第五章 ④
松原は、自分でも驚くほどに大きな声で呼んだ。
「布由!!」
無事だった。
布由ははにかみながらも、侍女に引かれてこちらにやって来る。
傷一つない娘の元気な姿に、松原はようやく胸を撫で下ろした。
安能からは、独断で斎条と交渉したことに対する叱責の文が届いていたが、松原にとっては、たいしたことではなかった。
いくら安能が腸を煮えくり返していたところで、今の松原の実力は、安能に近づいている。今は、安能に追従しているが、松原が挙兵したあかつきには、同調すると申し出ている国主も大勢いる。
おいそれと、安能が攻撃できるはずがない。
その点、ほぼ独立国家の体裁を取り、他国ともそれなりの誼を結ばなかった邑州は残念だった。
松原は青玄を高く評価していた。
どうでも良い男に、自分の愛娘を嫁がせるはずがない。
能力を認めていたからこそ、いざ戦になった時、怖くなって先に殺しておこうと思ったのだ。
大体、青玄が無能であれば、ここまで躍起になってまで、安能も総部を、滅ぼそうとはしなかっただろう。
「ご苦労でしたな。ジョアン殿」
娘を連れて来た異人が、布由の後ろからゆったりとやって来る。
瞳を輝かせている姿を、異人などに見せたくないと思った松原は咳払いをした。
「どうなされた?」
「えっ……」
「浮かない顔をされている」
思わず、娘のことより先に、松原が尋ねてしまうほどジョアンは憔悴していた。
「すいません。どうも腑に落ちないことがあって……」
「腑に落ちない?」
「ええ」
ジョアンは、曖昧に頷いたが、先を促すように松原が目配せすると、躊躇いつつも言葉を重ねた。
「滝王城の女性、子供、老人、農民はみんな外に出しました。安全だというところを、斎条殿は見届けていたのです」
「私と斎条殿との契約です。農民と、女性、子供には手出ししない。逃れていく武人達は、自由にする」
「その後は……?」
「総部は、確かに降伏をしました。ですが、城に残った兵士は戦うでしょうし、安能の手前、私も戦ってもらわなければ困るのです」
「どうして?」
「まず、捕らえられれば、必ず処刑される。それに、武人は逃げることを潔しとはしない」
「別に逃げたって良いではないですか? 有路殿はともかく、斎条殿は残る理由がないと思います。あの方は、開戦前から戦には消極的だったと聞きました。……安能に下れば良い。そしたら、命くらいは助かるかもしれない」
「おそらく、斎条殿は関係のない者を巻き込むことを恐れていたのでしょう。最初から、逃げるつもりもなかったはずだ。これは邪推だが、娘御をわざわざ高州などに送ったのも、そういう理由だったのかもしれぬ」
「……私には、分かりませんね」
ジョアンは額を押さえて、頭を振った。納得いかないようだった。
異国と和国の違いもあるだろうが、松原も理由を聞かれたところで明白な答えなど用意できない。
ただ、自分も斎条 宗近と同じ状況になったら、同じ選択をするだろうということだけだ。
「主イェーラーは、自ら死ぬことを認めませんから……」
「貴方は、貴方の信じる道を行けば良い。貴方には、神と共に歩む道がある」
「神は……、教えを守れば、すべての人を救済する」
「しかし、その教えは、本当に貴方の神が言った言葉なのですか? 貴方とて、他人の言葉を鵜呑みにしているのかもしれない」
「それは……」
「武人は、志に救われるもの。そう、代々私の家では伝わっている。救ってくれるのは、神ではない。私はどこの誰の言葉か分からないものより、先祖の言葉に救いを求めますよ」
松原は言い切った。
溝がある。武人の考え方と、礼教の思想には大きな溝で隔てられている。
和国でのイェーラー教の布教は難しいと、かつてジョアンは弟に言われたことがあるらしい。
「私は、ここで総部の武人を迎え撃ちます。ジョアン殿。貴方は、数人の従者と共に布由を故郷に送り届けて下さい」
「…………待って下さい! 私は青玄様に!」
ずっと、黙り込んでいた布由が初めて大きな声を出した。
よりにもよって、松原家の家臣団の前で青玄の名前を出すらしい。
「布由。諦めなさい」
松原は、眉間に皺を寄せた。
「私は、青玄様の妻です!」
「無理だ。青玄様は、万に一つでも、助かる見込みはない」
「青玄様は、降伏すると!」
「降伏は死ぬということだ。よく覚えておきなさい」
「父上!」
手塩に育てた娘に、上目遣いに睨まれる日が来るとは松原も思っていなかった。
ずきずきと心に痛みを感じながら、松原は布由に背中を向けるしかなかった。
「ジョアン殿。頼みましたぞ」
ジョアンは、特に返事はしなかったが、軽く頭を下げたようだった。