第六章 ①
目を開けたら、正面に太陽があった。
鼻腔を擽る潮の香りが、綾女の現在地を正確に教えた。
未だ、高州だ。
しかも、早於城から、そんなに離れていないらしい。
山間に生えている木々の種類で、綾女は察知した。
アランは迷っていたのか、それとも、敵を撒いていたのか分からない。
馬上だったにも関わらず、途中で綾女は眠ってしまったのだ。
「お目覚めですか? じゃじゃ馬姫サマ」
アランは、揶揄しながらも、前を向いたままだ。
甲冑は、脱いでしまったらしく、薄手の着物姿だ。
異国人のくせに、和装がよく似合っているのが不自然なくらいであったが、しかし、丈は寸足らずのようで、胸元も足元も露わな状態になっていた。
綾女は、アランに気を許して、もたれかかっていた自分を呪った。
あんなに気が立っていたのに、眠ってしまうなんてどうかしている。
「お、お前は、一体、何処に向かっているんだ?」
複雑な感情で声を出せば、自分でも痛いくらいに上擦ってしまった。
アランは相変わらず、安穏としている。
「ああ、すぐそこですよ」
鼻歌でも出そうなほど、ゆったりと言われて、綾女は目を剥いた。
「はっ?」
「すぐ、そこですって。ほら」
早速、目的地に着くようだった。
アランの人差し指の先を辿ると、ぽつんと一軒のあばら家があった。
――この男、この状況で、私をからかっているのだろうか?
「嘘をつけ」
「本当ですよ。ちゃんと見てますか?」
あばら家は、よく言えば、隠れ家のような味わいはあった。
しかし、手入れは行き届いてないし、屋根には、雑草が茂っている。
見なかったことにしようと思っているのに、アランは間違いなくそこを目指していた。
「おい。まさか、こんな所に志乃がいるんじゃないよな?」
「まあ、仕方ないじゃないですか? 和国での礼教の認知度って低いんですから」
家の前まで到着すると、アランは馬から先に下りて、綾女に片手を差し出した。
躊躇しながらも、綾女はその手を取る。
「礼教の礼拝施設……とか?」
「さすが綾女さま。ご明察デス」
アランは欠伸を押し殺しながら、言葉を紡いだ。
「布教は禁止されていますけどね。とりあえず、信者もいますから施設は必要でしょう。もっとも、今、ここは、こんな状況なので、みんな逃げ出してしまって、無人になっていますけどね。昨夜、怪我をした志乃さんを、ここに置いていこうかと思ったんですけど、誰もいなくて、益々物騒だし、早於城について来るって言うので、結局、二人で城を目指したんです。志乃さんが、ちゃんと覚えていれば、ここに無事到着していると思いますけど」
「アラン。もったいぶるなよ。つまり、ここにいるのは志乃一人ではないということだな。青玄さまは…?」
「まあ、そう焦らないでください。まず、この扉を………」
アランはなかなか開かない扉を、ひきつった笑みのまま力任せに開けた。
上がり口には、草鞋が五足置いてある。
「綾女様!!」
志乃が足を引き摺りながら、やって来た。
「志乃。大事無いか?」
綾女は早速、草鞋を脱いで、小さな居間に上がった。
「大丈夫です。ここまで距離はありましたが、アランさんの治療が効いたのか、余裕を持って歩くことが出来ました」
志乃は、綾女の後ろにいるアランに頭を下げた。
「……なるほど。城の隠し通路を使ったんだな?」
「はい。アランさんが火を放って、隙を窺って……」
綾女は、廊下を歩きながら、次第に早足になっている自分を感じていた。
青玄は?
無事なのだろうか?
怪我はしていないだろうか。
……いや、何より。
どうして、青玄はここに来たのだろう?
