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蒼天に帰す  作者: 森戸玲有
第五章
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第五章 ⑥

 安能 時秀は、腰の曲がった皺だらけの老人だった。

 戦時下というのに、武装もしていない。

 アランの髪色と同じ派手な金色の羽織を着ている。

 だが、貧相な体つきなので、立派な衣装は見事に安能から浮いていた。

 農民出身というだけあって、綾女がよく接していた邑州の村人に近い外見をしている。

 しかし、瞳は鋭かった。

 向かい合っていると、飲み込まれてしまいそうな冷酷さと柔軟さが同居しているようだった。


「邑州から、高州まで女子(おなご)一人で来たと聞いたが?」

「はい」


 実際はそうではないのだが、とりあえず綾女は頷く。

 安能は、気を良くしたのか、何度も好々爺の笑顔で首肯した。


「たった一人で、敵陣に乗り込むその気概。あっぱれだな。滝王城を攻めあぐねていた松原に、(わし)は怒りすら覚えていたが、そなたのような女子(おなご)がいれば、攻略も難しかったのじゃろう。(わし)も気の強い、女子(おなご)は嫌いではない」


 綾女は、本能的にぞっとする。

 身の毛もよだつというのは、このことか。

 大抵のことは、我慢しようと誓ったが……。

 こればっかりは、大丈夫かどうか……。

 安能は、戦場にも女性を連れ込んでいるらしく、綾女は早速着物を改めさせられていた。

 浅黄色の着物の上に金の蝶をあしらった紫色の打ち掛け。

 いつもは、頭の上で高く結っている髪を、下で一つに結び、姫らしい髪型にした。

 身につけたことのない高価な格好だったが、下心が見え隠れしていて、今すぐ、脱ぎ捨ててしまいたいのが本音だった。


「私は、総部の命で、こちらに使者として参りました」

「久玄は死んだというが……? 青玄も粋な真似をするのう。幼い妻しか待たぬ、相当な朴念仁だと思っておったが……」


 安能を取り囲む家臣の群れから、失笑が漏れる。


 ――違う。


 顔を真っ赤にしながら、綾女は屈辱に耐えていた。震える声で、言葉を紡ぐ。


「我が主は、これ以上の戦を望んではおりません。つきましては、双方兵を引いた後、和平の交渉をさせて頂きたいと」


 綾女は、懐から二通の密書を差し出した。

 安能の従者が綾女の傍に寄ってきて、書状を受け取る。


「青玄の書状がこちらに。我が父、斎条 宗近の書状も用意いたしました」

「本物のようです」

「ふむ」


 つまらなそうに、安能は片目を細める。


「何卒……」


 いつもとは違う。しなやかな素振りで、頭を下げる綾女の頭上に、痛いほどの視線が突き刺さっているのを感じた。

 背筋から、冷や汗が流れている。

 誰も何も言わなかった。

 それだけで、綾女は安能の力を認めざるをえなかった。

 安能は、家来を、見事に掌握しているのだ。


「そなたの心は、確かに受け取った」


 安能は、思いのほか優しい声音だった。


「じゃあ!」


 導かれるように、綾女は顔を上げる。

 しかし、視界に入ってきたのは、安能の険しい顔だった。


「……それでも、総部は滅ぼさなければならぬ」


 綾女は這って、安能の御前に一歩前進した。


「家名を失くすとか、領地没収とか、それは覚悟をしています! しかし」

「…………覚悟をしているのは、一部の家臣じゃろう?」


 綾女は、沸き起こっていた激しい感情がすっと心の何処かに消えていくのを感じていた。


 ああ、そうだ。

 ……と。


 有路も、本家も、納得していない。

 いや、敵も味方も、武人の多くが、そんな処置を納得しない。

 青玄だけが恭順しても、意味がないのだ。


「総部の象徴、青玄を討ち、主だった家臣を討ち取らなければ、こちらの勝利は来ない。最後の一歩が踏めないのだ」


 小娘の浅知恵だと。……そう、言いたいのだろうか。

 宗近だったら、どう交渉しただろうか?

