第一章 ④
「父上。青玄様が危険です!」
「分かっておる」
宗近は腕を組み、深く頷いた。
部屋の中に、落ち着いてしまっている。
動く気配は、なかった。
「どうして、席を外したのです。あの異人、何をするか分かりませんよ」
「自ら、青玄様を殺そうとしたと訴えておるのだ。目的を隠しているのならともかく、あの男は、白状してしまっている。そういう人間がすぐに行動を起こすことはないだろう。それに、ここは青玄様の拠点。あれだけ家臣が揃っている中で、迂闊な真似は出来まい」
「……そうかもしれませんが」
渋々、納得した綾女を、黒々とした細い瞳が射抜いていた。
宗近は瞬きもせずに、綾女を見つめている。
「それよりも、問題は、そなたじゃ。綾女………………」
宗近は、深く息を吐いた。
「お前の母は、お前が赤子の時に亡くなった」
「知っています」
感慨なく、即答する綾女に、父は瞳を閉じて、噛み締めるように告げた。
「儂が不憫と思ったのは事実だ。その後、お前の乳母、志乃の母親も死んで、お前は二人の母を失った。……だから、儂はお前が健やかに育つのであれば、多少荒っぽく、騒々しい女子でも構わぬと思っておった」
「はあ……」
綾女は、神妙な面持ちを作りながら、向かい側に座っている父の話がどれくらい長いかを、考えていた。
宗近の自室。
狭い部屋の中には、父娘しかいない。やっと三人入れる程度の小部屋は、父の部屋というより、綾女の説教部屋として使われることが多くなっている。
おそらく……。
そろそろ、宗近は激しく激昂し、綾女の罪状を明らかにした後に、どのように処断するのか、決めるのだ。
……今日も。
綾女は、耳に力をこめて、衝撃に備えていた。…………が、予想に反して、宗近は怒鳴るどころか、溜息を一つ零して、がっくりと肩を落としてしまった。
「まさか……な。まさか、供もつけずに、あの鷲尾山に分け入り、天狼などという化け物を一人で退治しようとするなんて。しかも、異人なんぞを捕まえて、しょっ引いてくるとは、さすがの父も、呆然としてしまって、青玄様の暴走を止めることが出来なかった」
「それは……」
綾女に、弁解の余地を与えずに、宗近は更に頭を低くした。
「……お前は、その異人を、女子二人きりで見張ったあげく、疑いもせずに、その持ち物にまで手を出し、あまつさえ、勝手に食べた……。食欲に負けたのだ。これが名門・総部家に仕える斎条の娘であると知れたら、恥も恥」
「……申し訳ありません」
微妙な罪悪感を頼りに、綾女は頭を下げた。
「お前も、年が明けて十八になった」
「……はあ」
「婚期が遅れている理由を、考えたことがあるか?」
「私が断っているからだと?」
「嘆かわしい」
宗近は、作戦を変えたのだろうか。ひたすら、頭を抱えていた。
「お前のことを、じゃじゃ馬姫だとか、暴力姫だとか、噂はあちこちに、駆け巡っておるのだぞ」
「別に、良いではないですか。私も弱い男と結婚するつもりもありませんし」
「馬鹿者! 儂にはお前以外子がおらぬのだぞ。お前が斎条の跡取りを娶らねばならぬのだ。その重責を理解しておらぬのか!?」
とうとう、宗近が怒鳴りつけてきた。腰を浮かして、わなわなと拳を震わせている。
…………しまった。
これこそがいつもの流れだ。
いつも通りではない父に違和感を抱いてはいたが、いつも通りになればなったで面倒だった。
綾女は後悔した。
結婚、跡取りの話を父に思い出させてはいけないのだ。
お家の大事なので、宗近も過敏になってしまう。
「ち、父上。あの……」
改めて、手をついて謝罪しようとした綾女だったが、しかし、目前の宗近がどっしりと座りなおしたのを視界の隅で確認して、拍子抜けした。
宗近は、魂が抜けたかのように、脇息にもたれた。
やはり、いつもとまったく違う。
「何故、こうも儂の周囲は暢気なのか……? 主君の青玄様はあのようになってしまわれたし」
「あのようにって……?」
「あのように……と言ったら、あのようにだ!」
「はい」
これ以上、父を刺激しないように、綾女は慌てて頷いた。
宗近は、苛々をぶつけるように、薄い口髭を引っ張る。
「戦が近づいてきて、不安な気持ちは、お察しするが、異人に……、ご自分の命を狙っている者に酒を勧めるなど、常識では考えられんことだ」
「で、でも、父上。青玄様には、何かお考えがあってのことではないのですか?」
言ってから、しまったと後悔したが、もう遅い。
父上は血走った目を、綾女にぎろりと向ける。
――が、これもまたいつものように、叱ることはなかった。
「……確かに。そう信じたいものだがな。私が甘やかしてしまったのでなければ良いのだが」
事実、青玄を育てたのは、宗近のようなものだった。
青玄の父は、後継者である青玄の兄につききりで、他の子供達をことごとく無視した。次男である青玄の面倒を見るのは、守役の宗近の役目だった。
「先ほど、城の前で有路殿とお会いしました。もしや、安能に何か動きがあったのですか?」
「……会ったのか」
宗近が苦しそうに呟いたので、綾女も何となく察することが出来た。
「今、情報の正否を確かめているところだが……」
腕を組んで、外の気配に目を遣ってから、宗近はひっそりと告げた。
「安能が、動いたかもしれぬ」
「……父上、それは……」
「総部は、安能を迎え討たなければならないな……」
「はい……」
宗近の手前、力強く首肯する。
気弱なところなど、綾女は父に見せたくなかった。
「お前は、気丈だな」
宗近は、目尻の皺を深めて、切なく微笑した。
「父上?」
その時になって、初めて綾女は宗近が年をとったことに気付いた。