青玄の性格からしたら、早於城と共に命を絶っていても、不思議ではない。
「志乃。青玄様は…………?」
質問は、宙に浮いたままになった。
前方からやって来た小さな影に、綾女は言葉をなくした。
「久しいな。綾女殿」
――布由だった。
志乃が申し訳なさそうに、綾女を見上げる。
綾女は幻ではないかと、布由の上から下までを、目で追った。
布由は、旅装の薄い桃色の小袖を着ていた。
この娘にしては、質素な装いであった。
「どうして、奥方様が?」
それには、アランも驚いたらしい。
「ジョアンも、来ているのですか?」
顔つきが変わった。
「当然だ。私一人で、こんな場所に来られるはずがない。私は故郷に戻される前に、どうしても、高州に寄りたかったのだ」
「青玄様とは、お会いになったのですか?」
布由は暫時迷っていたようだが、やがて小さく首を振った。
「青玄様は、ジョアンと、お話をされているらしい」
「ジョアンは、意外に容赦ないですからねえ。嫌な話じゃなければ良いですけど」
アランは、腕を組んだ。
「青玄様を、ここに連れ出すのは一苦労でしたからね」
独り言のような小声だったが、綾女は聞き逃さなかった。
「どういうことだ。アラン?」
「…………それは。その」
「実は……」
説明を始めたのは、志乃だった。
「アランさんは、最初から演技のつもりだったようですけど。青玄様は、火を放った時に、本気で死ぬお覚悟だったようです。……それはいけないと、説得して何とかここまで引っ張ってきたのですよ」
「説得?」
「…………まあ、つまり、後継の時玄様を引き合いに出したのです」
「時玄様?」
「今、すぐ隣の部屋で眠っています」
志乃は、人差し指を唇に寄せて、静かにするように合図した。
「まだ年端のいかない時玄様をどうするのかと、青玄様まですぐに死んでしまったら、時玄様を託して亡くなった久玄様は、どういうお気持ちなのかと、それは、アランさんの名演説で」
「志乃さん。あれは、演説じゃありませんよ。私はただ青玄様に暗示をかけただけです」
「…………暗示?」
「だって、あの方は説得を受け入れるような人ではないですから」
「はあ」
「とにかく、これ以上は、私には手に負えないということです。青玄様が覚悟を決められたら、どうにも出来ませんよ」
「は、青玄様は、絶対落ち込んでいらっしゃるはずだ。だって……」
「奥方様……」
優しく、毅然と、布由の言葉を止めたのは、ジョアンだった。
「奥方様のせいではありませんよ。すべて天命だったのですから」
廊下の隅からおぼつかない足取りでやって来たジョアンは、綾女を見て、長い息を吐く。
「どうしたのだ? ジョアン殿」
「綾女様……」
……胸騒ぎを覚える。
綾女は、体を固くして衝撃に備えた。
「実は……」
ジョアンはためらうように、しかし真っ直ぐな瞳でゆっくりと告げた。
「滝王城は、松原のモノになりました。有路孟沢様と、斎条宗近様は、戦って亡くなられたそうです」
「父上が?」
「私の力が及びませんでした。一緒に行こうと説得したのですが、……申し訳ありません」
ジョアンは、深く頭を下げる。
「…………亡くなったのか?」
綾女は、それしか口にすることが出来なかった。
父は、戦って死ぬつもりだ。
宗近が自分だけ生き残ろうと考えるような人間でないことは、綾女にも分かっていた。
きっと、そうするだろう……と。
だが、そうは悟っていながらも、滝王城を開放すると宣言した時は、戦うつもりはないのかもしれないと、勝手に安心もしていた。
何より青玄を置いて死ぬはずがないと、思い込んでいた。
志乃も初めて知ったのだろう。
気がつくと、綾女の背後ですすり泣いていた。
志乃につられそうになって、綾女は首を振った。
泣いては駄目だ。
……考えなければ。
宗近は、青玄にとっても父のような存在だったはずだ。
もしも、この報告を青玄が耳にしたのなら、一体、どうなってしまうのだろうか?
「青玄様は……?」
「暫く、奥の部屋で一人にして頂きたいと、おっしゃっています」
「…………そう、か」
ジョアンの言葉に、綾女は茫然と頷いた。
だからだろう。
自分に向けられたジョアンの視線と、それを鋭い目で観察しているアランの存在に気づけなかった。