 おそらく、武人の宗近は綾女のような甘い交渉はしないだろう。

 青玄の命も、自分の命も差し出すはずだ。

 綾女だって、命を差し出すつもりでいる。

 しかし、所詮、綾女が命を賭けたところで安能にとって意味などなく、青玄の命は差し出せない時点で、綾女には交渉能力はないのだ。


「当家が降伏すれば、何があると?」

「そうじゃな。本家の嫡男、時玄はまだ幼い。出家するのなら命を許す。(ひさ)(しず)の妻も許そう。それに、そなたの父宗近も優秀な男と聞いた。そなたの父も助命して(わし)に仕えてもらおう。どうだ? 好条件だと思うが?」


 安能は、派手な扇子を取り出して、扇ぎはじめた。

 心を押し殺して、綾女は頷く。

 綾女が一番望んでいたのは、青玄の助命だったのだ……。


「承知いたしました。早於(さお)城に戻りまして、主に報告いたします」

「その必要は、ないと思うがぞ。このまま、そなたは(わし)のもとにいれば良い」

「はっ?」

「総部は一枚岩にあらず。総部 青玄は、家臣をうまく一つに束ねられない。青玄が本気で降伏するつもりならば、自ら(わし)のもとにやって来るはずだろう。それも出来ぬのだ。かわいそうに。……だから、主戦派と、保守派が分裂してしまっている。そなたが青玄に今の条件を突きつけたところで、戦は終わらないだろうよ」

「では、どうすれば、戦は終わるのでしょう?」

「そうじゃな。…………もし、終わらせるとしたら?」

「申し上げます!」


 唐突だった。

 いきなり現れた安能の家臣は、肩膝をついて、安能の前で頭を下げる。


「総部 青玄。早於城に火を放ち、自害(じがい)したとのこと!」

「…………なっ!」

「何じゃと!?」


 安能は意外なほど機敏に立ち上がった。

 その様子を、綾女は放心状態で、見上げていた。

 

 …………安能の背後が赤い。


 きっと、早於(さお)城だ。

 城が燃えているのだ。

 派手な音を立てて、激しく燃え始めている。


 青玄が死ぬなんて……。

 嘘だ。

 あの人がそう簡単に死ぬはずがない。

 信じられるはずがなかった。


「本当なのか!?」


 目を吊り上げている安能の傍近く、綾女の直ぐ隣にやってきた家臣は

「はっ! 総部 青玄は、全軍に降伏の意思を伝え、城から家臣を追い出し、自刃したそうです」

 大声で、再び悪夢を告げた。


「…………どうして?」


 頭を低くして、地面の土をつかみ、綾女は呻いた。

 一体何のために、自分はこの老人の元に一人で来たのか……。

 女だと侮られ、罵られても、この身を捧げても、青玄を救い、どんな形でもそ総部を残したかった。

 …………一緒に遠くに行こうと、アランは誘ってくれた。

 あの眩しい誘いを断って、それでも貫きたかった綾女の志が理不尽に根こそぎ奪われた感じだ。

 

 …………このまま、自分は誰かの役に立つこともなく、この老人の妾になるのだろうか?

 逃げるか?

 しかし、ここから逃げだすほどの気力すらない。

 泣きそうだった。

 鼻がつんとする。

 しかし…………。


「…………えっ?」


 鼻を刺激したのは、甘い香りだった。

 嗅いだことのある優しい…………


 ………………薬の匂い?


「綾女さま」


 至近距離で、男は囁いた。


「少し、強引ですが、怒らないで下さいね」

「なっ……?」


 甲冑の男、アランは綾女だけに分かるように、少し顔を上げてにっこりと笑った。


 和国語を自国語のように使いこなしている。

 黒い毛は(かもじ)なのだろう。兜の下から黒髪が垂れていたため、まったく違和感がなかった。

 顔も布で覆っている。

 むしろ、その見るからに怪しい風貌で、よくこの陣中に足を踏み入れることができたのかと褒めてやりたいくらいだった。


 さっと口元を覆っていた布を取ったアランは、女性のような華のある笑みを浮かべながら、綾女が着ている打掛をさっさと脱がせた。


「お前?」


 安能が仰天している。

 しかし、アランは、安能をあっさり無視して、ひょろっとした腕で綾女を肩に抱えた。


「おいっ!」

「お前は、誰だ!」


 安能と家臣たちが叫ぶ。


「…………モテモテですね。まったく嬉しくありませんが」


 ぞろぞろと人が集まって来るのを、逆行するように、突然アランは走りはじめた。

 甲冑を纏っているくせに、意外に早い。


「お前、こんなことをして無事に帰れると思ってるのか!?」

「叫ぶと、舌噛みますよ……」


 アランは胸元から、瓶を二本取り出して、片手で大きく振ると、背後に投げつけた。

 爆音が鳴り響く。


「なっ……? 何だ。さっき追手に投げたあれを、また使ったのか?」

「今回はちょっと違います。さっきのは爆発。今回のは毒ガス」

「ガス?」


 背後から激しく咳き込み男たちの苦しむ声が伝わってきた。


「ガスはしばらくの間、辛いです。でも、死にません。問題ありません」

「問題だらけだろう……」

「生きてるんだからマシですよ」


 笑顔なのが、残酷だった。

 もしかしたら、アランが一番冷酷な男なのかもしれない。


「綾女様も、口と鼻を覆って!」


 綾女は言われるがまま、口と鼻を打ちかけで押さえる。

 アランは大丈夫なのだろうか。しっかり押さえていても、白い空気が目に染みる。

 見透かしたように、アランは言った。


「ああ……。私は、慣れているんです」


 ……慣れるって?

