第一章 ③
「まあ、そんなに落ち込むことはない。私もいきなり来たのだ」
「綾女の武勇伝を聞きつけて……ですな」
宗近は、皮肉たっぷりだ。相当、怒っているらしい。
青玄の手前、抑えているのだ。
総部 青玄。
総部家の次男で、滝王城の主、綾女の主君だ。
白の肩衣の下に、普段着の青紫の衣を着ている。
……ああ。
見紛うなき、本物だ。もっとも、避けたいと思っていた悪夢が現実となっていた。
青玄は、満面の笑顔である。
綾女より、十歳も年が離れているのに、童顔の顔が更に幼く見えた。
青玄の耳に入ってしまった。
……ということは、城中の全員が綾女の所業を知ってしまったということになる。
宗近の怒りも当然だろう。
女は従順で、淑やかでなければならないと、和国では言われている。
特に、高位の婦女子となれば、重い着物を幾重にもまとって、屋敷の奥にこもっているのが普通だった。
それを……。
綾女も、衝撃を受けていた。
予想外も甚だしい。
やはり、城の前で有路に会ってしまったのがいけなかったのだろうか。
動揺して、言葉も出ない綾女を尻目に、青玄は、切れ長の瞳を瞬かせて中腰になった。
アランを凝視している。
「そなたが巷を騒がせた天狼の正体か。私も、異人は、初めて見るな」
「私も、トノサマは、初めて見ます」
平然としているアランに、小首を傾げた青玄はいきなり隣に座った。
「青玄様!」
その場にいた全員が悲鳴を上げたが、青玄は素知らぬ顔だ。
綾女が落とした巾着袋から、こんぺーとーを取って口の中に放り込んだ。
「何ということを!」
宗近が怒りの捌け口に、綾女を睨みつける。何もかも、綾女のせいになっている。
確かに……。
この状況が予見できたはずなのに、回避できなかった。
元々、青玄は、好奇心旺盛な男なのだ。
書物も興味があれば、人を使って和国中、捜索させるし、刀剣も極めれば、腕の良い鍛冶師を雇い、自分のために新しい剣を作らせるくらいだ。
今は、忙しいので、新しいものに気持ちが揺れることもないと思っていた。
そして、綾女が秘密裏に処理すれば、青玄にアランの存在が知れることもないと考えていた。
認識が甘かった。
しかし、青玄を屋敷に連れて来たのは宗近だ。
「……うまいな」
青玄は、こちらの気も知らずに、満足げだった。
こんぺーとーの甘みをじっくりと味わっている。
「異人は、こんな美味しいものを食べているのか?」
「一括りにされましてもねえ。私はアランって名前を持っているし、世界はうんと広いですし」
「それは悪いことをしたな。では、お前の故郷は遠いのだな?」
「南です」
アランは躊躇なく答えた。綾女との対応の仕方とは、ずいぶんと違う。
青玄だからなのか。綾女を軽んじているのか?
アランは、胡坐しながら、天井を仰いだ。
遠い故郷を、思い出しているようだ。
「南は良いですよ。海は綺麗だし、教会は大きいし……」
「礼教の社のことを、教会と呼ぶらしいな」
「らいきょう?」
話に疑問を覚えた綾女は、青玄に導かれるように、つい、アランと青玄の間に座ってしまった。
「綾女……」
宗近が咎めても、今更だった。青玄が笑う。
「良いではないか。別に」
「しかし……」
「異人というのはな。綾女」
記憶をたどるように、青玄は説明を始めた。
「大抵の者が礼教という宗教を広めに、和国にやって来ているのだよ」
「……礼教? それは、和国の神とは、違うのですか?」
「和国の神は、無尽じゃないか。花にも、草にも神がいるという考えだ。しかし、異国では、一神。私も詳しくは知らぬが、戒律は色々と厳しいらしい」
「……らしいですねえ」
アランは、つまらなそうに欠伸をしている。
警戒心を隠そうともしない宗近は、刺々しい口調で言った。
「異人よ。儂が聞いた話によると、安能は礼教の布教を、禁止したらしいではないか?」
「まあ、禁止になっているみたいですよ。礼教の信者は、一箇所に集められて静かにしています。もっとも異人を追い払う命令ではないので、私は自由そのものですが……」
よどみなく、アランは答えた。
異人の宗教なんて、綾女は聞いたことがなかった。
第一、綾女が生きているうちに異人と会う機会があるとは思っていなかったのだ。
