潤ませる布由の小さな背中を、青玄は押しながら歩き始めた。家臣で一杯の納屋の外に向かって出て行く。
「……では、…………またな」
その言葉が誰に向かったものなのか?
綾女には、分からない。
咄嗟に床を見たからだ。
「行って……らっしゃいませ」
精一杯の誠意を込めて、消えて行く青玄の後ろ姿に告げた。
戦いになったのなら……。
いや、戦いにならなくったって。
青玄は、青玄の道を歩む。
綾女には、届かない世界に行ってしまう。
青玄とは、生まれた時からの付き合いだった。
しかし、今まで長く一緒にいたことはない。
擦れ違ってばかりだった。
青玄が成人した後、綾女は父と共に違う領地で暮らしていた。
今回、安能との戦いに備えて、滝王城に呼び戻されたのだ。
青玄と再会することができて、綾女は嬉しかった。
それ以上、望むことは何もない。
だから……。
泣いてたまるかと、綾女は拳を握り締めた。