第六章 ⑥
春も、終わりに近づいていた。
慌しく、戦準備をしていた年明けの混乱が嘘のようだった。
温かいような、暑いような微妙な空気を体感しながら、綾女は一人でゆったりと、あばら家に帰ってきた。
置いてきてしまった志乃の様子を見るためだった。
「綾女様!」
志乃は、いつもどおり温かい笑顔と共に走ってきた。足は、すっかり良くなったようだった。
良かったと喜んでいた綾女だったが、志乃の口から降ってきた第一声はこれだった。
「どうして、戻って来たのです!?」
「は? どうしてって?」
綾女は怪訝な表情で、志乃を見つめ返した。
「あちらで、拾ってもらえば良かったのではないですか? 一応、綾女様とて、名門の娘です。唯一、安能と対することが出来る松原様なら、綾女様を、支援して下さるかもしれませんよ。戦場でのことです。この際、父上のことは目を瞑って」
「なあ、志乃? その一応名門の娘というのは、何だ?」
「だって、いくら、布由姫様と仲が悪いからって。こんなに直ぐ帰って来るなんて」
話がかみ合っていない。
綾女は、深く息を吐いて廊下を歩き始めた。
「……これでも、奥方様とは、仲良くなったんだがな」
綾女は、肩にかけていた荷物を置いて、近くの部屋に入る。
目を、きょろきょろさせながら、言った。
「道中、ずっと青玄様の話をしてたよ。打ち解けてみると、可愛い人だった」
「本当に?」
「嘘をついて、どうする」
綾女はあれだけ狭くて、汚いと思っていたあばら家が少し見ないうちに、少し小奇麗になって、閑散としていることに気がついた。
綾女は、誰もいない部屋の障子戸を閉めて、次の部屋へと向かった。
……いない。
仕方なく、移動して、次々と空き部屋の扉を開け放った。
「……ちょっと。綾女様!」
志乃は、がくりと頭を垂らすと、途端に声を荒げた。
「まったく! いい加減にして下さい。アランさんも、ジョアンさんも、もうここにはいませんよ!」
志乃は、綾女が開けっ放しにした障子戸を閉めて回っていたらしい。
ずいずいと綾女の前までやって来て、綾女が開け放った最後の扉を乱暴に閉めた。
「何だって?」
綾女は呆然となった。
「あの異国人め! 私はな。お前をアランに託して出て行ったんだぞ。こんな所に女一人では物騒ではないか?」
「一体、何をそんなに怒っているのですか? この辺りは、松原様の領地になって、農民の方々も少しずつ帰って来ていますし、もう物騒ではないんです。それに……、考えても見て下さい。アランさんは、元々、綾女様の家臣でも何でもないじゃないでしょう?」
「それは……、確かにそうなのだが…………」
志乃は、いざという時になると、綾女より少し大人の顔をする。
一応、綾女よりも三つ年上なのだ。
普段は、涙もろくってそそっかしいから、その落差が激しかった。
「私は、青玄様に綾女様が同行できないのは、仕方ないと思いました。私も総部の人間です。主君には果たさなければならない責任がある。でも、アランさんには、そんなしがらみはないでしょう!」
「そうだな。……うん」
綾女は、じりじりと後退した。
完全に志乃の迫力に、圧倒されていた。
「綾女様がアランさんを置いてここを出られた時、綾女様は両方を選ばないのだと、そういう選択をしたのだと、私はそう思いました。それならば、青玄様の命令通り、松原様の所から帰って来ないかもしれないと覚悟をしていたのです」
「そんなこと、お前は考えていたのか?」
「私にだって、考える頭はあります!」
「すまない」
勢いで、謝ってしまった綾女に対して、志乃は攻撃を緩めなかった。
「……なのに、綾女様は帰ってきたじゃないですか! それでアランさんを捜している。一体、綾女様は何をお考えなんですか?」
言われてみれば、そうだ……。
一体、自分は何を考えているのか?
当然、アランはここで綾女を待っていると思っていた。
もしかしたら、布由の生国にも、綾女について来ると言い出すのではないかと、少しだけ期待していたのも事実だ。
あれだけ、綾女は早くここから去れと、アランに言っていたくせに、いないと分かると、腹を立てている。
都合良く、人の気持ちを繋ぎとめられるはずなどないのに…………。
「幸い、私には洋州に親戚がおります。総部の家でも下っ端の私には、追っ手などかかりません。私は、そちらに身を寄せるつもりです。でも、綾女様は連れていけません」
「うん……」
綾女は、あっさり首肯した。そうだろうと、思う。
仕えるべき主もいないのに、志乃と、いつまでも主従でいられるはずがないのだ。
「お前は、私の侍女ではなくなるんだな。これからは友人となるわけだ。それはそれで良いのかもしれないな」
苦笑すると、ようやくいつもの顔を取り戻した志乃が、心配そうに綾女をうかがっていた。
「……綾女様?」
綾女は暖かな日差しに、目を細めた。
「なあ……。アランは……、一体、何処に行ったのか知っているか。志乃?」
「知りたいんですか?」
じろりと睨まれて、一瞬躊躇したが、綾女はすぐに肩の力を抜いてうなずいた。
「ああ」
吐息のように低く、短く肯定すれば、志乃はぱっと満開の花が咲いたかのような笑みで綾女の肩に手を置いた。
「もちろん! アランさんから、言伝を預かっているんです!!」
今更ながら、綾女は、今までの志乃の叱責が、この言伝に対する激励だったということに気付かされた。