「和国の言葉がうまいな……」
「言葉なんてものは、簡単ですよ。寺の坊主に習ったんです。……それで、この格好を手に入れたんですよ」
「何だって!? 私が聞いた時は教えてくれなかったじゃないか!」
「……そりゃあ、面倒だったので……。ああ、着物。似合ってますか?」
「はあ?」
最悪だ。
まったく、質問の答えになっていない。
なぜ、こうなのか。
怒りの目をアランに向ける綾女を、青玄が慰めた。
「堪えよ、綾女。異人なのだ。多少の齟齬はあるものだろう?」
……それは、違う。
さすがに綾女もそれは学んでいた。
この男は、分かっていて、やっているのだ。
でも……。
何故だろう。青玄は楽しそうだ。
最近、暗い話ばかりで、いつも眉間に皺を寄せている青玄ばかりを見てきたのだが、今は、心底面白がっている様子だ。今までの質問も、てっきり、尋問のつもりで、アランに訊いているのだと綾女は思っていたが、そうではないらしい。
「酒が飲みたいな」
さりげなく、おかしなことまで言い出した。
板の間に敷く座布団を持ってきた家臣と、呆然と佇んでいた志乃が青玄の一言を聞きつけて、慌てて素っ飛んでいく。
早速、酒がやってきた。
青玄は、家臣にアランの手の縛りを解かせた。
「さあ、飲め」
もはや、誰も止められなかった。
青玄は乳白色の酒を、自ら猪口に注いでアランに振る舞う。
「まいったなあ」
本当に困惑したように、アランは金色の頭に手をやった。
「これは、私の想像してなかった展開です」
「どうなると思っていたのだ?」
「てっきり、私はヒドイ目に遭うと思ってました」
「…………ほう」
青玄が酒の入った瓢箪を手にして自分の杯に傾けたので、綾女は咄嗟に酌をした。
「青玄様。絶対、おかしいですよ。こんなヤツに酒まで飲ませるなんて」
「……はい。私もそう思いマス」
言いながら、アランは猪口の中の液体を覗きこんだ。
「もしかして、この酒の中に毒が入っているとか?」
「ふざけるな。アラン」
「……綾女。いちいち反応するな」
「でも、青玄様。この者は……、あまりにも変です」
「知っているか、綾女。変という言葉は褒め言葉にもなるのだぞ」
青玄は、取り付く島もなく、涼しい顔で酒を飲み干した。
「異人殿。私はそんな卑怯な真似はせんよ。どうせ殺すのなら、正々堂々と処刑する」
「……ええと。ショケイというのは?」
「そなたを殺すという意味だ」
「なるほど」
アランはぐっと酒を飲み干すと、満面の笑みで言った。
「では、私はとんだ卑怯者です」
「卑怯なのか?」
顔を赤くした青玄は、鸚鵡返しした。
「実は、私……、貴方を殺そうと思っていたんですよ」
「―――そうなのか?」
あっさりと、青玄は頷いた。
「はっ?」
その場にいた全員が呆然として…………、次の瞬間、一斉に剣の柄に手をかけた。
「今、何と言ったのだ。アラン?」
目を丸くしながら綾女が問うと、アランは欠伸をしながらもう一度言った。
「とりあえず、私は、青玄様に消えて頂こうかなって思ったんですよ」
「何を言っている。だって、さっきは何も知らないって」
「ウソも方便」
「意味が違うだろう!」
綾女が怒鳴りつけながら、アランに詰め寄るが、間にいる青玄に止められた。
「まあ、待て」
腹が立つほど、青玄は安穏としている。
剣に手を掛けた綾女と宗近、そして腹心の一堂を見渡して、手を横に振った。
「……剣をおさめよ」
「しっ……、しかし」
宗近が食い下がるが、青玄は変なところで毅然としていた。
「二度も言わせるな」
「皆の者、剣をおさめよ」
青玄と宗近の命令に従い、ばらばらに家臣たちは、剣から手を離していく。
その様子を、見守りながら、青玄は自然な様子で尋ねた。
「それで、そなたは、私を殺すのか?」
「迷っています」
「迷ったか……」
「まったく、困りました」
アランは、青玄に注いでもらった酒を一口飲んで、微苦笑した。
それを見届けた宗近は…………
「綾女っ!」
一喝すると同時に、綾女の着物を強く引っ張った。
……そうして、不機嫌極まりない表情のまま、一礼して部屋を出ると、その場にいる数人の配下に目配せをして、綾女だけを伴い、納屋を出た。
綾女は暗澹たる気持ちで父に続いたのだった。