 アランは、安能の陣を出て、すぐ近くの木立に縛り付けていた馬をひいてきた。

 手際よく、飛び乗ろうとする。

 ……が、甲冑が重いのと、綾女の負担もあって、うまく乗れないようだった。

 追っ手が来る。


「下ろせ! まず私が乗る!」


 綾女は、アランの胸を叩いた。

 不承不承、ゆっくり、地上に下ろすアランを急かして、綾女は馬に跨った。


「ちょっと、綾女様。その格好、あられもない姿になっていますよ!」


 確かに。

 綾女は女物の着物姿だ。

 激しく動くには向かない格好で、無理やり馬に跨っているので、太股から下がほとんど丸見えになっていた。


「とりあえず、目を瞑れ!」

「無理ですよ」

「心の目を瞑れと言っている!」


 綾女は、アランに手を差し出す。馬に乗せてやろうとして、腕を掴むが、やはり重い。


「重いぞ!」

「ええ、本当、重いですよ。熱いし」


 アランは兜を放り投げた。兜の中に、うまいこと納めていた金髪がきらきらと明滅しながら、アランの肩に落ちる。


「あの男を討て!」


 雄叫びをあげながら、大勢がこちらに詰め寄せてきた。


「アラン!」


 思いがけない力がわき出た。

 綾女は、アランを引っ張る。

 アランは、馬の腹に覆いかぶさるように乗った。


「飛ばすからな。しっかり捕まれ!」

「えっ。ちょっと、私、結構無様な格好ですよ」

「うるさい!」


 綾女は、得意の馬術を活かして疾駆した。


「まさしく、じゃじゃ馬姫が馬を乗りこなす…………」


 無駄に機嫌の良いアランの頭を、綾女は片手で叩いた。


「誰が助けろって言ったんだ?」

「私が助けたいと思ったから、助けたんです。貴方の気持ちなど知ったことではアリマセン」


 こういう時だけ、異国人になるのだ。

 この男は……。


 だけど、なぜだろう。

 ほっとする。


 ようやく綾女の後ろに乗ったアランの息遣いに、彼が生きていることが実感できて、心の底がじんとした。 


 …………生きているんだ。アランも私も。

 まだ終わったわけじゃない。



「…………りがとう」

「聞こえませんが?」

「礼を言ったんだ。聞き返すなら、もう二度と言わない」

「はあ?」


 少しの間、すっとぼけて、アランは綾女の腰に手を回した。


「何しているんだ?」

「こうしてなきゃ、落ちちゃいますから」 


 前方から、襲いかかってくる安能勢に、アランは瓶の中の薬品を振って、即座に投げて、爆発させることを繰り返した。

 矢の一つも飛んでこなくなった頃、ようやく綾女は、その名前を口にすることができた。

 

「なあ、アラン。青玄様は? 本当に……」


 恐る恐る尋ねると、アランは、真面目な声で返した。


「もしも、そうだとしたら、どうします?」

「どうって?」

「青玄様がいなくなって、宗近様も、みんなも殺されていたら、綾女様は、どうしますか?」

「……何故、急に?」


 綾女が戸惑っていることに気付いているはずなのに、アランは続けた。


「安能を、殺しますか?」


 単刀直入だった。

 綾女は息を呑んだ。

 きちんと返さざるを得ないような迫力を、アランに感じたのだ。


「殺してやりたいさ。今だって」

「……じゃあ、殺しますか?」


 アランは、さらっと言った。

 綾女は軽く首を振る。


「まさか」


 明るい声音で否定した。

 綾女は、また馬の腹を蹴って速度を上げた。


「あくまで、殺せるものならば……ということだ」

「えっ?」


 馬の腹にしがみついているアランの顔は分からかったが、真剣なようだった。

 それが伝わってくるから、綾女も本気で答えた。


「和国は……、一つにならなければならないんだ。いい加減、戦いのない世の中を作らなければならない。その世の中を作るために、安能が必要だと、天が判断したのなら、私には何も出来ないんだよ」

「そんなふうに、私は割り切れませんけどね」

「私も、割り切れない。でも、仕方がないことだ。安能を殺して、再び犠牲者が増えるのならば、失った幾多の命も、安能の命も、何の意味を持たなかったことになるじゃないか」

「なるほど。貴方らしい。はははっ。もっと、早く貴方に会いたかったですね。―――そうしたら、私は……」

「アラン?」

「綾女様、これから先は、私に手綱を預けてもらえますか?」


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