終
海のような空だ……。
綾女は何処までも果てしなく続く青い空を仰ぎながら、深呼吸をした。
背後に広がる山と空の稜線。
鮮やかな青と、緑の境目が見事で、空と一緒に、この山も、何処までも続くのではないかと、錯覚してしまうほど美しかった。
風は微かに潮の匂いを運び、綾女の頬を優しく撫でる。
綾女は、初夏の空気を全身で感じ取っていた。
………………そして。
隣には、遅れてやって来た男がいる。
「いや、本当に来て下さるなんて思ってもいなかったんですよ」
「最初から、そんなつもりならば、呼び出すな。しかも、こんな所に」
高州、早於城を望む高台。
あばら家から、そんなに離れていない、分かりやすいその場所は、緑が多く、眺めも良かったが、いまだに人気はなかった。
もうさすがに、安能の兵士はいなくなっているが、こんな因縁めいた所に呼び出すなんてどうかしている。
「ああ、すいません。他に場所を知らなくて。早於城の跡地に来いなんて言ったら、もっと嫌でしょう?」
「あの、あばら家で良いではないか?」
「あばら家にいたら、船の時間に間に合わないと思って」
「船……?」
「ジョアンが国に帰るそうなので、綾女様もついでにどうかと。異国では、こんぺーとーも沢山食べられますし、ええっと……、楽しいことが目白押し?」
「お前も、帰るのか?」
「私は……まだ帰りません。この国の面白さを貴方に教えてもらったから……」
「………お前は、私を馬鹿にしているのか?」
綾女は、頭を抱えた。
親戚の家に旅立った志乃を呼び出して、今の台詞を聞かせてやりたかった。
「ああ……。えっと、綾女様には、色々とお世話になったし、大きな贈り物があるのです。そう。贈り物です! とりあえず、その贈り物には、強制的に薬をかがせて、眠って頂いている予定なんですけど、そろそろあの方も、お目覚めになっているかもしれないし」
「お前の和国語はまだまだのようだな。さっぱり分からない」
綾女は、アランを無視して、歩き始めた。
「ちょっ、ちょっと、綾女様!」
おもいっきり困惑しながら、彼が追いかけてくる。
「貴方の想い人と、今なら会えるってことですよ。ついでに、世界を見てくることもできる。……ここまで言っても、意味が分かりませんか?」
「だから、何だ?」
そんなことは分かっている。
分からないのは、この男の嫌がらせのようなお節介の仕方だった。
この男は、きっと、綾女が布由から貰った上等な菖蒲色の着物を纏っていることなど、気づいてもいないのだろう。
人の気持ちも知らずに、彼が本気で怯えていることが気に入らなかった。
「……私は何処にも行かない。とりあえず、親戚は色々といるしな。親戚の家を回りながら適当に旅をするのも良いだろう。路銀は、安能と会うために、沢山父上が用立ててくれたのだから」
「いや、あの……。だから」
綾女は、ぴたりと歩みを止めて、顔だけ後ろに向けた。
「…………それで? お前は私が青玄様と一緒に行けば良いと思っているのか。アラン」
「私ですか?」
「お前のことを聞いている」
息を呑むのと同時に、アランも足を止める。が、視線は地面に逃がしたままだった。
「私は、ただ貴方にとって、良い方向を模索しているだけです。貴方のお父上にも、青玄様にも頼まれたので」
「それこそ、余計なお世話だ」
綾女は言い捨てると、顔を上げて、空を仰いだ。
「あの御方は空に行かれたのだ。私が共に行くことを、あのお方は、絶対に望んでいない」
そう、違うのだ。
綾女は思う。
綾女が行きたいのは、そこではない。
邑州だ。
故郷に帰りたかった。
青玄も、志乃も、宗近も……、そして、その中にアランもいた数日間。
その頃に、もう一度戻りたかった。
たとえ、今、手を伸ばせば、青玄に手が届いたとしても……。
手を伸ばしたとして、何になるのだろう。
…………青玄は、死んだのだ。
本人も、そのつもりのはずだ。
青玄は、自害するつもりなのだと……。
それを、あの時、綾女は止めなかったし、止められなかった。
それが、すべてではないのか?
いつだって、一線引いてしまって、その心に踏み入ることが出来ない。
それが青玄と綾女の関係だったのだ。
そんなこと、ずっと前から、綾女は気づいていたのだから……。
「私は、行くぞ」
二度と振り向くつもりはない。
もう、綾女は、前にしか進まないし、進めないのだ。
「えっ、ちょっ! 綾女様…………」
やっと、綾女に追いついたアランが息を切らしながら言った。
「私、ちらっと、町で聞いたんですけど。和国では名前のある方が亡くなられると、おくり名をつける習慣があるそうですね?」
「いきなり、何のことだ。アラン?」
「青空照天大師……。意味がまったく分からなかったのですけど、何ていう意味なのですか?」
「えっ?」
アランは、深く被っていた編み笠を少し上に上げた。
空色の瞳に、やっと笑みが浮かぶ。
「これが、青玄様のおくり名だそうです」
「……せいくうしょうてんたいし」
綾女は、何度も口の先でその名を転がした。
そして……、
初めて、声を震わせた。
「…………そうか」
笑う。けれども、うまく笑顔を作れない。
自分の感情に根負けして、綾女は、少し離れているアランにずんずんと近づいて行った。
「アラン!」
「ハイッ」
いつもの習性だろう。
硬直しているアランの胸倉を、綾女は両手で強く掴んだ。
「泣いても良いか?」
「はっ?」
「少しだけだ……」
「綾……女様」
答えも待たずに、綾女はアランに抱きついた。
ずっと堪えていたものを、ぶつけるように涙を落とす。
綾女は、泣きたくても、泣けなかった。
長い間、悲しくて、辛くて、怖かった。
その感情が、急に溢れて止まらなくなってしまった。
どうしてだろう。
何で、今更、子供のように泣いてしまうのか……。
この男を前にすると、いつも調子が狂ってしまうのだ。
「綾女様……あの」
最初、おそるおそる背中に回していたアランの手に力がこもり、強く抱きしめられてから、綾女はハッとして顔を上げた。
弾みで涙が目尻に飛ぶ。それを拭うようにして、アランの顔が近づいてきた。
「な、何をするんだ!」
動転しながら、突き飛ばせば、アランはずれ落ちた眼鏡を掛け直し、落ち着いた笑みを浮かべていた。
「…………すいません。つい」
「つい? ……だと。まさか、異国では、手の甲に接吻どころか、唇まで気軽な挨拶の類なのか!?」
「えっ」
一瞬、目を丸くしてから、アランは屈託なく笑った。この男がこんなふうに素直に笑うところを綾女は初めて目にした。
「そうです。そうなんです。これも異国流の挨拶の一つなので、続きをしても良いでしょうか?」
「一体、どんなお国柄なんだろうな。まったく」
「今のは、末永くよろしくお願いします……といった挨拶です」
「益々、意味が分からない」
「私も綾女様と、一緒に行っても良いですか?」
「はっ?」
「やっぱり、私と一緒は嫌でしょうか?」
「…………アラン?」
「まあ、嫌と言われても、勝手について行けば良いんですけど」
「…………馬鹿が」
片手で頬に残った涙の痕跡を拭きながら、綾女はアランから顔をそらした。
今更になって、まずいものをアランに見られてしまったことに気がついたのだ。
アランの太陽のような微笑。
この男のことだ。延々と今日のことを、話の種にするに違いない。
「お前の好きにすれば、良いだろう」
綾女は恥ずかしさと、気まずさから、足早に歩きはじめる。
両足と両腕を一緒に出して、道のない道を歩き続けながら、雲一つない空に、心だけを届ける。
この広い空は、繋がっている。
人は一生を終えた後、空に還る。
必ず……。
―――蒼天に帰す。
【 了 】
終わりました。
年の瀬にして、ようやく……。
最終話まで随分長く間を置いてしまいました。
途中で、最後の部分、書き直したデータが吹っ飛びまして、元データに今回新たな気持ちで修正しました。
でも、前の方が良かったような気も……。。
結局、そんなにいじれてないので。
まあ、良いですかね。
この話、我ながら人気のでるような話とも思えません。
マニアックですね。
あと、プロットとか、ちゃんと練れよって、突っ込みたくなる点、多々あります。
少し日本史を知ってらっしゃる方であれば、この話、なんとなく元ネタが想像つくと思います。
安能が秀吉で、青玄様は北条氏照様ですね。
八王子城の落城。
そして、高尾山の天狗(天狼)というわけです。
当時の私は、そのストーリーを書きたくて、舞い上がっていたのでしょう。
でも、やはり歴史をきちんと書くほど、スキルがあるわけでもなく、苦肉の策でファンタジーにして書いたら、ただ試験管投げて戦う変な外人の話が出来上がってしまいました。
いっそ、ファンタジーにするのなら、設定に縛られなければよかったのに(……と自分に、突っ込み)
滅ぼす必要あったのかな??とか。
ちなみに、「蒼天に帰す」のタイトルの由来は、氏照様の戒名からだったのですが、まあ、そんなこともどうでも良いですね。
多分、これから、ようやくアランの話が始まるのでしょうね。
この話は、膨大なページ数を食った彼の物語の序章なのかもしれません。
彼は、この話、あくまでも傍観者で他人事でした。
これから、綾女様といろんな土地を巡って、いろんな厄介ごとに首を突っ込み、試験管を投げていくのでしょう(試験管いい加減なくなるだろうから、竹筒とかになるのだろうか? それって科学的にどうなんだろう??)
ここまで読んで下さった真の勇者の方々(今回は心底、そう思います)
素晴らしいです。
よくぞ、最後まで。
ご褒美も賞金も商品も粗品も何もありませんが、私の拙作中の拙作になりかねな
い話に最後までお付きあい頂き、有難うございました!!